データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 上浮穴郡の木地屋集落


 木地屋とは

 木地屋とは轆轤をもって、盆・椀・杓その他の円形雑器を作る工人である。その呼称は、正倉院文書では轆轤工、中世には挽物師、近世には木地師、明治以降は木地屋と変遷したので、現在も木地師と呼ばれる地方もある。
 伝説によると、彼等は惟喬親王を祖師とし、承平五年(九三五)御綸旨をいただき諸国山々切り次第という許しを得て、近江小椋郷から全国各地にちらばったという(写真7-13)。全国に散在する木地屋は小椋郷の筒井神社の氏子である。本山の筒井神社からは、氏子駈と称して、数年に一度全国の木地屋の戸口調査をし、木地免許・往来手形・宗門手形・縁起書・御綸旨の写しなどが交付され、上納金を徴収してまわった。氏子駈の制度は天正四年(一五七六)に始まったといわれるが、現在筒井神社には正保四年(一六四七)から明治二六年(一八九三)までの三二冊の氏子駈が保存されている。


 主な木地屋集落

 良材を求めて移動生活をこととした木地屋の生活舞台は険しい山岳地帯であった。北は奥羽山脈の南部から南は九州山地まで、彼等の足跡は全国の山岳地帯に広く残っている。愛媛県内では、急峻な山地の連なる中予と東予の山岳地帯が、その主な生活領域であった。近世以降の木地屋集落としては、面河村の大味川・笠方、美川村の東川・二箆・大川、柳谷村の西谷、久万町の直瀬、小田町の小田深山などが知られ、東予では銅山川上流域の諸村や、西条市の大保木、小松町の千足山、丹原町の桜樹など、石鎚山麓の深山にも木地屋の居住していたことが知られている。
 木地屋は良材がつきると移動していったので、その住居は仮小屋のような状態であり、集落内の居住者数にも大きな変動があったと考えられる。江戸時代の大洲随筆の小田深山の項には、

山中に木地挽きというもの有、ロクロ師也、いささかの小屋をしつらい住居に妻子を養うとぞ、みやまの木をひきて、椀鉢の類を造り売る也、近辺の木を挽尽くす時は又わきの山へ小屋を造して住とぞ、同じ職のものありて縁組などする事なり、誠に同じ世に生きるもかかるさびしき山奥に訪ね来る人とてもなく、只身一つに日を送るさまいとかたきわざになん……

とあり、当時の木地屋の生活の一端がうかがわれる。小田深山の木地屋の数については、氏子駈による調査に、明暦三年(一六五七)一〇九、享保一二年(一七二七)三三、元文二年(一七三七)一三、寛保二年(一七四二)一八、明和二年(一七六五)二二、安永三年(一七七四)六、寛政九年(一七九七)二三、文政一〇年(一八二七)三と記載されており、この間に木地屋の数に大きな変動があったことがわかる。
 木工細工を生業とした木地屋も、良材がつき、また移動が次第に困難になるにつれて各地に定着する。そのような木地屋の集落と考えられるものには、柳谷村西谷の木地、美川村二箆の木地、同大川の木地などがあるが、これらの集落は、いずれも標高七〇〇~八五〇mに位置し、耕境限界に近い。明治以降は木地細工の傍ら農業を営み生活を維持してきたが、木地細工の売れ行きが不振になるにつれて、営農の不利なこのような場所での生活は困難となり、次第に都市域などに挙家離村していく。
 木地屋は小椋郷をその出身地とするので、小椋姓を名乗る者が多い。現在小椋姓を名乗るものを中予地区の電話帳(昭和五七年版)より集計すると久万町一三、美川村一〇、面河村七、小田町一、柳谷村○に対して、松山市には八七もあり、居住地としては不利な環境にあった木地屋の多くが、都市域に移住していったことがわかる。

        
 面河村梅ヶ市
        
 木地屋の活動が第二次世界大戦後まで見られた代表的な地区は面河村の笠方地区である。主要集落が湖底に沈んだ笠方には一二の小集落が点在していたが、このうち、梅ヶ市と人行、それに小網が木地屋の居住する集落であった。
 梅ヶ市は面河川の支流妙谷川の源流近くの標高七五〇mの谷底平野に位置する集落である(写真7-14)。役場のある渋草からは四㎞を隔て、面河村のなかでも交通不便な集落の一つであった。この集落は明治中期までは小椋姓のみの住民からなる集落であり、彼等はいずれも木地屋の子孫であったという。小椋姓を名乗る木地屋がいつこの集落に定着したかは不明であるが、口碑によると久万町の直瀬や美川村の大川嶺の山麓から移住して来たともいうので、江戸時代のある時期に良材を求めてこの地に定着したのではなかろうかと推察される。明治中期以降、小椋姓以外の者が移住してきたが、昭和二七年には二五戸のうち小椋姓は一八戸を数えた。小椋姓を名乗る者でも、すでに大正年間には木地挽をやめていた者も多く、大正年間から第二次世界大戦後まで木地挽をしていた家は五~六戸であった。その木地挽も昭和三〇年ころには大半の者がやめてしまう。昭和三〇年ころのこの集落の主な生業は焼畑耕作と製炭業、それに林業労務などであった。
 木地屋は定住生活に入ったのが新しく、また農林業を専業としたのではないので、土地所有規模は一般に零細であり、その所有格差も小さいのを特色とした。相馬正胤が昭和三五年現在の梅ケ市の土地所有状況を明らかにしたところによると(表7-31)、このような特色が如実に示されている。
 大正年間に木地挽をしていた五~六戸の家は、すでに木地挽専業ではなく、農業や仲持ち(荷物の運搬)、あるいは製炭業との兼業であり、晴天の時には農林業を営み、雨天時には木地挽をするような者が多かった。当時の轆轤には、二人挽き轆轤と足踏み轆轤があった。二人挽き轆轤は一~二人の補助者が座ってロープを引いたので、シリコ挽ともいった。足踏み轆轤も補助者が足で踏んで轆轤を回すことが多かった。木地屋は技術を他人には伝授しなかったので、木地挽の技術は親から子へと伝えられた。補助者も他人は使わなかったので、妻か子供が手伝った。木地屋の妻は特殊な技術を要したので、木地屋の嫁は木地屋からめとり、木地屋に一般農家の娘が嫁ぐことは、第二次世界大戦前にはほとんどなかった。
 木地屋はその祖師を惟喬親王とあおぐ誇り高き職業集団である。どの家にも木地屋文書があり、それを桐の箱に入れて、うやうやしく仏壇に供えていた。木地屋文書には、本山の筒井神社から交付された木地免許状・往来手形・宗門手形・縁起書・御綸旨の写しなどがある。これらは明治以降は効力を持たなくなったが、特殊な職業集団に属するものの象徴として、親から子へと伝授されていった。木地挽の盛んなころには、轆轤を「軸さま」と呼んで特別神聖視した。木地挽に使う各種のカンナは、一般の大工の使う工具とは異なっていたので、木地屋が各自でフイゴを使って作製した。旧暦の一一月六日にはフイゴ祭が行なわれ、木地屋は一日仕事を休み、轆轤にお神酒を供えて歓談を共にした。
 この梅ヶ市は、現在人口の激減している過疎集落の典型である。昭和三五年に二五戸一四三人であった集落は、四一年には一七戸七四人の集落となり、五七年には九戸二五人の集落に縮小してしまった。うち小椋姓は四戸一二人である。離村先の大部分は松山市内であるが、離村戸のなかには墓も移し、ほとんど故郷に帰って来ない者もいる。残存戸は養蚕業や花卉栽培、いちごやプラムの栽培に活路を見いだそうとしているが、学童の一人もいないこの集落は、その存続さえ危ぶまれている。木地屋の伝承は歴史のかなたに次第に風化されていき、それを尋ねる人もまた希である。


 木地の生産と販売

 昭和四二年梅ヶ市を訪れた時には、木地挽の経験者が何人かいたが、昭和五七年この集落を再訪していると、木地挽の経験者は一人も生存していなかった。松山市に転出している小椋カヨ(明治三六年生)は梅ケ市で木地挽の補助経験をしたことのある唯一の生存者である。彼女は父親の轆轤挽きの手伝いをよくしたという。彼女は二〇才の時、小網の小椋家に嫁入りしたが、ここにも当時三戸の小椋姓を名乗る木地屋が居住していた。小網の木地屋は明治年間に久万町の嵯峨山から移住してきたとの伝承をもつという。
 現在面河ダムのほとりにある人行は、昭和四一年無人の集落となったが、大正年間には小椋姓四戸からなる木地屋の集落であった。伝承によると、集落の起源は明治の初期に割石峠の付近より四戸の木地屋が移住してきて定着したものという。四戸の通婚はいずれも郡内の木地屋との間に結んでいる。この集落に最後まで居住していた小椋京之臣(明治三六年生)は、現在松山市中村町に独居するが、昭和三五年ころまで木地挽をしていた現存する唯一の木地屋である。
 小椋カヨと小椋京之臣の二人の話を総合すると、大正年間、まだ木地挽のはなやかなりしころの木地生産の実態がある程度復元できる。大正年間の木地の原木は国有林の払下げや民有林に依存していたが、明治年間には官山には自由に入山できたという。木地挽の対象となった原木は、けやき・えんず・くわ・くり・ぶななどであった。けやき・えんず・くわからは盆や茶器・碁器などを造り、くりからは取りばち・モミすくい、ぶなからは木皿を造ることが多かった。国有林にはけやきの切株に良いものがあり、これを払い下げてもらうことが多かった。建築材として伐採するけやきは地上一尺ないし一尺五寸で伐採するが、この切株から木目の佳い盆がいくつもとれた。くりやぶなは立木のまま購入し、幹の部分を主として利用した。民有林の原木の購入は有用材を見つけて、それを抜伐りしたものもあるが、山全体の立木を購入し、製炭などしながら、良材のみ木地原木に利用することもあった。
 けやきの盆の生産工程をみると、以下のごとくである。まず山元で切株を伐採し、それを一箇の盆がとれるように荒取りする(図7-18)。荒取りしたものは、かずらでしばって家にとって帰り、いろりの上のすのこの天井で数か月乾燥させる。充分に乾燥させてくるいがなくなると、轆轤にかけて製品に仕上げる。轆轤の爪には、まず盆の内側を打ち込み、外側を仕上げる。次いで外側にハメを打ち込み轆轤にとりつけて内側を仕上げる。仕上げ用のカンナには、荒ガンカ・丸ガンナ・仕上げガンナなど工程に合わせた四種類程度のものがあった。最後の仕上げはとくさで艶出しをした。上塗りはほどこさず、木目の美しさが製品の価値を高めたという。
 ぶなの木皿の生産工程をみると以下のごとくである。まず山元で立木が伐採され、それが大割された状態で製材工場に出される。製材工場では横びきされ、木皿の型に小切りされる。さらに、はつり・まるめ・しりきりの工程を経て、轆轤にかけられ内くりがなされる。木皿は荒ぐりのままで桜井に出荷され、そこで仕上げられ、塗り物に加工された。大正年間の木皿の生産は、桜井の漆器業者に支配されたものが多かった。漆器業者は水車をかけるのに適当な場所に、水車動力の製材工場と水車轆轤を設置し、そこに多くの人夫を雇い木皿の生産をさせた。木地屋は水車轆轤で内ぐりするものに雇われ、その妻ははつりからしりきりの工程に雇用された。梅ヶ市や人行の木地屋は村内のみならず、遠く美川村の大川嶺の山麓や、宇摩郡の新宮村などへも補助者をつれて出稼した。これらの出稼先では、小屋住みの生活をしたが、そこで木地屋を支配したのはいずれも桜井の漆器業者であった。
 桜井の漆器業者に支配された木皿の生産以外の製品は、松山や大阪方面、または広島県の宮島などへ出荷された。明治年間には地元の製品をたずさえて京阪神方面に販売に行った者もいたが、黒森峠の北麓の問屋あたりに出荷されたものが、中央の業者によって買い取られるものが多かったという。

表7-31 面河村梅ヶ市の土地所有状況(昭和35年)

表7-31 面河村梅ヶ市の土地所有状況(昭和35年)


図7-18 盆と木皿の荒取りの工程

図7-18 盆と木皿の荒取りの工程