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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 製瓦業


 沿革

 大正五年(一九一六)の『新編温泉郡誌』浅海村の項によれば「延宝年間(一六七三~一六八一)高橋嘉衛門なる人、良土を発見して瓦の製造を試みし以来、本村の工業品として瓦を見るに至れり…」とあり、また『粟井村郷土誌』(明治時代)によれば、「粟井の瓦製造は今から二〇〇年以前に創業したものであろう」と記されている。
 本市の製瓦業はこのように、今から三〇〇年ほど前の藩政時代初期に、隣接する菊間の製瓦技術の影響を受けて発展したものと考えられている。藩政時代における瓦製造は許可制であり、松山藩は五二戸と制限していた。そのうち半数以上の二七戸が菊間であり、風早郡で製瓦業を許可されたものはわずかに四戸であった。四戸のうちの二戸は粟井村和田の遠藤佐市と同鹿峰の武智常太郎であったとされている。
 明治以後製瓦業を営むものは次第に増加し、明治二六年(一八九三)には一〇戸となった。風早製瓦組合が創設されて以来、本市の製瓦業はますます発展し、同三八年(一九〇五)には粟井村だけで四〇戸に達し、従業員は一六〇人、生産額は四万円になった。これは米麦総生産額の半分以上にあたるものであり、粟井村にとってはきわめて重要な産業となった(表4―15)。しかし、当時はこの地方の瓦は「カイチの瓦(風早地方の替地の意)」と言われ、品質はあまり良くなかったため菊間瓦に劣っていたが、事業者の努力が実り、大正末期には一〇〇戸以上となった。このようにして鹿峰瓦の名称は広く世間に知れわたるようになったのである。
 当時は本谷及び常竹の粘土(粗いもので雄土)に松山の久米土(細かいもので雌土)を混ぜていた。しかし、本谷・常竹の原料上が少なくなるに伴い、昭和五年ころより良土とされた讃岐土を取りれるようになった。讃岐土を使用すると製品の光沢が良くなるため使用量は次第に多くなり、「寅福丸」のような専用船により、一航海あたり四五〇〇~五〇〇〇貫を運搬していた。製品は瓦船(写真4―9)で広島市に多く出荷されていた。大田川をさかのぼるため比較的小型の船が用いられた。
 しかし、昭和初期の経済不況及び戦後の経済構造の変化等のため、家内工業的性格の強かった製瓦業は次第に減少した。鹿峰地区では戦前は二八事業所あったものが、五六年には一〇事業所に減少している(図4―4)。五六年現在北条市内には四三事業所がいぶし瓦の製造を行なっており、これとは別に上釉瓦(陶器瓦)の製造を四事業所で行なっている。


 いぶし瓦の製造

 現在四三のいぶし瓦製造事業所で北条市製瓦組合を結成している。しかし、原料の仕入れ及び製品の出荷は各事業所が独自に行っているのが現状である。原料の瓦土は、かつては粟井の本谷のものを使っていたが、現在はもっぱら松山の久米土を利用し、これに香川県の丸亀で採土されたもの及び菊間のゴミ土を適量ずつ混ぜ合わせて使用している。四三事業所のうち七事業所は白地業者であり、このうちの二事業所は鬼瓦を専門に製造している。
 製瓦業が立地している地区は大きく分けて五か所になる。鹿峰(九)、土手内(八)、栄町(六)、和田(五)、中須賀(四)であり、その他に散在するものが一一事業所となっている(図4―5)。土手内の製瓦業は、かつては栄町にあったものであるが、一三年倉敷紡績北条工場の建設に伴い社員住宅が栄町に建設されることになったため、土手内の現在地に移動したものである。かつて一大製瓦団地を形成していた栄町では、現在わずかに六事業所が操業しているにすぎない。いぶし瓦の製造は、かつての重油窯は姿を消し、現在ではガス窯を使用している事業所がほとんどであるが、従来のダルマ窯も六基残っている。瓦の生産はすべての事業所を合計すると年間約八〇〇万枚である。
 ガス窯を使用している三〇事業所のうち焼成窯が一基の事業所は全体の四七%(一四事業所)であり、二基の事業所は四三%(一三事業所)を占めている(表4―16)。また従業者数についても従業者O人の事業所が三三%(一四事業所)、一人が二八%(一二事業所)を占めるなど、全体としてきわめて小規模な家内工業的性格が継続されている。法人化も進んでおらず、有限会社三、株式会社二にすぎない。製品の出荷先は、かつては県外が多かったのに対し、現在では県内が八〇%を占め、輸送方法も瓦船からトラックやカーフェリーに変わった。絶えることなく続いて来た北条の製瓦業にとって、原料の仕入れ方法の検討とか経営方法の改善など今後に残された課題は多いと言えよう。

        
 上釉瓦の製造

 いぶし瓦の場合、瓦を製造するのに一回あたり三日程度の日数を要し、生産量を増やすには窯を増加しなければならない。これに対し上釉瓦はトンネル窯を使用し連続的に生産することができるため、効率の良い方法として三〇年代後半から開始されている。五七年現在、南海窯業・寿窯業・日の丸窯業・愛媛窯業の四社が操業しており、年間約六〇〇万枚の瓦を生産している(写真4―10)。いぶし瓦の製造に較べて事業所の規模は大きく、従業者も一事業所当たり二〇人以上となっている。出荷先は松山市を中心とした中予が最も多く、次いで南予、県外となっている。

表4-15 大正時代における北条の製瓦業

表4-15 大正時代における北条の製瓦業


図4-4 鹿峰における製瓦業の変貌(昭和57年現在)

図4-4 鹿峰における製瓦業の変貌(昭和57年現在)


図4-5 北条市の主要工場分布図

図4-5 北条市の主要工場分布図


表4-16 北条市の製瓦事業所の焼成窯(基数)と従業者(人数)

表4-16 北条市の製瓦事業所の焼成窯(基数)と従業者(人数)