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愛媛県史 社会経済3 商 工(昭和61年3月31日発行)

四 工産物

 飲料及び食物類

 次に工業生産物をみると、酒類を筆頭とする飲食物及びその他農産加工品部門の比重が大きく、両部門で工産物全体の七割を占めている(表産2―8)。これに対し、器具・船舶・網などの生産資材類は四%にも足りない。明治初期における日本の産業構造の重要な特質として、各地で飲料食物製造工業の比重が高いことがあげられる。「物産表」によれば、全国の飲料食物生産価額は総生産価額の一二・三%であり、織物・生糸・油類その他農産加工の一一・二%を超える最大の比重を占めている(古島敏雄「諸産業発展の地域性」地方史研究協議会『日本産業史大系 総論編』所収による)。飲料食物生産価額のうち、醸造物類が八割弱を占め、残り二割余をその他食品製造が占めている。
 愛媛県では、酒・味噌・醤油・酢などの醸造物は穀類に次ぐ重要産物であり、その生産価額七五万四、二八三円は全国の二・二%を占め、全国第一三位にあった。そのうち酒の生産価額は清酒・焼酒・濁酒・その他雑酒を合わせて五五万〇、六九九円で、全生産価額の七・七%、工産物総価額の二三・八%を占める。酒造業は米作を除けば当時の愛媛における最大の産業であった。酒類価額の約九〇%は清酒であり、清酒醸造の分業化とともに清酒及び原料米の商品化がかなり進んでいたものと思われる。その他の醸造物では醤油が一〇万三、〇五四円、味噌が八万九、〇九八円の生産価額を有し、一般庶民生活の必需品として県内及び一部九州地域の需要に応じていたようである。
 次いで食品製造業に移ると、食品類生産価額計は二一万五、五四三円で、全国の二・一%を占め第一五位にある。その内訳は全国と同様に食塩と砂糖の比重が極めて高い。塩は交通不便な当時にあっては、地方的な需要を満たすため、北は青森までの多数の府県で生産されていたが、生産量の大半は瀬戸内海沿岸に集中していた。愛媛県でも波止浜(現今治市)や多喜浜(現新居浜市)を中心に二五万二、七三七石、一四万二、九三一円(食品生産価額の六六・三%)を産した。砂糖は気候の制約を受けるため、讃岐や鹿児島など比較的少数の県に産地が形成され特
産化されていたが、愛媛でも宇摩郡や桑村郡などで九二万〇、六二五斤、四万八、三四八円(同二二・四%)を産した。

 織物業

 明治初年においては織物は酒類に次ぐ重要な地位にあった。全府県計では織物の生産価額は総生産価額の五・二%を占める。織物の内訳は、綿織物六三・三%、絹織物二六・七%、絹綿交織物八%、その他二%となり綿織物が過半を占めている(山口和雄著『明治前期経済の分析』)。
 愛媛県の織物生産価額は三六万三、九六五円で、全府県中で第一六位にある。愛媛においては、織物生産価額の九九%を綿織物が占め、この期の織物業は綿織業に特化していたことが大きな地域産業の特色である。愛媛の綿織物は今治地方を中心に発展拡大し、徳川中期以降いわゆる「綿替方式」で製織され、大阪市場に向けて大量に出荷された。天保年間(一八三〇~一八四三)に入ると綿替木綿の生産は伸び、幕末期には年産三〇万反に達し、伊予白木綿として声価を高めた。松山でも文化元年(一八〇四)に入ると白木綿が生産され藩内外へ販売されるようになるが、松山地方の木綿織は、明治一〇年代まで伊予結城とよばれた木綿縞が中心であった。こうして愛媛県は近世後期には綿織物産地の一つに成長し、明治七年の生産高は、白木綿五〇万八、八五六反、一二万七、五一七円、縞木綿六六万四、〇三〇反、二一万五、一三二円に達した。織物原料である絲綿麻類も生産額一三万一、〇二三円の七〇%は綿、木綿糸で占められている。他方、生糸の生産は五六貫、一、〇五一円、絹綿交織は五〇〇反、七五〇円にすぎない。安政開港以降、全国各地で養蚕・生糸生産が急速に発展し、愛媛でも明治初年に今治・大洲・宇和島藩などが士族授産のため養蚕を奨励し技術の伝習を図るが、具体的成果のあがらないうちに廃藩置県となった。愛媛の養蚕製糸業は明治初めのこの時点では、ようやく緒に就いたばかりである。各種織物業はその後大きく変動することになるが、ともかく明治七年においては、織物業は県の全生産価額の五・一%を占める重要産業であり、この基盤の上に明治二〇年代以後の繊維産業の発展がみられることになるのである。

 製紙業

 製紙業は伊予諸藩の財政に大いに貢献し、藩によって楮その他紙原料の生産や製紙の奨励と流通の統制を受けながら発展してきた。明治七年の愛媛の紙生産額は二六万九、六四二円で、山口(長門・周防)、高知(土佐)、磐前に次ぐ地位にあり、ほぼ全国生産額の五%を占めていた。生産される紙の種類は半紙・半切紙・小半紙・下半紙が多く県内紙生産額の四七%を占めている。そのほかに奉書紙四万六、四七八束、八万六、六二八円を産し、高級紙の産地としては圧倒的な地位を占めていた。これに次いでは仙貨紙や塵紙が生産されている。

 油類製造

 油類は江戸時代には幕府の統制品目の一つであり、大坂出荷商品の中心でもあった。明治初年においても灯油のほかに食用油として、また化粧用油脂として用いられ、なお重要商品としての地位に変わりはなかった。油類原料の大半は菜種であり、その他農産物では棉実・胡麻・荏があり、採集物としては椿・榧の実などかある。さらに魚類・鯨なども製油の原料とされた。油類の生産は広く全国各地に分散していて、愛媛県の生産額は一一万一、四七〇円で、全国第一五位にあった。油類生産価額の八四%は菜種油で、残りは胡麻油三%、水油二%、棉実油二%、漁油一%となっている。県内の菜種生産高は一万二、四〇二石(四万七、七二九円)で、菜種油を七、〇六七石(九万二、三五〇円)生産しているので、二万石を超える菜種を県外から買い入れて製油していたと推測される。

 製 蝋

 蝋産業はとりわけ幕末期から盛んとなり、明治七年の段階においては、原料たる櫨の栽培・採取から搾蝋・晒し・蝋燭の製造という一連の過程がある程度地域的に分業化されていた。愛媛県はとくに櫨実の生産では全国第一位であり、一五二万九、八四五貫、七万八、一〇三円を産した。木蝋生産額も一一万五、三四三円と高い。これに対し晒蝋の生産額は三、二七一円、同じく蝋燭は一万七、一七二円にすぎない。まだこの時期にはかなりの部分があまり加工されないで、櫨実のまま、あるいは生蝋に搾って大阪方面へ移出されたものであろう。

 窯 業

 陶器などの全窯業生産価額は六万一、〇一九円で全生産価額の〇、九%である。その内訳をみると、瓦が四万三、三五一円で七一%を占め、普通の陶器は一万七、二七一円で二八・三%、土器は三八二円で〇・六%にすぎない。瓦は八八〇万枚を産し、その生産価額は全国の九・四%を占め、京都に次いで第二位にある。すでに当時から中国・四国地方の需要を対象とした主産地を形成していたことがうかがえる。陶器は茶碗・皿・鉢などの台所用品だけであり、花器・置物などの高級品は産していない。

 生産要具の生産

 多くの生産物が流通し、ごく限られた数ながら工場制手工業も現れ始める明治初年のこの段階においては、生産要具の生産が一つの地場産業として地域的発達をし始めている。「物産表」では、愛媛の諸機械類附農工具及金属細工の生産価額は六万四、三九六円で、全生産価額の〇・九%と生産規模は大きくない。金属細工類三万八、四四八円の内には釜などの生活用金属製品も含むが、大半は釘や鮑などの土木・建築の資材・要具である。諸機械類二万〇、五九四円のうち車両類は人力車一六三両、三、九一九円があげられているものの荷車類は示されていない。愛媛でも荷物運送車両より乗用車両が先に発達したことが知られる。鍬・鎌などの農具類は一万七、八〇三円を産するが、農産加工要具は紡績車・木綿織機がわずかに示されているのみである。農産加工業の規模からみて、かなりの加工要具が大阪などの中心産地から移入されていたものと推察される。

表産2-8 工業生産物

表産2-8 工業生産物