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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

二 海外留学生・視察者の派遣


 海外留学視察者の派遣

 先進国の農業を見聞しその片影を伝えた人物は、明治以前にも土佐の漂客ジョン万次郎や、慶応年間に渡米し帰国してから大農化の必要を力説した拓植善五、津田仙らがあるが、明治政府により農学を修める目的で海外に派遣されたのは、明治四年に民部省から米国に派遣された鹿児島藩士族の岩山壮太郎と山口藩士の三隅一之助の二人が最初である。その後、海外への留学生・視察者の派遣は明治二三年まで続けられ、派遣国も米国のほかロシア・ドイツ・オーストリヤ・イギリス・インド・フランス・オーストラリアなどにおよび、修学の対象も普通農事のほか畜産・養蚕・製糸・造園・林業・茶業・棉作など農業の全分野に拡大した。

 松山藩士・池田謙蔵

 留学生・視察者は、先進国の豊かな知識・技術のほかに新しい農産種苗や家畜・農具を持ち帰り、   明治農業の発展に大きく貢献した。本県の池田謙蔵もその一人である。池田は旧松山藩士で三上新左衛門(一八一八~一八七六、松山藩主顧問、置県後に開塾)の門下で儒教を修めた熱心な道学信者であるが、明治四年に同藩士の野中久徴とともにアメリカに留学し、帰国後は大蔵省の勧業寮に勤めた。明治九年二月に、米国フィラデルフィヤで開催の万国博覧会に、副総裁兼審査官として派遣された西郷従道に随行した八四名の一人に選ばれて渡米し、博覧会用務のほか米国南部の精米・棉作などの調査と農具の購入を拝命し、先進国の精米・棉作の実態、技術を習得するほか、明治一〇年に総額五千円(一五六個)の農具を輸入している。
 明治一二年に勧農局員、三田育種場員、東京近郷の有志らと東京農談会を創設し、明治一四年に設立の大日本農会には、勧農局員として設立発起人の一人に加わり、創立後は参事の要職に就任し、農業団体の設立、その他の農業諸問題について全国を遊説し、大日本農会の分裂(明治二八年に大日本農会と全国農事会に分裂)後も全国農事会にとどまり、幹事として活躍した。