データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)
一三 中予の旧塩田
藩政時代の塩田
中予地方には松山藩の古三津・新浜・興居島の塩田があったのに対して、大洲藩には北山崎村の本郡と郡中村の新川に塩田があった。いずれも明治三八年(一九〇五)の専売制移行当時は、製塩していたが、第一次の製塩地整理(明治四三年)によって消滅した。したがって当時の製塩状況を目撃し、写真などに撮っている人は殆どなく、僅かに文献と古い地形図で、旧塩田を偲ぶにすぎない。
表3-45は『大日本塩業全書』にある専売制以前の塩の浜相場の資料である。大洲藩の森浜(本郡浜)や新川浜が、松山藩の古三津・興居島・新浜に比して高値である。それもその筈で、単位が違うのである。新浜・古三津・興居島は一斗二升五合入りの丸桶に対して、北山崎村の森浜と郡中の新川浜の旧大洲藩は九升入りの丸桶である。相場は一石いくらでなく一桶いくらである。表3-45は明治三五~三七年(一九〇二~一九〇四)の塩の浜相場であるが、旧大洲藩の森と新川のは二桶分の相場である。なお興居島の塩が安いのは卸値で、他は小売値である。このように藩が異なると、単位まで違っていたのである。
古三津村の御手浜
『大日本塩業全書』(一九一二年版)によれば、坂出塩務局三津浜出張所管内の塩田には次の七区があった。御手浜・御手洗浜・中台浜・馬磯浜・新浜・新川浜・森浜。このうち森・中台・馬磯・新川の四浜は小規模で、僅か一釜屋である。
御手浜の創設は天明八年(一七八八)五月に、藩主久松侯が藩用の目的で、古三津村および山西村の地を卜し塩田を開発した。それで御手浜という。地形図、図3-24をみると、塩田が二枚あり、八〇%が古三津分で、南の二〇%が山西分である。この地は昔は小松原と称し、強盗・追はぎのよく出る所であったので、松林を伐採して塩田にしたものの如しとある。塩田の東方に八軒家と称する所があり、往時御茶屋をここに設けて、藩主が時々来て塩業を視察したという。御手浜の浜子は、御手浜御用の提灯をもって三津浜町で私用を弁するのに威力があり威張っていたようである。三津浜出張所管内について、製塩方法、施設、撒砂、器具、海水の性質、気象条件、採鹹日数、煎熬、燃料、塩の種類、輸送費、塩田小作人と地主・地価等の項目について、『大日本塩業全書』は詳細に記載している。
新浜村の塩田
新浜村の塩田は、古深里・港山・奥浜・松の木の四浜よりなる。図3-24の明治三六年(一九〇三)の二万分の一地形図に明確に記載されている。表3-46のように合計一四町二反の面積で、全部小作地で、明治三四年(一九〇一)の統計では年産五〇〇〇石となっている。現在は住宅地・専売公社の葉煙草乾燥工場・鶴居製材・菱和園芸植木栽培地などに転用されている。なお、『新篇温泉郡誌』(大正五年版)によれば、この新浜塩田は慶安二年(一六四九)に中島の吉木の葛右ヱ門が開墾したとある。
郡中村の塩田
明治三四年の愛媛県統計書をみると、郡中村の塩田面積が一町二反あり、全部小作地で、年産四〇〇斤の製塩額が表3-46のように記載されている。明治三六年測図の陸地測量部発行の二万分の一地形図をみると、新川の大谷川の河口の右岸にそれらしいものがある。郡中の郷土史研究家篠崎勇によれば、入浜式塩田で佐々木某が経営し、約一haあったという。場所は新川の海水浴場付近であった。
興居島の塩田
興居島には、明治四三年(一九一〇)の第一次製塩地整理までは、御手洗浜と中台浜と馬磯浜の三つの塩浜があった。同年の統計では表3-47の如く、三つの浜で従業人員が三六名、面積合計五町九反四畝四歩で、年産塩が七六万九二六〇斤と報告されている。
『温泉郡誌』(明治四二年版)の興居島村をみると、
塩田は泊・由良・馬磯の三か所にあり、泊にあるを明神夷子(御手洗)と云ひ、二町九反七畝一七歩。由良にあるを中台と云ひ、一町二反八畝一二歩。馬磯にあるを馬磯と云ひ、一町六反九畝二七歩
とある。
現状をみると、馬磯の旧塩田は貯木場となり、中台は戦時中は一時耕地化していたが、今は大半が湿池で遊んでいる。僅かの果樹園の中に由良保育園がある。御手洗の塩田跡は大正三年に、戸田兵右衛門が購入し、大阪の家を移して別荘にし、その子、保之助の時代の昭和三年から養魚池に利用した。えび・ぼら・やずを養殖し、文人墨客を招いていた。昭和三一年の台風で壊れてから荒廃し、当主戸田勝彦は今のところ放置している。
伊予市森の本郡塩田
寛政一二年(一八〇〇)ころ富永彦三郎により編集された『大洲旧記』の第九伊予郡山崎庄本郡村の項をみると、
安永の頃より塩浜出来、英久院様(泰恒公)思召御座しましけれ共、時節到来せざりしに、今御領中に初而肝要の品有事、御国の幸也と云
とある。
寛政一二年八月発行の『予州大洲領御替地古今集』の本郡村の項をみると、
塩浜の儀は御替地御勤役坪内甚五右衛門様・御代官小畑新兵衛様・高井助右衛様御時代の安永三年(一七七四)の春、片岡丈平・尾崎村久治御願い申し上げ御免、開発相続き申し候。但し土地は本郡分、畝(面積)一町二反二畝二十三歩、高六石五斗四升五合の処に存立開端の事。松山和気郡の才安と申す道心(仏道に入った人)福田寺へ出入の僧なり。折節此の浜を通り福田寺へ参り、先住寒岩和尚へ咄す。親丈平へ才安塩浜に宜ろ敷き所と申す由にて、丈平尾崎へ来り噺し候所、早速同心兼ねて塩込み、色々迷惑仕まつり居り申し候故、否(すぐに)得心致候由承り候
とある。
伊予郡山崎庄尾崎村の項をみると、
庄屋始め伊藤氏十右衛門・久治・十郎右衛門・十右衛門の四代相続仕まつり候。安永三甲午年(一七四四)、本郡村塩浜御願い申し上げ、丈平・久治相持ちにて出来相続仕まつり候。同九庚子年(一七八〇)より久治へ御米三石宛年々下し置かれ有り難く頂戴仕まつり候
とある。
『北山崎郷土誌』(明治四三年)によれば、
天明三年の頃より漸次開墾、本場間口四間、奥行十間、外に附属建物二十五坪のもの三か所、六拾坪のもの三か所、三十六坪のもの壱か所、百坪のもの一か所、拾三坪五合のもの三か所を設置し、焼窯(高さ一尺八寸、長さ一丈二尺、幅八尺、深さ六寸)三か所を築き自宅にて製造す。現今盛に製造し、其の産出高壱万壱千参百拾石に及び、漸次盛大に赴き以て今日に至れり。戸口一戸。塩田面積一町七反六畝二十歩(実面弐町参反)
とある。
明治末期の本郡の塩田については篠崎勇の研究があり、伊予市の図書館に保存されている。彼は明治末期から大正初の製塩の実況を目撃しており、塩釜神社・浜子小屋・塩焼窯跡・塩水取入口・塩田跡の写真・塩桝(一斗桝)、本郡塩田創設者の片岡大平恒政の墓(安永七年七月四日没)と伊藤久治の墓(享和三年没)や彼等の人物についても調整している。また塩田跡の地籍図に番地・面積、担当浜子の姓名記入の図も作成している。
写真3-22は明治末期の本郡の塩田風景(大日本塩業会書附録)であり、明治三六年の陸地測量部発行の二万分の一地形図には本郡の塩田が記載されている(図3-24)。
和気浜の旧塩田
松山市和気浜の勝岡町に、現在塩田跡は明確でないが、文化七年(一八一〇)から文政四年(一八二一)にわたり、年間数百俵の塩が生産され、出荷されていた文書が門屋家に残っている。『松山市史料集』第五巻 近世篇 4(八六〇~八七二頁)に片岡東西浜生産塩の船積の文書が二八点も紹介されている。しかし、和気浜勝岡の塩浜の開発者も時代も、廃止した年代も調査研究は全く未開拓である。表3-48は中予の塩田の生産力を示し、図3-25は明治末期の製塩施設と製塩器具とを示したものである。
表3-45 三津浜出張所管内の専売以前の塩の浜相場 |
図3-24 古三津村および新浜村の塩田 |
表3-46 明治34年(1901)の中予の塩田の分布と製塩額 |
表3-47 第1次製塩地整理(明治43年=1910)により消滅した塩田 |
表3-48 松山近郊の明治36年(1903)市町村別塩生産高 |
図3-25 明治末期の三津浜地区の製塩施設 ① |
図3-25 明治末期の三津浜地区の製塩施設 ② |
図3-25 明治末期の三津浜地区の製塩施設 ③ |
図3-25 明治末期の三津浜地区の製塩施設 ④ |