データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 道後温泉の商店街


 レンガ舗道を歩いてみたら……。可愛い「竹かご」はサンドイッチ入れ。「かすり」の布でニッカーポッカーズ。おばあちゃんには「もぐさ」の贈り物。「砥部焼」の筆立て。「手焼きせんべい」食べながら、ぶらりぶらぶら出かけませんか? 感じた情緒や、ご意見どんどん。あなたの街です道後村。あなたの街にして下さい。
 観光情報誌「えひめ」の一節である。現在の道後商店街をよく表している。


 旅館からみやげ物店へ

 昔、「遊びは別府、湯治は道後」といわれ、道後は、湯治場としての自炊宿・商人宿、四国八十八か所の遍路宿の並ぶ町として知られ、湯の町の本通りには、明治一〇年ころまでは、「津田屋」「いろは」「三浦屋」など一〇軒の茶屋があったが、これが松ヶ枝町に移った後は一般的な宿屋、菓子屋、もぐさ屋などが並ぶ通りであり、この菓子や「もぐさ」などはほとんど旅の外来者の買って帰るみやげ品でもあった。
 湯の町の中心には、「三浦屋」「金竹」「すし元」「かど半」「くしや」「島屋」「国中」「寿美屋」「桜屋」「今治屋」「小川」「とらや」などの古い宿の看板が並んでいた。春秋の修学旅行期には県下の各中・小学校の生徒・児童が連日湯の町を埋めた。その中には「島屋」・「かど半」が小説「坊っちゃん」ゆかりの宿として旅行者の眼を引いたこともある。これらのうちの数軒はその屋号が街中にみられるが、現在では、昔ながらの「湯ざらしもぐさ」を商う店が一軒、「手焼きせんべい」を悠々と作っている店が一軒、辛うじて古い道後のおもかげをつたえているほかは、どの旅館もみやげ物店に変貌した。
 終戦後の道後温泉は眼まぐるしいばかりの変化をとげた。高度経済成長期を通じて招来した観光ブームにのっかって、かつて門前町的性格を濃く持っていた道後温泉街は、一大温泉郷へと躍進した。道後のシンボルであり、宏壮にして重厚な姿を保つ温泉の本館を取り巻いて、湯の町の後方東北につらなる山の手の高台には高層のホテルが林立し、道後温泉本館から市内電車道後駅の間のL字型の区画には、温泉とレンガ舗道とアーケードと商店のマッチした明るい商店街が形成されていった(図2-25)。


 レンガ舗道の街

 昭和三八年八月に結成された道後商店街振興組合(現在組合員数六五のうち五〇が商店であり、いずれもアーケードの恩恵を受けている。)によって新しい商店街の建設がめざされ、全蓋式のアーケードが完成したのが昭和三九年のことであり、五二年にはレンガ舗道が完成した。現在松山市の商店街の中では、大街道と銀天街が軽車両進入禁止商店街であり、道後は三津浜・柳井町とともに車両進入禁止の商店街である。
 商店のほとんどは法人であり、営業開設の年をみると、昭和二〇年以前に開設したものが四九%で、中心商店街並びに市内商店街の中で最も高い比率を示す。なお、二一年から三〇年の間に開設したものが一二%、三一年から四〇年一八%、四一年から五〇年一〇%、五一年以降が一〇%である。商品の仕入れ関係をみると、現金仕入れ、市内からの仕入れの割合が高い。駐車場を保有していないか、あるいは持っていても不充分である商店が多く、柳井町、市駅前通りと並んで切実な問題となっており、駐車場を共同で造りたいとの希望が多く、商店街発展のための必要な改善点としても駐車場の設置および拡大が挙げられている。
 観光客相手のみやげ物店が大部分であるため、朝旅行者が出発する前と夜八時以後の人出が多く、商業活動において時間的偏りがあり、家族従事者中心で経営しているが、いかに観光客をこの道後温泉本館と道後駅を結ぶL宇型の区画に導入するかが発展のキーポイントであり、商店街の魅力づくりをめざす一方、袋・ふろしきなどのサービス品の開発につとめている。

図2-25 道後商店街の形態と業種構成

図2-25 道後商店街の形態と業種構成


図2-26 松山市西部の交通・商業図

図2-26 松山市西部の交通・商業図