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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

六 鬼北盆地の街村の盛衰


 宮野下

 鬼北盆地には西から三間町の宮野下、広見町の近永、松野町の松丸と吉野の四つの商業集落がある。これらの集落は街道ぞいに細長く延びたものであり、集落形態上街村とよばれる。鬼北盆地の街村のうち、近永以外の三集落は藩政時代に起源をもつ在町であるのに対して、近永は昭和になって急速に発展してきた新興市街地である。
 三間盆地のほぼ中央の山麓に立地する宮野下は、昭和二九年に成妙・二名・三間の三町村が合併して形成された三間町の役場の所在地であり、三間町農協、三間郵便局、三間小・中学校などの公共施設が集中し、町内では最大の商業集落である。
 宮野下は天平一〇年(七三八)大三島から三島神社が勧請され、その門前町が形成されたのが起源というが、本格的な商業集落の成立は明暦三年(一六五七)吉田藩が成立し、計画的な町割がほどこされて以降である。町割は道路をはさんで左右対称になされ、一戸分は間口三~四間、奥行一五間であり、村との境は直線上の溝で区画されていた。集落の背後にある白業寺には弘化三年(一八四六)の宮野下の絵図があるが、これをみると、同一規模の民家が道の両側に並び計画的に設定された集落であることがよくわかる。家屋はすべて瓦葺きであり、その一番奥には土蔵造りの倉が配置されている。寛政元年(一七八九)の町分は家数四一、うち酒屋五・鍛冶四・大工二、人口一五八と記録され、下って天保九年(一八三八)の町分は家数四八、うち本家三三、借家一五、人口一九三と記録されている。藩政時代の宮野下は三間郷一帯の物質の集散地として栄えた在町であった。ここに集まった荷物は藩の専売品である紙以外に蝋・茶・酒粕などであり、移出先は吉田の陣屋町と宇和島の城下町であった。
 明治以降の商家の数は、明治四二年(一九〇九)六五、昭和七年八四、昭和二七年五四、昭和五五年四一と変化する。この町が大正年間から昭和一〇年ころにかけて繁栄したのは、周辺農村で養蚕業が盛んとなり、製糸工業が栄えたこととも関連する。物資の輸送は、明治中斯までは十本松峠を経由して吉田に輸送されるものが多かったが、明治二四年(一八九一)宇和島と宮野下を結ぶ県道が開通すると、吉田への物資の輸送は激減する。
 宮野下の市街地が外縁的に拡張されだしたのは、大正三年(一九一四)宇和島鉄道が近永まで開通し、市街地の南西部に宮野下駅が設置されて以降である。藩政時代の在町の西側の上河原や駅前付近に家屋が建てられたのは昭和以降になってである。これらの地区に商家を新しく建設したものは三間町内の農業集落の農家であった。これらの家の多くは、当初は出身地で農業を営むかたわら、宮野下で商業を営む半農半商のものが多かった。
 昭和四〇年以降になると、鉄道以南の水田を埋立てて住宅建設がなされたり、県道沿線に工場が進出したりする。住宅は町内他集落の者が建設したものが多く、工場は用地不足に悩む宇和島市の町工場の進出が多い。
 昭和五五年現在の宮野下の商店街を構成する商家は四一戸であり、うち買回り品を販売する商店七(一七%)最寄り品を販売する商店一六、飲食・サービス業一四、その他四である。このことは今日の宮野下の商業機能が三間町の住民に日用雑貨品を販売する集落で、高級品を販売する集落ではないことを示している。

 吉野

 松野町の東方、高知県境に近い吉野の町は、県道に沿って家屋の並ぶ見事な街村である。その市街地は元禄七年(一六九四)吉田藩によって計画的に設定されたものと伝えられる。近年古い家屋は急速にとりはらわれてきたが、昭和四五年ころまでは、江戸時代から明治初期に建築された古い商家の名残をとどめる家が軒を接していた。市街地の中央には三間幅の直線状の道路が走り、その両側に間口四間、奥行一六間の一戸分の商家が並んでいた。商家の背後には直線状の溝が走り、市街地と農村地域がはっきりと区画されていたことがわかる。商家の造りは、道路に面して格子戸のある店(店舗)があり、次いで中の間(主人の居間)、化粧の間、便所と続き、一番奥に土倉が配置されていた。店から土倉までは片側に土間があり、表の道路から搬入された荷物が、そのまま土倉まで運び込まれるようになっていた。商家の道路に面した部分には腕木があり、馬をつなぐようになっていた。家と家の間にはヒヤバと称する空地を残し、両隣が五寸ずつ控えて二尺の排水路をつくっていたことや、家屋が大壁づくりであったのは、防火に対する備えであったといわれる。
 藩政時代の吉野は、特に土佐の幡多郡との取引で栄えた。明治以降のこの町の盛衰については、坂東梅生の詳細な論考があり、各時代の店舗の構成図も復元されている(図6―4)。明治一〇年には戸数八九、うち問屋一三、仲介一九、雑貨商八、大工五、古物商四、駄賃四、馬喰三、木蝋二などとなっており、問屋・仲介・雑貨商が多いのが目につく。
 問屋は山間部の物資である和紙・楮・椎葺・櫨・木蝋・茶・しゅろ・松繩・松煙・きぶし・かんころ(薬品木の根)・蕨粉などを購入し、阪神方面に送ることを主業とした。仲介は問屋に従属し、問屋の資本でもって集荷した物産を問屋に納入することを業務とした。雑貨商は鬼北盆地からの米・麦などの穀物類、宇和島方面からの塩・酒・醤油・乾物・衣料品などを仕入れ、これを販売した。問屋と雑貨商は兼営の者が多く、これらの商家は山方の物資と平地農村や都市部の生産物を交易することを、業務としたといえる。
 吉野の商圏は、奥野川・蕨生・日吉・三島などの北宇和郡の山間部一帯から、高知県幡多郡北部の現在の西土佐村・檮原町・大正町に及ぶ一〇里四方で、ほぼ徒歩で一日行程の範囲内であった。この間の山間の物資が集荷されると共に、そこに食料品や日用雑貨品が販売されたのである。土佐への交通路は、明治末年に江川崎に県道が通じるまでは、奥野川からソメ越をこえて土佐の権谷(現西土佐村)に出るのが主要ルートであった。交通機関はもっぱら馬であり、馬で物資の運搬を生業としたものを駄賃と呼んだ。駄賃は町内に四戸、周辺の農村を合わせると三一戸にも及んだが、農村においては一般に農業との兼業であった。
 商家の中では土佐に近い地点に立地していた竹葉本家と松本の両問屋と、町の中央部にあった酒造の河野が特に栄えた。竹葉本家は製蝋も兼営していた。「河野(まるいち)・松本(いけだ)・竹葉(やまか)はひきもきらぬ」とは、明治の初めに町でささやかれた言葉であった。明治初期の吉野に大きな変動をもたらしたのは、明治八年(一八七五)商家の次、三男などが、より土佐に近い谷間の新地に一三軒の街村を形成したことである。これは明治になって商家の株数の制限が徹廃されたことによる結果であるが、新地の繁栄は前記の竹葉本家・松本などの問屋を衰退させて倒産までに追いやった。
 吉野の町が衰退に向いだした第一歩は、明治三七年(一九〇四)県道が宇和島から吉野まで開通し、続いて同四四年(一九一一)それが吉野から江川崎に延長されたことである。道路の開通が吉野の町を衰退に導いたのは、道路の沿線に土佐の山間部にも江川崎・十川などの商業集落が形成され、吉野と競合するようになったこと、交通路の発達によって土佐の山間部から物資が直接宇和島にまで搬出されるようになり、吉野の商業中継地としての機能が失われたことによる。商家の数も明治一〇年(一八七七)の八九戸から、同四〇年(一九〇七)七一戸、昭和七年六九戸と減少していく。また店舗の構成も昭和七年には、問屋一、雑貨六、古物商一、駄賃一、木蝋○となり、明治一〇年とはその構成が大きく変化している。
 大正一二年(一九二三)宇和島鉄道が近永から吉野まで開通すると、吉野は鉄道の終着駅の集落として多少の活気をとりもどした。しかし、昭和八年宇和島鉄道を買収した国鉄が同二八年江川崎まで路線を延長すると、吉野のターミナル性はまったく消滅した。加えて、昭和三〇年吉野生村と松丸町が合併し、新たに松野町が誕生すると、従来吉野にあった吉野生村の公共施設はほとんど松丸に移動していってしまった。ここに吉野の繁栄はまったく失われてしまうことになったのである。昭和五三年現在の吉野の商工業者は二九戸にすぎない。

 松丸

 松野町の中央部にある松丸は、町役場の所在地であり、ほかに鬼北農協松野支所・松野郵便局・松野小学校などの公共施設が集中する。また町内最大の商業集落でもある。
 松丸の起源は戦国時代この地を支配した河後森城の領主の居館を中心に形成されたと考えられる。市街地は自然発生的に形成されたものと思われ、吉野のように計画的な地割はほどこされていない。藩政時代には宇和島藩の在町として、鬼北盆地や土佐幡多郡の物資の集散地として栄え、隣接する吉田藩の在町吉野と繁栄を競い合った。土佐への交通路は上家地・目黒を経由するものであり、駄馬によって和紙・蕨粉・楮・櫨・茶などの山間部の物資が集められた。
 松丸の商店街の明治年間からの復元図は、松野町商工誌に掲載されている。明治三七年(一九〇四)の県道開通以前の松丸は、鍵型に屈曲した街道ぞいに、約五〇軒の商工業者が軒を並べていた(図6―5)。都市機能は吉野と類似し、山間部の物資を集荷し、日用品を販売する物産問屋、それに製蝋・酒造・醤油の醸造などが主な商工業者であった。この中でも特に豪商として知られていたのは、吉田屋・岡田本家(松太郎)・岡田分家(忠一郎)・竹葉屋(市次郎)・正木などであった。
 このなかでも松丸随一の豪商として知られていたのは吉田屋であった。吉田屋は紙や蝋を大阪と直接取引し、巨万の富を築いた。岡田本家(岡清)は製蝋と雑貨商(問屋)を兼営していた。今日も雑貨商を営むこの老舗は往時のままの家屋構造を今日にとどめている(図6―6)。道路に面して店があり、その奥に櫨しぼり場がある。土間は表通りの道路から裏側の櫨倉まで直通し、山間部から集荷してきた櫨を直接土倉に搬入できるようになっていた。岡田本店には直属の駄賃持ちが数人おり、山間部の櫨を集荷すると共に、日用雑貨品を馬で山間部に搬出していた。当時は商品には定価はなく、問屋の定めた値段で品物は売買された。勘定は盆と節季の二回であり、その間は掛売りであった。岡田の分家(岡忠)は製蝋で、竹葉は享保年間(一七一六~一七三六)創業といわれる老舗の醤油醸造で、正木は銘酒「伊豫美人」の生産でそれぞれ財をなした豪商である。
 大正年間から昭和の初期にかけての松丸は、製糸工業で活気を呈する。大正六年(一九一七)明治製糸(従業員一二〇名)が市街地の東南端に、同一五年土居製糸が国鉄駅付近に、さらに昭和三年に金沢製糸と、有力な製糸工場が相次いで建設された。市街は明治三七年(一九〇四)開通した県道ぞいに東と西の方向へ延び、また大正一二年(一九二三)に宇和島鉄道が開通すると北の松丸駅付近に住宅街が形成された。当時、商工業を営むものは九〇戸余、銀行は三店あり、松丸警察署や登記所(明治二四年設置)などの官公庁もあり、松丸は鬼北盆地の経済と行政の中心地として大いに賑わった。
 松丸の商工業が衰退をきたしたのは、昭和五年生糸価格が暴落し、製糸工場が倒産しだして以降である。その松丸の商工業に活況がよみがえってきたのは、昭和三〇年町村合併によって松野町が誕生して以降である。昭和三六年松野町役場庁舎の新築、同三七年の農協合併によって松野町農協が誕生、同四四年には統合された松野中学校が松丸に隣接する野尻に新築落成したことなどは、松丸の松野町に対する中心地性を高めるものであった。しかし一方では、警察署・登記所が隣接の広見町近永に移動し、さらに農協も昭和四八年鬼北農協として広域合併し、その本部を近永に移した。これらのことは、松丸の鬼北盆地に対する中心地機能の低下をもたらすものであった。
 現在の松丸の商業の中心地は、明治・大正・昭和の戦前に栄えた旧街道ぞいではなく、昭和四四年に開通した新しい県道ぞいに移動してきている。昭和初期まで栄えた旧街道ぞいには、岡清・岡忠・竹葉のごとく藩政時代以来ののれんを誇る老舗も営業を続けているが、多くの商店は廃業に追いやられ、一般住宅に転用されている。県道ぞいの商店は旧道ぞいのが下におりて来たものもあるが、その多くは町内の他地区などから移住してきて商業を営んでいるものである。またこの県道ぞいには、役場・農協支所・郵便局などが並び、松野町の行政の中心地にもなっている。
 松丸の昭和五二年の商店数は五〇であるが、その大部分は食料品や日用雑貨品など最寄り品を扱う商店であり、衣服や装身具などの買回り品を販売する商店は数店にすぎない。松野町の住民の買回り品の購入先は宇和島市であるが、近年の交通の発達は、最寄り品の購入先も宇和島市に指向させているといえる。

 近永

 広見町の近永は昭和になって急激に発展した新興の市街地である。明治一八年(一八八五)の川原淵組近永村の絵図によると、現在の国鉄近永駅から中心商店街となっている県道付近にかけては、数軒の農家が散在しているのみである(図6―7)。この寒村にも、明治末年には自然発生的に商店が成立してくる。明治四三年(一九一〇)の『旭村誌』には、「由来農村にして商業なし、近時交通の便稍々開くるに伴い沿道に小商店を開くものあるも多くは副業にして、純商としては僅に一三戸あり、宇和島より仕入れたる雑貨及び土地の産物を販売するに過ぎず」と記載されている。昭和初期の近永には、国鉄近永駅と県道の交点付近に、まだ一五軒程度の商家しかなかったという。
 寒村であった近永の地に商業集落が成立し、発展した要因は、第一に近永が地理的位置にすぐれていたこと、第二に交通路の発達に伴って鬼北盆地の交通の要衝となりえたこと、第三に鬼北盆地全域を統轄する官公庁をはじめ公共施設が集中立地するようになったことなどである。
 近永は鬼北盆地のほぼ中央に位置する。市街地付近では三間川に奈良川が合流し、少し下手では、その三間川が広見川に合流する。三間川を溯ると三間町に通じ、広見川を下ると松野町に達する。また奈良川を溯ると仙波峠を越えて宇和島市に通じ、広見川を溯ると日吉村を経由して、土佐の檮原にも通じる。近永はまさに鬼北盆地の交通の十字路にあたる地点に位置しているといえる。
 宇和島から窓峠を経由して務田・近永・松丸・吉野を連ねる鬼北盆地の幹線道路が開通したのは明治三七年(一九〇四)であり、宇和島から仙波峠経由で近永に道路が延びてきたのは明治三九年以降である。また近永から日吉村に道路が通じたのは大正二年(一九一三)であった。道路の開通と共に客馬車が運行されだす。近永経由で、宇和島と日吉間に客馬車が運行されたのは大正二年のことであり、次いで同四年には宇和島と吉野間の客馬車が窓峠を経由して開通する。バス交通は大正一一年(一九二二)和田自動車が出目(現広見町)を拠点に、宇和島~近永~日吉の間に運行される。続いて同一三年には宇和島市の四国自動車が宇和島~近永~小倉間に運行を開始し、下って昭和一一年には省営バス(現国鉄バス)が近永~魚成(現東宇和郡城川町)間の運行を開始する。バス交通に先だって、宇和島鉄道が宇和島~近永間に開通したのは大正七年(一九一八)であり、それは同一二年(一九二三)には吉野生まで延長される。このようにして、明治末年から大正年間にかけては交通路が整備され、各種の交通機関が発達するにつれて、近永は鬼北盆地の交通の要衝としての地位を確保するのである。
 交通の要衝となった近永が市街地として発展しだす大きな契機になったのは、昭和一二年北宇和高校の前身の北宇和農業が開校されたこと、続いて同一四年に近永アルコール工場が誘致されたことである。アルコール工場が原料の甘しょ産地でないこの地に立地したのは、工業用水に恵まれていたこと、工場の敷地が容易に得られたことにもよるが、当時の桂町長の政治的手腕による点も大きい。
 近永の市街地の拡大は、第二次大戦後さらに拍車がかかる。それはこの地に官公庁をはじめ公共施設が相次いで設立されたことによる。昭和三〇年三月新生の広見町が誕生すると、その役場が近永に設置され、さらに近永・好藤・泉の三農協が合併し広見町農協が誕生すると、その本部は近永におかれた。また昭和三六年近永・三島・愛治・泉の四森林組合が合併し、広見町森林組合が誕生すると、その本部も近永におかれ、昭和四九年新築落成した広見中学校も、その校舎を近永の地に設置した(図6―8)。
 このように近永の地は広見町の公共施設が相次いで建設されたのみでなく、国や県の出先機関もこの地に進出してくる。まず昭和三〇年に鬼北警察署が松丸から移動してきた。次いで昭和三五年には法務局広見出張所が開設されると、ここに小松と松丸にあった同出張所が移動してくる。さらに県の農業改良普及所も、小倉と宮野下からこの地に移動してきた。ほかに昭和二三年鬼北郷の一一か村の事務組合によって、総合病院の北宇和病院が設立されたこと、昭和四八年広見農協・松野農協・日吉農協などの農協が合併し、鬼北農協が誕生し、その本部が近永に置かれたことなども市街地の発展に寄与した。
 近永の市街地の発展には、昭和四五年以降相次いで誘致された工場の設立も見のがせない要因である。代表的な工場をあげれば、昭和四八年永野市に誘致された四国いずみ繊維(地元資本、婦人・子供服生産)、広島研磨(名古屋資本、グラインダー生産)、サンコー電機(東京資本、カーステレオ・カーラジオ生産)、同年出目に誘致された真鍋電器(大阪資本、電子・電信機器用部品生産)などがある。
 近永の市街地の発展の方向は、国鉄近永駅付近を核に、県道ぞいに広がり、さらに鉄道をこえて南部へ、また役場付近の東部へと拡大されている(図6―8)。市街地の発展は近永の商店街の発展をうながしたが、その商業は小売商業中心であり、その業種も最寄り品を販売する店舗が圧倒的に多い。昭和五四年現在近永地区には五四の商店があるが、衣服・衣料品店三、装身具店は二にすぎない。このことは近永の商業が、広見町域の顧客への日用雑貨品をサービスすることに甘んじていることを示し、買回り品の大部分は宇和島市の商業機能に依存していることを示している。近永の商店街の魅力をいかに高め、町外流出の顧客をいかに吸引するかが、近永商店街の今後の課題であるといえる。













図6-4 明治10年の吉野の街村

図6-4 明治10年の吉野の街村


図6-5 明治中期~後期の松丸の街村

図6-5 明治中期~後期の松丸の街村


図6-6 岡田本家(岡清・屋号 米)の明治年間の間取

図6-6 岡田本家(岡清・屋号 米)の明治年間の間取


図6-7 明治18年の川原淵組近永村の絵図

図6-7 明治18年の川原淵組近永村の絵図


図6-8 広見町近永の市街地の拡大と公共施設・工場の進出

図6-8 広見町近永の市街地の拡大と公共施設・工場の進出