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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 果汁(ジュース)加工の開発


 青果連の果汁開発

 戦後果実加工の新分野として登場したのは果汁加工である。昭和二六年、青果連会長(桐野忠兵衛)は柑橘事情調査のため渡米し、アメリカの果汁産業の隆盛を見聞して帰国後、国産柑橘の果汁化構想を推進した。昭和二七年県の積極的な支援を得て、三津中須賀に工場を建設した。同地にはすでに温泉青果農協の缶詰工場があり、設備や技術の利用協力が可能な環境があった。昭和二七年産の温州ミカンから果汁製造が開始され、わが国果汁加工の草わけとなった。当初は各郡の会員農協が、それぞれ果汁を搾汁して青果連工場に送り製品化(商品名ポンジュース)する仕組みから出発した。その後次第に青果連の搾汁、製品化一貫体系となり、会員は原料供給の責任を果たすことになった。果汁工場は、搾汁・濃縮・冷凍・製造とその工程ごとに機械化、装置化を必要とするものであり、設備投資も巨大なものとなるが、常に技術、設備の両面において、わが国果汁業界のトップ工場として発展、現在に至っている。(資料編社会経済上二五九頁)

 果汁企業の進出

 青果連の果汁事業開始につづいて、昭和二八年西宇和郡保内町に日本柑橘工業株式会社が果汁加工事業(夏柑果汁主体)を開始した。

 果汁加工の伸長

 果汁の消費は、国民の健康志向につれて、果汁率一〇%~二〇%の薄物から次第に高果汁化に推移し、一〇〇%天然果汁の普及をみるようになった。また中近東産油国への輸出も進展した。こうした果汁需要の急速な伸長によって、温州ミカンの用途別需要に占める果汁向けの数量は、缶詰原料をはるかに超えるようになり、温州ミカンの需給調整にとっても、最も重要な柱となっている。