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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

六  松山(道後)平野山麓の果樹

 果樹園芸の開祖三好保徳

 近代的な果樹園としての企業的栽培は、明治以降のことである(表3-15)。中予における果樹栽培の祖は、道後村持田(松山市持田町)の大庄屋三好保徳である。文久二年(一八六二)生まれで、明治三八年(一九〇五)三月一九日脳溢血で逝去した。数え年の四四歳であった。
 三好保徳の経営した果樹園は、自宅の北側や祝谷の夏柑畑、お築山の夏柑・苹果畑、東野の梨畑、小野横原の苹果畑という具合に分散していた。それで、自転車で各園を巡回し、使用人と共に園の小屋に宿泊して、寝食を共にしながら経営に従事した。彼は一八歳のころから農家の副業調査で県外をよく視察して回った。
 明治一六年(一八八三)山口県萩市より夏柑(夏みかん)苗を購入して屋敷に植えた。明治二二年(一八八九)には穴門みかんの母樹を一本五〇円(当時の男人夫・一日当一五銭・三三三人役に相当)の巨費を投じて根こそぎ持ち帰った。伊予柑の母樹である。夏柑(夏みかん)の苗木を祝谷の中腹から頂上に向かって開墾して植えたが、寒害で失敗し全部掘りおこしてしまった。常緑果樹をあきらめて落葉果樹に転換し、明治二五年(一八九二)湯山の溝辺に一〇アール余を開墾し、赤竜という和梨を三〇〇余本植え、二六年(一八九三)には更に東野で三haを開墾して、桃・苹果・梨を植えた。それに刺激された東野の村丸寿平も梨園を開いた。明治二九年(一八九四)には、小野村横原の山林七haを開墾して苹果を栽培する一方、果樹栽培の有望性を説いて啓蒙したが、販路を憂慮して賛成するものは少なかった。
 明治三四年(一九〇一)巾着叩と称する梨樹を栽培し広くこれ頒布した。いわゆる二〇世紀梨である。浅野温泉郡長は三好に委嘱して農家の副業に果樹を栽培し、果樹園内に除虫菊を間作すると有利なることを各地で講演させている。三好保徳は淡路の池本文雄に師事し、同氏の発行した雑誌「果物」は栽培の大きな手引であった。
 明治三八年(一九〇五)業半ばにして四四歳で彼は急逝した。それで、三好の園は石手の河野房五郎に売渡された。苹果一八四〇本・梨六八二本・柑橘類は夏柑(夏みかん)・ネーブル・温州で二七七四本あった。小野村横原の園は明治四四年(一九一一)荏原村の渡部綱興に売却され「赤々園」と称した。


 果樹栽培の植民地小野村

 小野村(現松山市)における果樹栽培は、明治二八年(一八九五)長浜の山田融が北梅本(野田神社東方)の山林原野四ha余りを購入し、宮内義太郎を鍬先として梨の苗木を植えたのが始まりである。三好保徳も二八年(一八九五)北梅本の桐ノ木畑に夏柑(夏みかん)の栽培を始め、二九年(一八九六)苗木商を営みながら、山田融の横原開墾に目をつけ、隣地に苹果園を開き毎日洋服で自転車に乗り、持田の自宅から往復した。
 三好と親交深い内田実も明治二八年(一八九五)温泉郡桑原村東野に四haの梨・苹果の栽培を始めたが、三二年(一八九九)自ら教職を去って播磨塚に一筆一〇haの梨園を開いた。この園は『内田真香園(深耕園)』と称し、明治四四年(一九一一)一四haに拡張して園員も五〇名に達し、果実の収穫量も五万貫(一八七・五トン)に達した。伊予鉄道横河原線に内田駅(現在の牛淵団地駅あたり)を特設して出荷した。岡山県の六六園と並ぶ関西の二大果樹園として、全国から集う参観者は日々影を絶たなかったという。
 明治三九年(一九〇六)北海道から来住した陸軍中尉野々山正虎は、北梅本山之神の地、約三ha余を購入して梨・温州みかんを栽培した。さらに、松山市北京町の村上正臣が北梅本長谷口付近に三haを開墾して梨と柑橘類を栽培した。伊予別子から来た三好某も長谷口を開墾し梨を栽培した。
 企業的栽培家の入作に刺激された在地地主の中にも、明治三八~三九年(一九〇五~一九〇六)ころから、私有の山林原野を開墾し、柑橘を主体として大尺寺の旧里正渡部七郎・北梅本の渡部常三・宮内多三郎・宮内兵三・平井谷の三上栄五郎らが相次いで梨の栽培に着手した。かように、明治末期から大正初期にかけて村外企業家と在地地主栽培が入交じって多彩を極めた。これらの栽培家は明治四〇年(一九〇七)園友会を結成し、共同選果組合達磨組の基礎を確立した。
 大正六~七年(一九一七~一九一八)ころから、大量の雇用労働に依存した大規模な企業的栽培は、経営危機におちいり経営者は次第に村を去って行く。すなわち、山田融は大正元年(一九一二)相原米吉に一部売却した後、結局全園を売却して離村し、内田実も井上要に権利を譲渡した。井上は真香園(深耕園)を耕楽園と改称して、経営を村上作太郎に託した。村上は柑橘に改植したが、昭和一六年には八幡浜市出身の本田正明が所有した。現在の陸上自衛隊駐屯地の用地である。三好保徳から横原の園を明治三九年(一九〇六)に譲り受けた石手の河野房五郎も、間もなく荏原の渡部綱興に一切を譲渡して郷里に帰った。
 こうした経過をたどりながら、苹果は温州みかんに、長十郎・早生赤・独乙の如き赤梨系統は、二〇世紀・明月・菊水など優良品種に改植され、昭和八年には栽培面積の過半数は梨が占めた。出荷量一〇万貫(三七五トン)に達し、全盛期には小野谷に選果場の分場までもうけた。達磨組は平井駅前に共同選果場をもうけ鉄道で出荷した。販売容器も地方販売の籠では間に合わず、京阪神・九州および満州まで出荷するため石油箱に五貫詰(一八・七五㎏入)とし、二〇世紀梨四・五貫(一六・八七kg)、赤梨五貫(一八・七五㎏)、温州みかんは五~六貫入(一八・七五~二二・五㎏)で出荷した。


 果樹栽培の先覚者

 久米地区の果樹栽培は北久米の仙波八三郎が、明治一九年(一八八六)に夏柑(夏みかん)苗数一〇本を導入して栽培し、三〇年(一八九七)には梨を植えた。明治三五年(一九〇二)竹本秀五郎が晩六種二〇本を栽培し、高値に売れたので副業の有利性が実証された。末広組が結成されたのは、梨の出荷のためで久米駅に専用引込線を敷いて共同選果場が開設された。全盛期の大正五年(一九一六)ころには久米の梨園は二六haあった。温州みかんの栽培は明治四二年(一九〇九)に始まり、昭和三三年みかん栽培の五〇周年記念碑を素鵞神社境内に建てた。
 潮見地区の門屋常五郎は潮見村役場の助役収入役の要職にあって、農村の副業には果樹栽培が最良の道と考え、職を辞し自ら道後村に果樹園を開いて栽培の研究をした。帰村して私有の山林数町歩(ha)を開墾して梨・桃・柑橘を栽培し、城北地域の果樹栽培の先導的役割を果たした先覚者で、大正一〇年(一九二一)潮見村園友会員によって蓮華寺境内に頌功碑が建てられた(写真3-11)。


 梨園の衰退と柑橘栽培の発展

 明治から大正一〇年(一九二一)ころまでの山麓地帯の果樹の発達は梨の栽培であった。梨栽培の副業が経済的に有利なことが認識されたからである。荏原の津吉梨に畑作の間作で、梨園として栽培したものではなかった。明治二八年(一八九五)開園した畑寺の吉田氏義・北久米の仙波八三郎・道後の河野丈太郎・荏原村東方の渡部綱興らが梨栽培の先覚者であった。三津の米谷徳太郎・市三郎兄弟は苹果栽培に失敗して梨に転換した。太山寺の小池梅吉が梨を植えたのは明治三〇年(一八九七)であった。三津の米谷徳太郎・新浜村の森田末次郎・道後の三好良三・砂田愷次郎・伊予郡原町村(現砥部町)の岡田俊平らは梨の大栽培家として斯界に光った。
 山麓に開かれた果樹園の大部分が、普通作物の耕地として利用率の低い山腹の傾斜地に多く開かれている。その土地利用にもつ意義は極めて大きい(表3-16)。畑地の増加した村は、浅海村(現北条市)他二四か村で、浅海二二ha、古三津一六ha、和気一五ha、小野一四ha、桑原一二ha、道後一一ha、荏原一〇haなど、いずれも山林を有し、しかも果樹栽培の盛んな地域に増加しているのは開墾の結果である。
 表3-17で、大正九年(一九二〇)の温泉郡内の果樹栽培状況を見ると、果樹の五四・五%が梨で、温州みかんは二五・五%であった。栽培戸数も梨一三〇九戸に対し、みかんは九九五戸で梨とみかんの先進地がわかる。梨の品種も、経済的で栽培も容易な長十郎が六~七割を占めた。その他、明月・晩三吉それに二〇世紀も漸く増加し、昭和五年から新品種の菊水・八雲などの青梨系統も栽培されはじめた。しかし、急傾斜地で降水量の少ないこの地域では、長十郎種・早生赤種に不適で、樹令が老化すると生産品は他県産物より劣品で市場の人気は低落した。第一次大戦大正三~七年(一九一四~一九一八)後の経済不況と、主販路の北九州市場に地物産の優品が多量に産出されるようになったので、価格が甚しく下落し採算がとれなく、不適地の整理がすすんだ。
 梨の衰退要因について、久米村誌は「みかんと比べて多くの労力を必要とすること、大正末から昭和の初めにかけて赤星病が伝播したため、栽培が困難になったこと、結実期に台風の襲来で落果の多いことなどの理由で、昭和七年から九年をピークとして、その後次第にみかん、かきに改植され、昭和一四年ころまでに殆ど消滅した。」と記している。
 梨の悲況を見るにつけ、柑橘に転換するもの、あるいは新栽培を始めるものがあらわれた。桑原村東野(現松山市)の村丸寿平・潮見の門屋礼三郎・石手の河野房五郎・三好良三らが早くも柑橘の大規模栽培に手をつけ、梨から柑橘への過渡期の行手に燎火を上げ進路の指導的役割を果たした。
 久枝の渡部善太郎・和気の井上又蔵、太山寺の小池梅吉、北久米の仙波八三郎など資産家の先覚者により、明治三七~三八年(一九〇四~一九〇五)ころから梨に雁行して徐々にみかんを栽培していった。こうして、大正八年(一九一九)ころから、みかん産地が飛躍的に増大して出荷量もふえた。潮見の門屋礼三郎は、(礼)印で出荷した。みかんは味がよく皮も薄く、在来品種とはすっかり変わって人気がよく、値段は高かったがよく売れたという。県農業試験場の技師として大正三年(一九一四)に着任した宮之原健作は静岡県興津の果樹試験場にいた関係で、みかん栽培をすすめ剪定技術を指導した。
 湯山地区での本格的な温州みかん栽培は、辻田武作が極楽谷に明治三八年(一九〇五)植え付けたのが始まりで、大正二年(一九一三)辻田作十郎・辻田源七が岡山の日光園から苗木を買って植えてからである。明治二九から三〇年(一八九六-一八九七)ころ、松平鶴栖が下高野に山林四〇アールを開いて栽培した梨園もみかん園に切替えた。
 久谷地区では、東方の渡部綱興が明治末期に温州の栽培に着手し、坂本に三haの赤々園分場を開いた。東温地方の川内町では、明治三九年(一九〇六)曲里の菅国一が南山に、西ノ側の藤井繁太郎が苔谷山に、渡部綱久が天神山にみかん・梨を植え付けて栽培した。重信町上村の高須賀品吉が明治末期に梨の明月と青苹果を、森伝次郎が下林に温州みかんを植え付けている。新村の森安太郎も西岡の丘陵地に二haを開墾して温州みかんを栽培した。北久米の仙波八三郎も大正初年に、志津川の慈光寺裏山に梨園を開いた。北伊予村徳丸(現松前町)の後藤光太郎が樋口で温州みかんと富有柿園を約三ha経営したが、昭和一四~一五年頃在地栽培家の窪田正義らに譲渡して帰村した。
 重信町西岡で温州みかんの専業的栽培を始めたのは丹生谷浦太郎で、大正二年(一九一三)岡八幡神社東側の杉苗畑にみかんを植えた。丹生谷と共に大規模経営で有名なのが新谷寿人の新谷園であった。新谷寿人は広島県大長村出身で、大正八年(一九二〇)に入作した。彼は村内の生産者を先進地の大長に案内して、技術導入を勧めた。大長の急傾斜地に散在していた一haの園を処分し、約一〇倍の面積を購入した。松山市久谷の園と長浜町出海の園は終戦の際に一族に解放し、西岡の一部も農地改革で手離したが、集団的にまとまった約五haの柑橘園を経営する専業大型経営で、戦後は邸宅も園内に構え一族が定住した。出荷期には、国道一一号線沿いの吉井共同選果場まで運び出すのに、村内の青年を雇って猫車(木製の一輪車)に五箱ずつ積んで手押で運び出したから、猫車押しの隊列が昭和二〇年代まで続いた。
 表3-18は、昭和五年の伊予果物同業組合管内の果樹の生産状況である。温州みかんが梨を圧倒し、本数では全果樹の三八%面積では四五・四%、柑橘類が栽培総面積の五〇%を占めるのに対し、梨は二六・二%に減少している。


 晩生柑橘の先進地・潮見・太山寺

 潮見の門屋礼三郎は明治三五年(一九〇二)北久米の仙波八三郎からネーブルの苗木を入手し  て栽培した。ネーブルははく皮に不便であるが、高級柑橘として歓迎された・肥培管理が集約的で、温州みかんよりも栽培もむつかしく、病虫害に弱く裂果などの現象もあって温州ほどには伸展しなかった。しかし、門屋礼三郎のネーブル園は斯界に光彩を放っていた。
 昭和一三年太山寺の鵜久森恵が自園で栽培していたワシントンネーブルより、芽条変異種を発見した。葉は厚く着花は少ないが、結果確実で収量も多く果実が大きい。昭和二五年「鵜久森ネーブル」として種苗登録された。


 早生温州の導入と新品種発見

 早生温州は、和気村(現松山市)西濱政告が大正元年(一九一二)に植付けた。石手の河野も植えている。太山寺の鵜久森丑太郎園の尾張系温州から芽条変異種が発見された。熟期が宮川早生より一週間位早いことから、昭和二八年農林省種苗名称登録第五七号、「松山早生」として登録認可されたが、糖度がやや低いことからそれ程面積は拡大しなかった。


 荒廃園の復興と経営規模の拡大

 先覚者・栽培家の努力で発展したみかんも、戦時中は価格面では比較的有利であったにもかかわらず、労働力や肥料不足と食糧難に影響されて荒廃した。昭和一九年には不要不急の作物のレッテルをはられ、二割の伐採命令によりかんしょ畑に転換が強制された。
 戦後、戦場から帰還した若者で、いち早く荒廃した果樹園の復興と戦争による栽培技術のブランクを取返そうと考えているグループがあった。東野青年団生産部担当の村丸隆を中心に、東野の青年七名が間作指導地としていも作りの本拠地化した果樹試験場を訪ね、果樹栽培の技術研究に本腰を入れるよう註文をつけた。こうした動きを背景に剪定講習会がもたれ、復興の意気に燃えた若者が東野の地に集まった。ついに、昭和二二年一〇月果樹園芸研究青年同志会の発会式が愛媛農林専門学校(愛大農学部)講堂で挙行され、機関誌果樹園芸の創刊号が翌二三年三月に発刊された。
 昭和二五年キジヤ台風、二六年ルース台風によって果樹は大被害を受けた。特に二五年は早生温州の落果が多く、温泉青果農協は被害果を買上げ罐詰工場で試作試験をした結果、商品化の可能性に成功した。のちの青果連ポンジュース工場建設への道を開いた。昭和二七年豊作年の温州みかん摘果指導が始まり、柑橘栽培史上初の摘果作戦が展開された。隔年結果の防止と摘果による生産調整がねらいである。
 昭和三四年ころから機械開墾の手法が採用され、規模拡大の飛躍的な展開が可能となった。昭和三六年果樹振興特別措置法の施行、農業基本法による選択的拡大政策によって、当時におけるみかんの収益性、零細経営が求める耕地拡大の希求が結合した。柑橘栽培ブームで、気候的に危険な山地の限界地帯まで伸びていった。構造改善事業・パイロットファームの指導で協業化による大型化がすすんだ(表3-19)。
 久米の末広農園は社員五三名で、苗木五万本を購入し、県機械開発公社の一一トンブルトーザーで開墾した三三haの樹園地を造成し、一〇㎞の農道を開設した。昭和三九年平井地区の稲作農家が二・三男対策をかねて果樹栽培に転換するため、有限会社小野農園(社員三七名)を設立した。山林二一haを開墾して二年生苗木三万本を一六・六haに移植している。昭和四一年完成の夫婦山県営パイロットは松山市五明・伊台・堀江・北条市粟井客の四地区にまたがる一〇四haの土地造成から始まり、開墾面積一〇二ha、畑地部分が七二haである。みかん六七ha、ぶどう四ha、桃一haを植え付けた。参加人員松山市六九名、北条市二四名、総工費五・一億円を投入したが、そのうち国庫補助金が三・三億円で六四%を占めた。
 市街地隣接地域では、都市化がすすみ道後地区は毎年一〇ha以上の水田が潰され、水田面積は減少の一途をたどった。昭和三六年以来の水田転換のみかん園化と果樹新植ブームがマッチした時期で、水田の米麦収入をカバーするため、水田売却代金を果樹に投資した。水田三・三㎡当たり三~五万円で水田一〇アールを売却すれば、二haの果樹園適地を購入し開園できた。
 このような高価な水田を所有していることが経済支柱となり、旺盛な新投資が行なわれた。こうして、収益性の高いみかん部門への移項が急速にすすみ、水田みかん園に財産おきかえが行なわれた。また逆に、果樹園に新投資するために、水田を宅地として売却していった。松山市祝谷のみかん農家が伊台や湯山に進出したし、和気、潮見の都市化地域でも水田を売却し、近代化資金を借入れ、堀江に山林を買い求めて開園していった。
 図3-17は、柑橘の品種別栽培面積と価格の推移を示した。四三年と四七年の温州みかん暴落以来、柑橘の品種構成は激しく変わっていった。温州の単一栽培から中晩生柑橘へ高接・改植によって品種更新が四八年から五二年の五か年計画で推進されたからである。


 伊台高原のぶどう団地育成

 松山市伊台は、昭和四八年度温州みかんの品種更新事業により植え付けたぶどうが結実期に入り、第二次構造改善事業により大規模ぶどう団地の造成が進んでいる(表3-20)。
 伊台へのぶどう導入は、昭和三年中山秀蔵が苗木を入れたのが始まりである。当初はキャンベル・デラウェア・甲州の三品種であったが、デラウェアは収量が少ないこと、甲州は病気に弱いなどの理由でキャンベルだけが残った。したがって、ぶどうは小規模な園地に散在していた。みかん園から転換した七haのぶどう園も、一四か所に分散化しているために生産の省力化がはかれなかった。そこで、昭和五一年度から第二次構造改善事業によって、二八・一haの山林・水田・畑の改良により深田団地二二・六haと西宮四・九haのぶどう団地を造成した。
 伊台地区の果樹は、柑橘類の栽培面積一八〇haで温州みかん主体の産地であるが、地区内はさらに晩生柑橘類が主な下伊台と、温州みかんとぶどう複合経営の上伊台地区に分かれる。上伊台は標高一五〇~二〇〇mの高原で、夏期の昼夜気温較差が大きくてぶどうの成熟に都合がよく、良品質で商品価値も高い。実川部落が伊台ぶどうの中心産地で六〇%を占めている。品種はキャンベル八五%・ベリーA五%・デラウェア五%・巨峰五%である(写真3-12)。伊台支部のリーダー、只信豊は伊台ぶどうの将来の目標を、栽培面積一〇〇ha、出荷期間を一〇〇日、品種も在来種に加えてピオーネ・スチューベン・巨峰などの導入による多品種組合わせと、ベリーAのジベレリン処理による早期出荷、それに現在四ha余りのハウス栽培を一〇haにまで拡大したい……。としている。温州みかんの暴落に困惑する中で、適地適作のぶどう団地の育成を目指す伊台のぶどうは〝高原ぶどう〟として大半松山市場へ出荷している。

表3-15 明治21年(1888)松山平野周辺地域の果樹栽培状況

表3-15 明治21年(1888)松山平野周辺地域の果樹栽培状況


表3-16 大正4年(1915)から大正9年(1920)の5か年間における温泉郡町村別田・畑・宅地の増減

表3-16 大正4年(1915)から大正9年(1920)の5か年間における温泉郡町村別田・畑・宅地の増減


表3-17 大正9年(1920)2月、温泉郡の町村別、梨と温州みかんの栽培戸数と面積

表3-17 大正9年(1920)2月、温泉郡の町村別、梨と温州みかんの栽培戸数と面積


表3-18 昭和5年、伊予果物同業組合管内の果実生産状況(創立、大正2年)

表3-18 昭和5年、伊予果物同業組合管内の果実生産状況(創立、大正2年)


表3-19 温泉青果管内の共同経営設立状況

表3-19 温泉青果管内の共同経営設立状況


図3-17 松山市の柑橘類の栽培面積の推移と1㎏当たり価格の変動

図3-17 松山市の柑橘類の栽培面積の推移と1㎏当たり価格の変動


表3-20 温泉青果管内ぶどう品種別栽培面積

表3-20 温泉青果管内ぶどう品種別栽培面積