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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 概説


 自然環境と歴史的背景

 中央構造線によって形成された伊予灘の直線的な海岸は日本屈指の断層海岸である。東西に走る四国山地の支脈で黒岩岳・牛峰・黒山・壺神山がそびえ、これらの嶺を源に、断層崖の急斜面は短い必従谷によって開析されている。急勾配の河川は、およそ五〇〇m間隔の大小、二〇ばかりの河川となって海に注ぎこんでおり、その周辺に農耕地が拓け集落が点在している。上灘地区の中央を流れる上灘川が最大の河川であり、下灘地区の豊田川流域と共に小規模ではあるが、水田地帯が分布している。両河川とも河口付近には人家が密集し、双海町の二大中心地をなしている。双海町における大部分の集落は、海抜高度一〇〇~三〇〇mの部位に階段状に分布する緩斜面上に立地している場合が多い。大栄・松尾部落は三五〇mの高位に位置し、富岡・日喰・奥東・奥西・池窪・富貴が中位に、本谷・石の久保・閏住・本村・満野などの集落が一〇〇mの低位に位置している。立地箇所は地すべり多発地帯にあって、結晶片岩の地すべりによって形成された緩傾斜面上である。
 双海町はもと大洲藩の所領に属し、高野川村(六五石)上灘村(六六七石)高岸村(五一三石)大久保村(二○六石)串村(四五六石)石畳村(三四九石)の六か村であった。明治二三年(一八九〇)高野川・上灘・高岸村が合併し上灘村となり、大久保・串・石畳村が合併して下灘村となった(明治四一年石畳村は、喜多郡満穂村、現内子町に編入)。昭和三〇年上灘町・下灘村が合併して双海町となり現在に至っている。
 藩政期より上灘地区の灘町が内子・中山方面からの木臘・薪炭などの林産物を上方へ運ぶ在町としての機能を有してきたが、現在の双海町は「みかんと漁業の町」をキャッチフレーズとしているように農漁業が中心である。昭和五五年の町内純生産の構成比をみると第一次産業の三六・九%は他町村と比べて高い。経営耕地面積も少なく、そのほとんどが山地急斜面の柑橘栽培によるものである。零細経営のため生産性は低く、また柑橘の生産過剰によって農業所得は伸び悩んでいる。最近、レタスやたまねぎなどの近郊野菜栽培や、落葉果樹栽培、畜産等の多角化を図り複合経営を目ざす動きもみられるようになった。
 伊予灘における漁業の重点は、漁法の近代化によって主漁場が地先から沖合へと移り、伊予灘一円を漁場としているが、資源の減少と燃料油の高騰によって苦しい経営となっている。直線状の断層海岸は漁港の発達を阻害してきたが、中核的漁業基地として豊田漁港が昭和五六年には完成し、西日本屈指の漁港として脚光を浴び、八〇戸の漁民団地とともに新しい時代を迎えている。双海町の漁業は、小網地区の共同経営のまき網漁業と下浜地区の個人経営の小型底曳網漁業に特色がみられ、一部宇和海の外洋型の性格を有しているといえるが、宇和海のような真珠養殖・魚類養殖による体質改善は期待できない。
 鉄道及び国道三七八号の整備は汽車やマイカーによる松山市・伊予市への買い物や通勤を容易にして松山経済圏域の強い影響を受けることになった。灘町や上浜地区の商店街は、日用雑貨品を中心とした小規模小売店が多い。歴史をふりかえってみると、灘町は大洲藩の下浮穴郡十三か村(双海町・中山町および内子町・広田村の一部)の年貢米の集散地として繁栄したが、犬寄峠の県道開通により物資の流通が変化したことと、特産であった木蝋や木炭・薪といった林産物がエネルギー革命のなかで価値を失っていったことによりさびれた。大正元年(一九一二)の海岸沿いの県道建設と昭和一〇年の鉄道開通は、ソラからハマヘという住民生活の方向を決定づけ、浜に小規模な街村をかたちづくってきた。国道三七八号が整備され、続いて国鉄内山線の開通もま近い。こうした交通の発達と松山市の近郊化のなかで、柑橘と漁業を中心とした双海町は新時代への対応を模索している。