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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 近永アルコール工場


 アルコール工場の誘致

 広見町近永は古い松丸や宮野下に比べて新興の町で昭和初年には商店が数軒あるのみであった。昭和の初めに、広見町の名誉町民である故桂作蔵の努力によって誘致された県立北宇和高校(前身北宇和農業学校、昭和一二年)や国立近永アルコール工場(昭和一四年)などが核となって町作りがなされた。アルコール工場を原料の甘しょ(さつまいも)の生産の多かった南予の海岸地方に立地せずに近永に誘致したのは、水質・水量、工場用地、交通の要衝、従業員確保の容易な点など、有利な条件もあったが、桂町長の政治的手腕にもよったという。
 ところで、アルコール専売制度は、昭和一二年に石油資源をもたないわが国が、当時の複雑な国際情勢を背景に自給できる液体燃料としてアルコールに着目し、これの大増産を図るために創設された制度である。一方、製造原料として甘しょ・馬鈴しょなどの農産物を計画的に使用することによって、農村経済の振興に役立てようとする農村政策をかねていたことも見のがすことができない。
 当時のわが国のアルコール工業は、焼ちゅうの製造を主目的としたきわめて小規模なものに過ぎなかったので、大量の燃料用アルコールを確保するためには、原料の大増産はもとより、工場設備の新設、すぐれた製造技術の導入、新規技術員の養成などすべてを基礎から築き上げる必要があり、しかもこれを急速に遂行しなければならなかった。これらの理由によりアルコール製造に専売制度を採用したのである。
 専売法施行後まもなく日中戦争がぼっ発し、アルコール専売事業は大蔵省専売局所管の下に国策として強力に推進された。昭和一三年国営千葉工場がアミロ法による無水アルコールの生産を開始して以来、続いて一二の国営工場(表6―5)が次々と操業を開始し、民間の特許工場(二工場)および製造委託工場(三工場)を合わせて、昭和一七年には総生産能力は一一・三万キロリットルに達した。この間、昭和一三年に揮発油およびアルコール混用法が施行され、ガソリン混入用無水アルコールの増産が進められた。
 昭和一六年から終戦までの五年間は、第二次世界大戦への突入と、それに先立って米国などによってとられた対日石油輸出の全面的な停止措置により、アルコールが揮発油に代わるべき単体燃料として脚光をあび、官民あげての増産体制の下に生産の大部分が軍需に向けられた時代である。甘しょ以外にも、満州産のとうもろこしや、台湾産の砂糖など入手可能な原料は全て投入され、官民のアルコール工場はもとより、軍のブタノール工場や小規模な焼ちゅう工場までがアルコールの生産に動員された。このようにして昭和一八年には、一三・五万キロリットルという専売史上最大の生産数量を記録したのである。

 アルコール工業の現況

 昭和二〇年の終戦と同時に、燃料確保を目的としたアルコール専売事業の機能は一時麻ひ状態となったが、戦後の混乱が一段落すると復興の基礎資材としてアルコールを安定的に供給するため、事業の体制を活用することが要請され、二二年にはアルコール専売事業特別会計法が施行された。終戦直後は食料危機のどん底にあって、原料の甘しょ・馬鈴しょの確保も困難な状態にあったが、二三年以来、第二の原科である糖みつ輸入の道がひらかれ、戦災等被災工場の復旧もなって、ようやく生産が軌道に乗り始めた。しかし、二五年ごろはドッジラインに沿った緊縮財政の影響もあって景気は低調であり、アルコールの需要も二・五万キロリットル前後を低迷して工場の稼働率は低いものであった。加えて、朝鮮動乱の余波を受けて糖みつの国際価格が暴騰するという悪条件が重なり、生産原価がかなり高いものとなった。このため、国営工場の合理化、体質改善への積極的な努力が要請され、三四年までの間に国営六工場(北見・帯広・高鍋・島原・相知・小林)の廃止と民間払い下げが実施された。
 二〇年代の後半から三〇年代の初めにかけては、国営工場においても、特に廉価良質なアルコールの生産を目標として、いくつかの技術開発および生産工程の改善が行なわれた。それらの例としては、液体こうじ法の工業化、抽出蒸りゅう法による一級アルコールの生産、公害防止と熱源としての有効利用をかねたメタン発酵法による廃液処理などである。しかし、わが国における石油化学工業の導入が三五年ごろから本格化したのに伴い、エチレンを原料とする合成アルコールの企業化が現実的課題として提起されるに至った。原価の低廉な合成アルコールの導入に伴い、国営工場も原料施策、技術開発などによって一層廉価なアルコールを安定的に供給する体制を整えるとともに品質面においても一段の向上を図ることになり、それらの施策が三八年から四二年にかけて集中的に行なわれた。それらの例としては、糖みつ輸入のための直営港湾施設の設置、糖みつの代替原料としてのハイテストモラセスの使用、発酵工程での濃厚仕込みによる作業能率の向上、減圧蒸りゅう法による特級アルコールの生産体制の強化などをあげることができる。
 ところで、中四国・近畿では唯一の国営アルコール工場であった四国通産局近永アルコールエ場は、操業当時(昭和一六年一二月)は南予特産の甘しょを原料にフル生産し、国内でも最大の年間七二〇〇キロリットルに達した。戦後は、甘しょがあまり作られなくなったことなどから、原料は糖みつの比重が大きくなり四七年以降は糖みつのみとなっている。その製造工程でできる廃液の濃縮液が有機質肥料となるほか栄養価が高く、乳牛などの飼料としても効果があるということで、近郊の酪農家、畜産家に供給されている。また五四年からは愛媛みかんのジュース絞りカスを原料にしたアルコール生産も、県青果連との協力で始められている。操業当時に比べ従業員は約八〇人に半減、生産量も三六〇〇キロリットルになってはいるが、地元産業との結びつきは強くなっている。ところが、昭和五三年、公共企業体等基本問題会議の提言をはじめ、アルコール専売事業の民官移管が言われだし、同五七年一〇月からは、「全国のアルコール専売事業の製造部門を新エネルギー総合開発機構(NEDO)の事業部門とする」との政府決定により全国の七工場(千葉・石岡・磐田・近永・肥後大津・出水・鹿屋、職員約五四〇人)は特殊法人・新エネルギー総合開発機構(NEDO)へ移行した。








表6-5 国営酒精(アルコール)工場一覧

表6-5 国営酒精(アルコール)工場一覧