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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 道後温泉

 道後温泉郷

 松山市の東部、山麓一帯に数か所の温泉地が存在する。その中にあって古くから全国的に名を知られたのが、松山市街地のすぐ北東部に隣接する道後温泉である。
 アルカリ性単純泉「道後温泉」は、白鷺が傷を癒したことによって創められたと伝えられている。道後温泉本館振鷺閣や北側の柵の上にも白鷺が作られており、道後温泉駅前の放生園の鷺石も白鷺の浴した鷺谷にあった石と書かれている。また、大国主命と少彦名命の伝説にまつわる「玉の石」は本館北側にある。
 古来より数多くの天皇・貴族の来湯の記録もみられ、さらに近世には、諸国交通頻繁となるにしたがって、多くの俳人や文人の来遊があり、道後温泉にちなんだ句作等がみられる。
 道後温泉はたびたび地震の災害をうけ、湯の止まった記録は一四回に及んでいる。管理者や地区民は、その度に湯神社に神楽を奏し湯祈湯をした。以後それを行事化して春三月に行なっているが、近年「温泉祭」と改称し、「お城まつり」とともに春の町の祭典となっている。五八年からは「松山春まつり」として両者をまとめ四月二日から五日にかけて盛大に実施されることになった(写真2-23)。


 道後温泉本館

 寛永一二年(一六三五)松山藩主に任ぜられた松平定行は、同一五年温泉に修理を加えた。一之湯は武士僧侶、二之湯は婦女、三之湯は庶人とし、養生湯、さらに馬湯まで設けた。この構造は明治にもひきつがれた(図2-41)。
 明治維新後、温泉経営は源泉社が行ない、同二三年道後湯之町で経営した。第一源泉のある本湯(道後温泉本館)は明治二七年大改築され、木造三層楼となり、その上に振鷺閣、頂上に鷺をおいた。道後に鉄道が開通したのはその翌年のことである。一般公衆浴槽のほかに皇族用の又新殿の浴槽もある。現在、一階は神の湯という大衆浴場で、大国主命・少彦名彦の像および山部赤人の和歌を刻んだ湯釜がすわっている。二階には神の湯を利用する広間と霊の湯を利用する広間がある。三階は霊の湯を利用するグループ、家族向けの休憩室があり、その奥に子規・漱石ゆかりの唯一の場所として「坊っちゃんの間」を設けている。又新殿は、本館の東に、明治三二年に完成した湯殿で、外観は破風造り、室内は金泥絵巻に囲まれ、武者かくしがあり天井は高麗という桐の三枚重ねになっている。


 増湯計画

 道後温泉の増湯計画は大正二年(一九一三)ころからはじまった。 新しい源泉を求めて試掘が行なわれたのは、昭和一四年のことである。従来からの第一号源泉(神之湯源泉と養生湯源泉)の整備による増湯がすでに行なわれてきたのであるが、昭和一二年前後の浴客の激増がさらに増湯計画を必要とすることになったのである。以来、着々と増湯事業が行なわれ、九号泉までの竣工で従来の倍量の増湯となり、待望の道後温泉旅館への内湯が実現することになって、昭和三一年に内湯が完成した。さらに浴客の増加と温泉旅館の高層化が進められるなかでより一層の増湯が望まれ、現在までに二八の源泉を数えるに至った。しかし、太古から自噴を続けていた第一号源泉のように涸渇したもの、使用を停止しているもの、開発当時から使用困難なため現在まで利用せずに保管しているものを除けば、現在有効に活動している源泉は一八か所であり、このほとんど全部がエヤーリフト揚湯を行なっている。源泉からの総汲上量は、一日約二九六〇klであって、そのうち一三二三klを六二か所(契約件数六八)の内湯に配湯しており、共同浴場配湯量は七四〇klである(ほかに温泉センター一〇八klがある)(表2-55)。


 共同浴場

 道後温泉は、昭和三一年までは外湯としての特徴をもっていた。明治四〇年ころの温泉浴室は、霊の湯男女、神の湯一・二・三室、養生湯五・六室、松の湯男女と又新殿を合わせて一〇室であったが、大正一一年(一九二二)には、市街の西に西湯および砂湯(現在の椿湯の敷地)が増設されたので一二室となった。その後、国有地であった温泉の敷地払い下げ、養生湯の改築(大正一三年)、鷺の湯(大衆浴場、現在の駐車場)の開業(昭和二年)、神の湯改築(昭和一〇年)を経て、霊の湯男女、養生湯男女、西湯男女、鷺の湯男女と又新殿を合わせて一三室となった。昭和二五年、進駐軍将校専用の浴場として、家族湯「しらさぎ湯」が作られたのに続いて、二七年には「扇」その後「鳩の湯」「椿の湯」といった家族湯が開設された。やがて、鷺湯と新湯は温泉センター開業と前後して閉館され、一時人気のあった家族湯も昭和三七・四三・四七年に鳩の湯(椿湯の裏)、しらさぎ湯(子規記念博物館)、椿の湯(椿湯二階)の順で閉業となった。このうち椿の湯は、四九年に身障者・被爆者福祉施設として生まれかわった。
 道後温泉センターは、レジャーブームの到来の中、奥道後、久米、鷹の子、権現などにおける温泉センター作りに対抗して建設されたもので、一般入浴のほか各種レジャー施設をもつヘルスセンター方式を採用、地下一階地上四階の鉄筋延べ五〇〇〇㎡、総工費三億五〇〇〇万円で、湯神社のある冠山の西半分を整地して建設した。昭和三八年三月着工、三九年二月竣工、三月一日開業である。一時期に相当の人気を集めたのも束の間、入場者の急減と人件費の負担により多額の借金をかかえることになり、財産区は四一年四月に松山市に合併した。その後、温泉センターは四三年に道後温泉組合に経営委託となったが、四四年から個人経営「ニュー宝荘」としてホテル方式に変更された。
 現在使用されている共同浴場は、霊の湯・神の湯・椿湯であり、年間一三八万四〇〇〇人余りの入浴者がある。ピーク時(昭和三六年)四〇〇万に達するかの勢いであったのに比べてその約三分の一に減少した。


 温泉祭

 温泉まつりのきっかけの一つは、南海地震の後、約一〇〇日目に再び温泉が湧きはじめた昭和二二年三月、湯の町あげて三日間にわたる湯祈祷と祝賀行事を行なったことにある。もう一つは、昭和二五年に天皇陛下が御来県され、三月一九日に又新殿にご入浴された折、野忽那(温泉郡中島町)の盆踊を選んで演じご覧に入れたのを記念に、年中行事の一つとして「温泉室つり」の名を付けたものである。三月一九日から三日間、仮装行列、ダンジリの行進、手おどりなどを合わせて、また三一年以降は内湯完成を祝っての献湯の儀も加わって、厳粛かつ華麗な行事として開催され、温泉俳句大会、詩吟大会なども開かれてきた。なお、五八年からは「松山春まつり」として、四月二日から五日に「お城まつり」と併せて実施されるようになった。


 ホテル・旅館街

 道後の温泉とともに観光ブームの波に乗って成長してきたものに道後商店街とホテル・旅館街がある。道後のホテル・旅館は、高度経済成長に伴う観光ブームの中で、増える旅客と追いつ追われつしながら高層化への道をたどってきた(図2-42)。
 道後には、愛媛県における日観連会員旅館の四〇%、国観連会員旅館の八〇%が立地している。道後温泉旅館協同組合に加盟している旅館をみると、昭和五八年四月一日現在、政府登録旅館一九軒、国観連会員旅館五軒、日観連会員旅館二二軒、その他一八軒となっており、総室数二〇九五、一軒当たり室数三二・七、収容人員九一六三、一軒当たり収容人員一四三・二である(表2-56)。
 組合加盟旅館六四のうち四八は戦後の営業であり、営業開始年代からみると、明治四、大正二、昭和の戦前七、二〇年代一一、三〇年代一三、四〇年代一七、五○年代七である。
 宿泊者は、昭和四八年の一二四万五〇〇〇人から、五〇年に九〇万人に減った後はほぼ九五万人前後で横ばい状態である。季節的には一〇・一一月と三月から五月にピークがあり、夏・冬場に少ないパターンとみられる(表2-57)。

図2-41 明治14年の道後温泉本館とその周辺

図2-41 明治14年の道後温泉本館とその周辺


表2-55 道後温泉汲上湯量ならびに使用状況

表2-55 道後温泉汲上湯量ならびに使用状況


図2-42 道後温泉郷のおもな観光資源と宿泊施設

図2-42 道後温泉郷のおもな観光資源と宿泊施設


表2-56 道後温泉旅館協同組合の加盟旅館

表2-56 道後温泉旅館協同組合の加盟旅館


表2-57 道後温泉宿泊人員の推移

表2-57 道後温泉宿泊人員の推移