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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 小田深山

 自然景観

 小田深山は小田町の南東部を占める山岳地帯である。四周を一二〇〇mから一五〇〇mの険しい山々に囲まれ、その中を仁淀川の支流にあたる菅行川が流れ、小田深山溪谷を形成する。仁淀川の本流ぞいとも、小田町の中心部の小田川ぞいとも険しい山で隔てられた秘境であり、小田深山の名にふさわしい。この地が小田深山と呼称されるようになった起源は詳らかではないが、大洲藩が寛永年間(一六二四~四四)、この地を「御山」として、藩民の自由伐採を禁じたところに起源するのかもしれない。小田深山の名が地図上に表われるのは、明治三七年(一九〇四)測図の五万分の一地形図に小田深山と出ているのが最初である。
 小田深山の観光の中心は小田深山溪谷であるが、その地質は北部が三波川系の結晶片岩、南部が秩父古生層であり、その中間に輝緑凝灰岩をはさむ。渓谷の中心である六郎から渕首、さらに平川にかけてはチャートに赤色千枚岩・輝緑凝灰岩などが互層をなし、色彩の変化に富む古生層特有の美しい岩肌を見せている。チャートには石灰岩が付随しており、深山洞・雨霧洞・鬼ケ臼洞・カマド穴などの鍾乳洞が口を開いている(図7-22)。
 小田深山溪谷の地形上の特色は、河床勾配が小さく、河床断面も谷底の平たい緩やかなV字谷をなすことである。溪谷中の主な景勝地には、本流沿いに安芸貞の渕・回り渕・曲り渕・藤見河原・桂渕などがあり、支流沿いには、甌穴のある鬼ヶ臼付近、生草谷の五色の滝付近、銭原谷の下流、桂の谷の下流付近などがある。
 小田深山溪谷の自然景観で最もすぐれているのは、その植物景観である。小田深山は全域が国有林であり、明治以降天然林が伐採され、すぎ・ひのきの人工林が植栽されてきたが、溪谷沿いと山頂付近には、まだ天然林が保存されている。溪谷沿いにはかえでやかつらの広葉樹を主体に、それにつが・もみなどの針葉樹が混合している。春の新緑、夏の深緑、秋の紅葉と、四季おりおりにその景観は変化するが、特に赤いかえでと黄色く色づくかつらの織りなす紅葉が溪流に映える様は絶景である。六郎付近の溪谷には明治末年に植栽されたしらかば林があり、県内では唯一のものとして珍重されている(写真7-25)。
 天然広葉樹がうっそうと繁る小田深山は野生動物の宝庫でもあった。広葉樹林の減少につれて、いのしし・てん・たぬき・きじなどの生息地は限定され、その数も減少してきたが、溪谷を飛びかうかわがらす・きせきれい・しじゅうがら・やまがらなどのさえずりは観光客の心をなごませてくれる。溪谷にはわが国で生息分布の南限をなすはこねさんしょううおやあまご(あめのうお)・にじますなども生息している。

 人文景観

 伝説によると、小田深山には源平屋島の合戦に敗れた平家の落武者達が難をのがれて隠棲し、そこに桶小屋・ハナツキ・温水・ゼニ原・柾小屋・平川・六郎などの集落をなし、一時はその数五〇戸から六〇戸を数えたという。また平家の落武者の定住する以前には、二~三の木地屋が先住し、平家の落武者も農業の傍ら木地挽に励んだともいう。四周を険しい山々に囲まれたこの地は、平家の落人伝説を残すにふさわしい秘境であった。
 藩政時代は大洲藩領となり、元和年間(一六一五~二六)の初めころ、中川村庄屋大野仁兵衛が深山の開墾を願い出て、大瀬熊野滝の百姓を召し連れて四二軒の家を建て開作したと、大洲旧記には誌されている。しかし、谷底でも標高七五〇mから一〇〇〇mにも及ぶこの地での農業開発は容易ではなかったとみえ、その後彼等に関する記載はみられない。
 しかし、とち・けやきなどの良材に富むこの地は、木工細工を生業とする木地屋にとっては絶好の生活舞台であった。木地屋の発祥の地と考えられている近江小椋郷にある筒井神社の木地屋の戸口調査である氏子馳には、明暦三年(一六五七)「大津正小屋一〇九」の記録がある。以後同調査によって、幕末に至るまでの小田深山の木地屋の戸数がわかる。小田深山は藩政時代を通じて、木地屋の主要な生活舞台であった。
 明治四年廃藩に際して小田深山は全域が官山となる。小田深山古記の官林内拝借地居住名簿によると、明治一二年(一八七九)六郎に二戸、桜ヶ内に二戸、六本橡に一戸、渕首に一戸、桶小屋に一戸、平川に五戸、正小屋に一戸の計一三戸が官山内に居住しているが、これらは木地挽を生業としていた模様である。明治一四年(一八八一)、正小屋の小椋利八より愛媛県令にあてた「官林雑木之内御払下之儀に付願」に、

「私共の義は往古より木地挽営業に付従来前記小田深山に居住し、官林の栗木を願受木地挽を以て生活罷在候処、御一新後より、職業規則御廃止に相成候に付ては無産と相成、木地仕成の他 (欠)慣の技術無之より活計(ママ)の道を失い困窮仕候……」

とあり、栗五〇本、はだつ木二〇本を払い下げてもらっているのは、この間の事情をよく物語っている。
 小田深山の森林資源は、藩政時代以来くらがり峠経由で小田川沿いに出され、そこより肱川の流送によって大洲・長浜方面に流送されていたが、その量は微々たるものであった。小田深山の木材が大量に伐採されだしたのは、明治四一年(一九〇八)大野ケ原の陸軍砲兵演習場へ、久万町の落出より小田深山経由で砲車道が開通して以降である。しかし、この砲車道も明治四五年(一九一二)大野ケ原の演習場が閉鎖されるに及び、廃道となる。ここに久万落出方面に搬出されていた木材は、その輸送路を失い、小田深山の木材の伐採は停滞する。
 営林署の直営生産が開始されたのは大正七年(一九一八)以降である。作業員は高知県より主として導入され、ここに林業労務者の定住形式による木材の伐採・植林が行なわれるようになる。先住民の木地屋も営林署の作業員となり、次第に木地生産をやめていく。木材の搬出路としては、大正一二年(一九二三)森林鉄道宮原線が開通、従来のくらがり峠経由で牛車による搬出にとって変わる。この森林鉄道は昭和二八年廃止となるが、変わって昭和三六年その跡に新しい林道が開通した。森林鉄道と、その跡に建設された新林道の開通には小田町本川出身の泉賢盈の功績が大であった。
 小田深山の文化的観光資源としては、木地屋の生活の跡、旧砲車道跡、山供養の跡、獅子越峠の森林鉄道開設記念碑などが注目される。木地屋の生活の跡は、各地に残る木地屋の墓地に偲ぶことができる。柾小屋には元文四年(一七三九)の俗名木地屋又右衛門の墓石があり、くらがり峠の南麓にあたるハナツキには木地屋の返脚家の墓地がある。返脚家の由来については、伝説によると、小田深山の小椋某の家で、菊の紋のある木地屋の祖始といわれる惟喬親王の系譜が発見され、あまりに恐れ多いので、その系譜を皇居へ返しに行き、小椋の姓を返上して、それ以降返脚を名乗ったという。
 旧砲車道跡はブナ峠付近のものが特に風情がある。山供養とは、山で事故死したものは山の神の怒りにふれたためであるので、それをしずめるための供養である。その跡にはすぎ・ひのき・とちなどを植林している。このような場所が七か所あり、七供養といわれている。獅子越峠の記念碑は、前記の泉賢盈の功績をたたえたものである。この峠は眺望絶佳であり、遠く瀬戸内海を望むこともできる。

 観光開発

 小田深山の観光開発が盛んになったのは昭和四〇年代以降である。同四一・四二年の両年小田町が愛媛大学の地理・地質・動物・植物・探険などの学者を招き、小田深山学術調査を実施したのは、小田深山の観光開発の第一歩をなすものであった。昭和四三年に刊行された『小田町の自然と人文』には、観光資源の評価と共に、将来の観光開発への提言がなされている。
 小田深山の主な観光施設としては、昭和四八年八月に開設された深山荘と翌四九年五月に営業開始した小田深山スキー場がある。深山荘は渓谷探勝の中心地である藤見河原にある。小田町直営の宿泊施設であり、宿泊定員は五〇名である。宴会場や食堂もあり、名物のたらいうどんやあまごの塩焼料理を賞味することもできる。安芸貞の渕から藤見河原にかけては、溪谷の左岸に遊歩道が昭和四八年小田町によって建設された。
 小田深山スキー場も小田町の直営である。コースは四コースあり、初心者から上級者まで滑降できる。リフトはチェアーリフトが一基、ロープリフトが二基ある。昭和五〇年一〇月からはサマースキー場も開設された。付属施設としては、スキー貸出所・駐車場・食堂・宿泊施設としての獅子越山荘などがある。貸スキーは昭和五七年現在七五〇台あり、駐車場は二か所で乗用車六〇〇台が収容できる。獅子越山荘は一二月から三月の営業で宿泊定員は九〇名である。なお、スキー場にはキャンプ場も付設されており、夏季の利用者が多い。

 観光客の入込

 小田深山への入り込み観光客は、新緑の五月、納涼と深緑を求めての七・八月、紅葉の一〇・一一月、スキーシーズンの一・二月の四つのシーズンに多い。定期バスはないので、多くの観光客は自家用車によって入り込む。ほか、町営のマイクロバスが年間を通して月曜と金曜に一日二往復運行されている。
 観光客の入り込むコースは、①小田町から獅子越峠を経由して入るもの、②旧砲車道に沿う林道に沿って、久万町落出から入るもの、③柳谷村の古味から遡るものがあるが、四季を通じて獅子越峠経由で入り込む者が最も多い。冬季の積雪時には三つの道路とも遮断されるが、小田町のブルドーザーで、①の獅子越峠のルートは除雪作業が行なわれ、スキー客の誘致をはかっている。除雪作業は、営林署の小田製品事業所のある渕首までしかなされないので、この間、深山荘は閉鎖される。一二月~二月の獅子越山荘の運営は、この深山荘の従業員によってなされる。
 小田深山を訪れる観光客は松山方面から来る者が最も多い。スキーシーズンには南予方面からの者が四〇%を占めるが、他のシーズンは松山方面からの者が圧倒的に多い。小田深山の観光地は、松山から乗用車で二時間程度の時間距離にあり、県都松山市民の観光保養地としての機能を果たしている。今後の発展は、交通路の整備によって、県都松山市と結合を強めることにかかっている(表7-38)。

図7-22 小田深山の地図(篠原原図)

図7-22 小田深山の地図(篠原原図)


表7-38 小田深山の月別入込観光客数(昭和56年度)

表7-38 小田深山の月別入込観光客数(昭和56年度)