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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 松山城

 松山城公園
       
 姫路城・和歌山城とともに日本三大平山城の名城として知られている松山城は、人口四一万都市松山のシンボルであり、松山市民の憩いの場であり、全国各地から多くの観光客を引きつけるハイクラスの観光資源である。昭和四一年一二月二四日に着工した小天主閣をはじめとして数次にわたる復興工事を経て、かつての連立式平山城としての雄姿を取り戻した勝山城は、松山市街を一望のもとにおさめる海抜高度一三二mの分離丘陵に位置し、歴史的建造物として、野面積みの石垣とともに全国に類ない重要文化財である。さらに悲喜こもごもの伝説と結びつく数多くの史跡、長い歴史の中で培われてきた県指定の天然記念物である樹叢は、春の桜、秋の紅葉のシーズンを中心に年間を通して、訪れる人々の心をなごませてくれる。
 この城山が愛される要因は、このような歴史的価値はもちろんであるが、ロープウェイ・リフトの整備により登山が容易であること、さらに数本の登山道の整備が散策路として人々の心を休め、公園としての意義をさらに高めていることも手伝っているであろう。
 加藤嘉明が足立重信を築城奉行として、慶長七年(一六〇二)に着工して以来、幕藩体制下、松山一五万石支配の拠点となった松山城一帯が、公園として利用されるようになったのは、明治六年の太政官布告によるもので、翌七年に本丸が公園として設置され聚楽園と称されるようになったのに始まる。
 やがて、明治二〇年にいったん廃止されたが、同四三年(一九一〇)に陸軍省の許可を得て再開した。さらに、大正一二年に、松山旧藩主久松定謨が、政府から松山城跡の払い下げを受けて、維持費四万円とともに松山市に寄贈したので、それ以来松山市営の公園となったものである。


 松山城公園の整備

 築城以来数度の火災に会い、その都度貴重な建造物を失ってきたが、昭和二〇年代後半以降着々と公園としての整備がなされ、幾多の建造物の復興が行われてきた(図2-40)。

明治 三年(一八七〇)  松山城三ノ丸焼失する。
″  五年(一八七二)  松山城二ノ丸焼失する。
″  七年(一八七四)  松山城本丸を公園とし聚楽園と称する。
″ 一一年(一八七八)  松山城天守閣で県内物産博覧会が開かれる。
″ 二〇年(一八八七)  松山城公園廃止される。
″ 四三年(一九一〇)  松山城公園再開される。
大正一二年(一九二三)  久松定謨、松山城跡の払い下げをうけ松山市に寄付する。
昭和 八年         小天守閣放火のために全焼する。
″ 一〇年         松山城郭国宝に指定される。
″ 二〇年         国宝松山城太鼓櫓・太鼓門空襲により焼失する。
″二四年          筒井門焼失する。
昭和二五年        文化財保護法の公布により、松山城郭重要文化財に指定される。
″ 二七年         松山城跡国指定の史跡となる。
″ 三〇年         市営の松山城山ロープウェイ開業する。
″ 四一年         松山城山にリフト完成する。
″ 四三年         小天守閣の復興工事竣工する。
                松山城に「俳句ポスト」を設置する。
″ 四六年         筒井門復元する。
″ 四七年         太鼓門復元する。
″ 四八年         太鼓櫓復元により連立式平山城の偉容を再現する。
″ 五四年         天神櫓復元する。
″ 五七年         乾門同東続櫓復元する。
″ 五八年         乾門東続櫓続東折曲り塀復元する。艮門同東続櫓復興。


 樹叢と登山道

 城山樹叢は、昭和二四年九月一七日付で県の天然記念物に指定された。
 城山の西南側は見事なアカマツの林である。近年多くの枯死がみられるが、本丸跡や太鼓櫓跡に立って見下ろした風景は素晴らしい。黒門口登山道は、かつて二ノ丸から本丸への通路であったのが、明治一七年に堀之内が兵営となったため閉鎖され、昭和四四年になって改修の上再開された通路であるが、この登山道を行くと、アカマツの林の中、その梢を通して天守閣や小天守閣や乾櫓の威容を間近にながめながら進むことができる。
 東雲口登山道は幕末のころにつくられたもので、道は一番単調で変化に乏しいものであるが、道幅が広く、ゆるやかな坂道で明るい。並行してロープウェイやリフトがあるが、徒歩による登山道としての利用者も多い(写真2-22)。下半分は東雲神社の参道で石段が築かれており、その石段を登りつめたところにある東雲神社は、戦禍にあって焼失したが、昭和四八年に復興された。その境内には雌雄のナンジャモンジャの木がある。
 この道の両側にはいろいろな木が茂っている。五月中旬にはエゴノキの花が咲きみだれ、続いてネジキの花も多く咲く。左側下にはツブラジイの純林が見えて美しく、秋にはアベマキのドングリが落ち、やがてその枯葉が落ちて道をおおう。城山の東半分はツブラジイの卓越する地域である。
 大正の初めごろにできた、いつもうす暗い感じのする淋しい道、古町口登山道の下半分もまたツブラジイの林の中を行く。やがてその道の左下手は、北斜面一帯に多いクスノキ、ホルトノキ、エノキが空をおおい、その下にアオキなどの陰樹が茂る林となり、右側にはアベマキが現れてくる。
 県庁裏登山道は大正の初めごろできた道である。東雲口登山道に次いで利用者が多い。下方からアカマツ、アベマキ、ツブラジイ帯へと移り変わり、途中クロガネモチやハゼあるいはゴンズイなどの雑木林もみられる。


 観光客の動き

 松山城郭観覧者数は年間約五〇万人を数える。昭和四三年を除いて、昭和三〇年代から四〇年代前半にかけて、観覧者数は急増したが、四七年の六二万五八七一人を最高に減少し、昭和四九年以後は年間約五〇万人である。
 観覧者の約九四%は大人で、一般六八%、団体二四%、定期観光客八%である。季節的には一〇・一一月と三・四・五月と八月にピークがある(表2-54)。
 ロープウェイ・リフトの利用者は、四七、八年までは着実に伸びてきたが、それ以後は漸減している。ロープウェイは年間約八〇万人が利用しており、城郭観覧者と同様五四、五年と若干増加し、五五年には八九万人の利用があった。リフトの利用は漸減しており、四八年の九九万四八〇〇人余りに対して五三万人弱にまで減少している。

図2-40 松山城郭配置図

図2-40 松山城郭配置図


表2-54 松山城閣観覧者数及びロープウェイ・リフト乗者数

表2-54 松山城閣観覧者数及びロープウェイ・リフト乗者数