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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

四 柳谷村中久保の萱講


 萱講とは

 第二次世界大戦前の上浮穴郡の民家は、その大部分が萱葺屋根であった。その屋場葺きかえの作業は集落の共同作業で行なわれるのが普通であった。この萱葺屋根の葺きかえ作業の組織を萱講という。萱講の組織は全国の山間部に普遍的にみられたが、県内でも東予から南予の山間部にかけてひろく見られた。
 柳谷村には三四の集落がみられたが、これらの集落には、昭和三〇年ころまではそれぞれ萱講が組織されていた。大規模な集落には二つないし三つの萱講が組織されているものもあった。この萱講は、昭和三〇年前後に相次いで消滅するのであるが、それは萱葺屋根が瓦葺屋根に替わったことと、共同体組織の変質に関係するといえる。


 中久保の共同作業 

 中久保は柳谷村の山間部に点在する集落の一つである。役場のある落出から、仁淀川の支流黒川を遡ること一四・五に㎞で、国鉄バスの終点古味に到着するが、その古味から山越えで二㎞、大野ケ原にほど近い山腹斜面に立地するのが中久保である。古味から中久保まで自動車道が通じたのは、ようやく昭和三七年に至ってであり、柳谷村のなかでも最も交通不便な集落であった。一八戸の家が標高八六〇m程度の南向きの山腹斜面に立地する。この集落は焼畑耕作が盛んであったが、この焼畑耕作は村落共同体的な体制のもとに営まれていた。その共同体を支える一つの要素に萱講があった。
 中久保の共同作業には、イイ・モヤイ・テアイ・コウロクなどがあった。イイとは農家間の短期の労力交換であり、田植などのとき同じ日数の労力が互いに交換された。モヤイは集落全体で行なう共同作業をいう。その典型は焼畑の火入れ作業や年間三回の道普請の時になされた。焼畑の火入れ作業は延焼防止のため、山の面積に応じて何人かの共同作業を要した。それは、集落全体で日時を決めて一斉になされた。「道ほり」といわれる道普請は春・夏・秋の年間三回行なわれ、集落から周囲に通じる道路の補習作業が一八戸の男子の共同作業によってなされた。テアイは個々の農家に対する労力提供であり、屋根葺作業や家普請の時になされた。コウロクは労力奉仕であり、村の公的な仕事への出役や、病人の出た家への労力奉仕がなされた。


 中久保の萱講

 「屋根は部落のもの」と古老がいうように、中久保の萱葺屋根の葺かえ作業は、集落住民のテアイによってなされた。萱葺屋根は二五年から三〇年程度で更新期をむかえたので、戸数一八戸の中久保では毎年あるいは二年に一度の割合で屋根葺き作業が行なわれた。その年にどの家の屋根葺作業をするかは、集落の役員が屋根のいたみ具合を見て決定した。
 屋根葺きをする家が決定すると、一二月の一〇日前後の晴天を見はからって、各戸の男子が一斉に萱刈りに出かける。この時期に萱刈り作業がなされたのは、農作業も一段落していたことと、この時期の萱が実入りがよく屋根葺に最も適したことによる。この集落には共有の萱場はなかったので、各自所有地とは関係なく、任意の場所で萱刈り作業をした。萱場は集落から五〇〇mから一〇〇〇m程度離れた焼畑跡地が選ばれた。それは耕作放棄されて間もなしの焼畑跡に最も良い萱が成育したことによる。集落から五〇〇m以内の萱は、各戸が肥育用に飼育している牛の飼料に刈られるものが多く、屋根葺に耐えるような萱がなかったことによる。
 刈り終えた萱はその日のうちに当屋に運び込んだ。一人三荷の萱を運び込むことが義務づけられていたが、一荷とは負い子に背負える量であり、三尺余の縄で束ねたもの四束が一荷といわれた。
 屋根葺には萱以外に、タル木やエツリを止めるわら縄、屋根葺作業の足場を組む杉丸太、その上の作業道である道板、屋根の上で作業をする時に使う道水、足場を組んだり道木を止めるのに使用するかずらなどが必要であった。このうちわら縄は各戸が五〇尋を一束として、一束ずつ提供した。残りは当屋で三〇束調達した。かずらは集落の住民二人が出役して山から採取してかえり、これを提供し、杉丸太は各戸二本ずつ提供する義務があった。道板は集落に保存されている専用のもみ板が使用された。
 屋根葺き作業は年内に行なわれるが、屋根葺きの日には専門の屋根屋が雇われ、集落の住民はその指示にしたがって屋根葺きを手伝った。一軒の屋根を葺きかえるには四日から五日を要するのが普通であったが、この間は各戸から一人はテアイに出ることが義務づけられていた。
 屋根葺き作業はまず軒下に足場を組み、道板を設置することにはじまる。次いで古い屋根萱をとり除く。この古い屋根萱の一部は新しい屋根の材料として使われるものもあったが、大部分は肥料として常畑に投入された。葺きかえの萱はタル木に取りつけられたエツリにわら縄で軒先から上へと順次とめられていく。タル木は真竹を四つに割ったものであるが、これは耐用年数をへているものが取り替えられる。エツリは女竹を用いるが、これはすべて取り替えられる。二段目から上の萱は屋根に道木を通し、その上で作業をしていく。かくして棟まで一五段くらいの萱が葺きかえられていく。
 家屋には母屋以外に、倉・納屋・駄屋などがあったが、母屋以外は萱講による葺きかえの対象にはならなかった。倉・納屋・駄屋などは栗の木を厚さ二分、幅ニ~五寸、長さ七~八寸程度にそいだソギで葺かれたり、萱で葺かれたりしたが、いずれも個人によって葺きかえられた。昭和になっては、これらの屋根はセメント瓦になったり、トタン屋根となっていく(写真7-15)。
 中久保の萱講は昭和三〇年ころを最後に消滅するが、それは、屋根葺き材料が萱から瓦に変化したことによる。萱講にかわって瓦講が結成されたのは昭和三二年であり、各戸の積立てた金で昭和四〇年ころまでには順次瓦屋根に葺きかえられていった。瓦屋根の葺きかえ作業も、全戸からテアイに出て葺きかえられた。
 萱講をはじめ、生産活動や日常生活における相互扶助の組織がととっていたのは、不利な環境に生きる住民がお互いに助け合うことによって、その生活を守ってきた一つの証であったといえる。