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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 繊維工業


 倉敷紡績北条工場

 昭和七年、倉敷紡績では四国に新工場を設置しようという動きが顕著となり、香川県及び愛媛県の瀬戸内海沿岸各地にある候補地を検討していた。その結果、香川県大川郡志度町と愛媛県温泉郡北条町がその有力候補地となった。当時は各社が競って新鋭工場を建設していた時期であったが、七年一〇月ころから繊維工業界は「改主建従」に移行しはじめ、これとともに新工場建設計画は中止となった。
 しかし、当時の北条町長松田喜三郎は、町の発展のためには工業の振興が必要であると考え、しかも業種については雇用就労の機会が多く、公害の少ないものにすべきであるとの方針から、根気強く倉紡に対して工場誘致の運動を続けていた(写真4―11)。一二年一月倉紡は新工場建設計画を発表すると同時に北条町長との間に工場敷地に関する折衝を開始した。これに対し売電その他の関係で緊密化していた伊予電鉄株式会社は、新工場の候補地として伊予郡松前町を推してきた。しかし倉紡は種々の条件を検討した結果、一月中旬に北条町に決定した。契約では一坪につき一円八〇銭の価格で約三万坪の敷地を倉紡に提供するとともに、北条町は、港から工場まで通じる幅員3間以上の道路を新設することなどを示し、北条町長得居政太郎と倉紡社長大原孫三郎との間で調印した。
 一三年二月末に総予算五八〇万円の計画書が作成され(表4―17)、工場建設に当たって大原社長は次の方針を明示している。

一 紡績工場らしくない工場を作ること。正門を入ると真正面に煙突や赤煉瓦壁があるのが在来の紡績工場の型であるが、その在来型を破ること。
二 敷地が稍々狭いが、この敷地一杯に紡績と織布を配置し、而も窮窟な感じのない様、塩梅よく設計すること。
三 此の工場は完成工場として設計すること。後から設備を補足する必要のない様初めから完全なものに設計すること。
四 工場管理に容易な様設計には特に留意すること。
五 他社に比較して恥ずかしからぬ立派な工場を作ること。
六 機械設備には新奇を採用することなく十分安全性を勘えて施設すること。
七 建設費に金を費ふのは良いが、極力無駄な費用を節約すること。

 これらを基本方針として工場設計・建物配置・建築様式及び新機軸設備の採用等について調査した結果、(一)工場建築は鉄筋コンクリート・ラーメン式壁、鋸屋根とする。(二) シンプレックスを採用しない。(三) 配電線は全部ケーブル式とし、工場構内から電柱を駆逐すること。(四) 単独運転、ノーシャフチングとする。こうした調査結果に基づいて工場建設に入ったのであるが、当時の社会情勢を勘案して生産統制が強化されると増錘が制限され、将来は新工場建設はほとんど不可能になることを予想していた。このため業界に誇る新工場を建設しようと計画したものであることがわかる。
 敷地の買収契約完了と同時に埋立工事から開始され、六月からは本格的な建設工事に入り、一二月には土留め護岸工事も完了した。七月に日華事変がおこり、工事は多少遅れたが翌一三年四月には求人の募集も大々的に行なわれ(写真4―12)、一部操業を開始した。そして、九月末には紡績・織布の一貫工場として完全に操業できる体制に入った。一〇月九日工場開業式が行なわれ、大原社長は次のような式辞を述べた。

 本日茲に北条工場の落成式を挙行するに当たり、知事閣下を始め来賓各位の御賁臨を辱うしましたことは誠に光栄の至りと感謝致します。
 当工場は我社創立五〇周年記念事業として理想工場建設を目標に、昭和一二年初頃計画したのでありますが、中途に於て図らずも日支事変が勃発し、種々困難に遭遇致しましたが、建設工事請負者藤木工務店、大阪機械工作所、遠州織機株式会社、三菱商事株式会社其他工事関係者各位の至誠献身的な奮闘努力により工事は極めて順調に好成績を以て進捗し、本日之が落成式を挙行するに至った次第であります。
 之れ偏へに神明の加護の下、特に当地鹿島神社の御加護を拝戴し併して各位の熱誠なる御援助の賜として深く感謝致します。
 尚当社が斯くの如く分散的に工場を設置しますのは、地方の共同作業場として地方の人に御利用願い工場を育てて戴き度い念願に外ならないのでありまして、御臨場の各位に於かせられましても今後一層の御援助御指導の程を御願致す次第であります。

 このようにして北条工場は完成したのであるが、繊維製造機械の新設及び増設の禁止令により、紡績業界においてもこの新工場は注目される存在となった(写真4―13・図4―6)。戦時中も業務内容を変更することなく紡績業を続けてきたが、戦後は時代の要請もあり、紡機は細糸生産が主体となり、織機は広幅のものを取り入れるようになってきた。
 一三年当時は、綿紡機は五万七二〇〇錘、綿織機は二一〇七台(三八インチ幅)装備しており、従業員は一三〇〇人を上回っていた。二四~二五年にかけて織機を更新し、続いて三六~三七年にかけて紡機を更新する中で生産能力も高まってきた。さらに四六~四八年に紡機、五八~五九年に織機の第二次更新を行なった。このような相次ぐ合理化の結果、従業員は五八年には男子二二九人、女子三七八人となり最盛時の半数以下に減じ、綿織機も七二六台となった(表4―18)。五八年四月の従業員の状況は、紡績三五五人(男一二八、女二二七)、織布二一三人(男七六、女一三七)、間接三九人(男二五、女一四)である。従来より、倉紡では女子については若年層が大半を占めていたが、この傾向は現在も続いており、女子従業員の平均年齢は一七歳となっている。平均勤続年数も男子が約二四年であるのに対し女子は約五年である(表4-19)。
 倉紡では会社の基本的な方針として、社内学校の設置とか、中学校卒業者に対する高等学校進学の奨励など、従業員の教育に力を注ぐとともに、寄宿舎での生活環境の改善を追求し、特に女子若年従業員が楽しく生活することができるよう特色ある労務管理を行なっている。このような結果、女子従業員の平均勤続年数を五年にまで伸ばしており、他の繊維業界の定着率と比較して好ましい結果となっている。
 五八年現在の主要設備は精紡機一一二台(四万三〇〇八錘)、撚糸機四二台(一万八九〇〇錘)、織機七二六台であり、日当たり生産能力は、紡績がカード糸三〇~四〇番手及びコーマ糸三〇~四〇番手を一四・八八トン、織機は綾、ポプリン、朱子等を六万二九〇〇ヤードとなっている。紡績と織布の二部門を直結する合理的な工場として、低コストで生産をあげることができるため、どのような局面にあっても最後まで残る工場であろうとの評価さえある。


 縫製工業

 五八年現在、北条市内には二七の縫製工場が立地している。市内の 各地区に散在しており、北条(九)、立岩(五)、粟井・河野・難波が各(四)、浅海(一)に分布している。農村工業的性格を持ち、安価な余剰労働力を求めて立地した当時と本質的な変化は見られない(表4―20)。
 受注区分は元請七、下請一七、孫請三で、下請が最も多くなっており、受注先は県内一一(今治市五、越智郡四、松山市二)、大阪一一、市内五、京都四、東京一で京阪神地区との結びつきが強くなっている。下請・孫請の事業所が多いため一事業所当たりの従業員は二六人であり、一〇〇人以上はわずか三事業所である(表4-21)。かつては外需を専門に扱っていた事業所が多かったが、現在は発展途上諸国で生産される安価な製品に押され、外需は減少している。このため、市内の場合も内需専門事業所が二一であるのに対し、外需専門事業所は三しかなく、内外需を五〇%ずつ扱っているのが三事業所である。従業者数・事業所数とも漸増の傾向にあり、本市における重要な産業の一つとしてその発展が期待されている。

          
 その他の繊維工業

 五七年現在撚糸製造事業所二、染色整理事業所四、タオル製造事業所三、その他三が立地しており、製品の多くがタオルに関連するものである。いずれも元請であるが、従業者数は一事業所当たり八人で縫製工業よりも小規模である。受注先は東京・名古屋・大阪・松山等で特に強い結びつきは見られなく、製品はいずれも内需向けである。

表4-17 倉紡北条工場建設予算

表4-17 倉紡北条工場建設予算


図4-6 倉敷北条工場建物配置図

図4-6 倉敷北条工場建物配置図


表4-18 倉紡北条工場の設備及び従業者

表4-18 倉紡北条工場の設備及び従業者


表4-19 倉敷紡績北条工場の従業者状況

表4-19 倉敷紡績北条工場の従業者状況


表4-20 縫製事業所一覧

表4-20 縫製事業所一覧


表4-21 縫製事業所の従業者数別・内外需取扱い別事業所数

表4-21 縫製事業所の従業者数別・内外需取扱い別事業所数