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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 宇和島市の都市構造


 都市機能の地域分化

 都市はその規模が大きくなるほど機能が多角化する。その分化した都市機能は市街地内では渾然一体となって分布するのではなく、一つの機能が一つの地区に集中し、次第に都市機能の地域分化がなされる。この都市機能の地域分化は都市の規模と関係し、都市が大規模化すればするほど地域分化が明確となる。人口七万余の宇和島市は、県内の都市では松山市に次いで、今治市などと共に、都市機能の地域分化が著しいといえる(図5―32)。

 業務地区

 官公庁や会社の事務所からなる業務地区は、交通便利な都心に立地する傾向が強く、このような都心の業務地区を中心業務地区(CBD)という。宇和島市の中心業務地区は、城山の南の丸之内一・二丁目から堀端町・広小路・御殿町・桜町にかけての地区である。この地区にある代表的な官公庁は、宇和島税務署・松山地方裁判所宇和島支所・松山地方法務局宇和島支局・宇和島郵便局・宇和島営林署・日本専売公社宇和島出張所などであるが、これらは明治年間家老屋敷など宏壮な武家屋敷の空地に立地したものが多い。第二次大戦後は宇和島地方局の前身の宇和島県事務所が昭和三五年に天神町へ、宇和島警察署が同四八年に寄松に、宇和島市役所が同五一年に曙町に移転したごとく、官公庁や会社の事務所などで市街の周辺部へ立地移転したものも多い。かわってこの地区には病院が多く立地し、現在は病院街の様相を強めてきているといえる。

 小売商街

 小売商街には高級専門店が並ぶ都心商店街と、住宅街をひかえた周辺商店街かおる。宇和島市の都心商店街は追手通商店街から袋町商店街・新橋通銀天街・恵美須町銀天街・恵美町二丁目商店街にかけての商店街である(図5―33)。商店街の中心地は大正から昭和の戦前にかけては追手通が中心であったが、第二次大戦後その中心地は袋町から新橋通へと移動していく。都心商店街の中心が南から北へと移動した要因は、①宇和島市の市街地が大正年間以降北部に拡張されたこと、②昭和二〇年国鉄予讃線が開通し、沿岸航路のターミナルである内港と共に、水陸の交通ターミナルが市街地の北部に形成されたこと、③宇和島自動車のバスターミナルが追手通から堀端町へ、さらに現在の丸之内一丁目へと移動したこと、④顧客の吸引力に富む量販店のフジ宇和島店が昭和四二年に恵美須町二丁目に、フジ丸之内店が同四五年に袋町に、百貨店しんばし(スーパーマーケット)が同五三年に新橋通に、それぞれ開店したこと、などがあげられる。
 現在都心商店街のなかで地価が最も高いのは、新橋通であり、それに次ぐのは、袋町・恵美須町一丁目である。このことはこれら三つの街区が特に商業活動が盛んであることを示すものである。これら三つの街区は店舗密度が高く、店舗構成では衣服・身の回り品・文化品などの買回り品の比率が高い。また一店舗当たりの売場面積は広く、売上げ量も多い。
 これら三つの街区からなる都心商店街は、昭和三八年アーケードを架設、さらに五五年から五七年にかけてはアーケードを改築、道路はカラー舗装をなし、その景観を一変させた。県内の商店街では、松山市の大街道と並び美観を競う商店街となっている(表5―55)。
 都心商店街に対して、その北部で直行するのが駅前商店街であるが、この商店街には飲食店や土産物店の比率が高いのが特色である。中心商店街の裏通りには、桜新町・柳新町などの飲食店街がみられ、夜の酒場としての賑いをみせている。
 周辺商店街には、市街地北部の和霊町、市街地南部の元結掛から山際にかけて、その代表的なものがみられたが、昭和になっては、干拓地に新市街の形成された朝日町本通にも同種のものが形成された。これらの周辺商店街は、食料品や日用雑貨品などの最寄り品を販売する商店が多く、その顧客も周辺の住宅街の住民である。

 卸売商街

 小売商店を対象に広範な商業活動を展開する卸売商店は、交通便利な都心地区に立地するのが通例であった。宇和島市の第二次大戦前の卸売商街は大正一五年に道路の拡張された本町通と、旧城濠を利用した内港に面した横新町から竪新町にかけての地区に形成されていた。しかし後者は内港が宇和島湾頭に移動していくにつれて衰退し、かわって栄町港から朝日町一・二丁目、さらには国鉄宇和島駅に隣接した鶴島町に新しい卸売商街が形成された。
 これらの卸売商店は東宇和郡以南の南予全域から、高知県の幡多郡・宿毛市の一部にかけてをその商圏とする。商品の販売は主としてトラックに頼っているが、近年の交通混雑からその卸売機能に支障が生じ、新たな卸売団地の形成が要請されている。

 工業地区

 工場は広い敷地を必要とする上に、原料と製品の搬出入が多いので、安価な地価の得られる交通便利な地点に立地する傾向が著しい。宇和島市の工業は明治末年から大正年間にかけては、市街地北部の八幡村下村地区や市街地南部の佐伯町・山際などに製糸工場・綿織物工場、食品加工業などが立地していたが、工業地区といえるほどのものではなかった。
 大正年間から昭和の戦前にかけては、藩政時代の干拓地であった現在の朝日町・寿町・弁天町の地区に工場が集積され、準工業地区といえる地区が形成されてくる。この地区の第二次大戦前の工業は、製糸工業や綿織物工業が主であったが、この地区の工業化をうながした大きな要因は、須賀川大橋から宇和島の外港の樺崎に大正一○年朝日町本通りといわれる大通が開通したこと、大正一〇年から同一四年の間に幅五五m、延長二四〇mの朝日運河が掘削され、機帆船の停泊地が形成されたことである。現在この地区の工業の主体は造船工業とその関連工業、それに製材工業である。造船工業の先駆は大正六年に創設された宇和島造船であるが、この工場が現在のように規模拡張され、多くの関連工場を持つようになったのは、昭和一八年来島ドックに経営権が移管して以降である。製材工場は第二次大戦後に朝日運河をとり囲むように集中的に立地するが、昭和四七年以降は坂下津の産業団地に移転していった工場も多い。
 坂下津地区の工業化の先駆は、昭和九年近江帆布が誘致されたことに始まる。その本格的な工業化は昭和四七年宇和島市がここに産業団地を形成して以降である。現在の主な工場は製材工場と鉄工工場であるが、ほかに南予生コンや協和飼料など従業員の多い企業も立地している。坂下津よりさらに新しい工業地区は国鉄北宇和島駅を中心とした地区であるが、この地に工場が立地した要因は国道五六号の改修によってトラック輸送が便利になったことである。

 交通運翰地区

 宇和島市で交通運輸関係の機関の集中している地区は、国鉄宇和島駅周辺と新内港・築地・樺崎・坂下津などの臨海地区である。このうち前者は国鉄予讃線・同予土線と宇和島自動車の接点であり、駅舎、バスターミナル、タクシー会社、南予通運などが集中している。一方、後者には、新内港に内海航路を独占する盛運汽船の本社、築地に別府航路をもつ宇和島運輸と県漁連の魚市場を中心に四国急速冷凍などの鮮魚輸送関係の業者が立地している。坂下津には昭和五六年外材輸入港が建設され、一万二〇〇〇トンの貨物船が接岸できるようになった。岸壁の背後には木材と砂利の集積場があり、トラックの出入が激しい。

 文教地区と住宅地区

 宇和島市で学校の集中している地区は、市街地の南西の文京町である。ここには宇和島東高・宇和島南高・城南中学校・明倫小学校・鶴島小学校が隣接して立地している。近くには宇和島水産高と城東中学校も立地する。この地区は藩政時代の干拓地であったところが、昭和になって市街化されたところである。市街化の契機をなしたのが学校の建設であったが、それは旧市街地の学校が用地を求めて移動してきたり、第二次大戦後新しい学校が新設され市街化した。
 宇和島市の住宅街は城山の東南部に広く見られる。この地区は藩政時代の武家屋敷であったところであり、扇状地の高燥な地形と閑静な環境が住宅の立地に好条件を与えた。新興の住宅街は旧市街東部の野川や大超寺奥、市街地北部の柿原や大浦、市街地南部の宮下・寄松・薬師谷などに形成されている。

 市街地整備の方向

 山地が海に迫り、平地に乏しい宇和島市は、愛媛県内でも特に地価の高い都市である。旧市街地で再開発が困難な宇和島市は、施設の拡張や新設に際して、その用地を市街の北部と南部に求めてきた。しかしそれらの地区も既に都市化の波にのまれ、新しい施設建設の余地には乏しい。
 残された道は背後の山地の活用と前面の海の埋め立て以外には見いだされない。昭和四八年和霊小学校が和霊東町から丸山の山地に、同五五年天神小学校が天神町から丸穂の山地にそれぞれ移転し、丸山の山地に昭和四八年から丸山運動公園が建設され、闘牛場・野球場・テニスコートなどが建設されたのは、山地の活用の典型的事例である。一方、海の埋め立て地としては、昭和五二年から五八年の間に樺崎地区に七万五一六○㎡の埋立地が完成した。この地区の阜頭には昭和五八年三月から宇和島運輸のフェリーが離発着しているが、背後の埋め立て地には、トラクターターミナル・水産関係の卸売団地・貯木場・石油備蓄所などの設置が計画され、新しい物流の基地の形成が予定されている。
 また国道バイパスのみられない宇和島市は市街地での自動車の渋滞が著しく、バイパスの建設が急がれている。昭和五八年一二月に発表された宇和島バイパスの計画路線図によると、市街地北部の申生田から市街地南部の寄松に至るバイパスは、その九〇%までがトンネルと高架道路であり、バイパス建設に際しての用地不足を物語っている。バイパスの建設はその入口付近の北宇和島地区と寄松地区に新しい商業と娯楽の地区を形成しようとしている。北宇和島地区では、昭和五八年フジ北宇和島店が、同五七年にはパチンコジャンボ丸之内店がそれぞれ開設され、寄松地区では、昭和五一年にルート五六号丸之内パチンコ店が、同五八年しんばし南店が開設されたのは、商業・娯楽地区形成の前兆を示すものである。
 このような新市街地の形成と共に、旧市街地をいかに再開発して魅力のある都市を再建するかということも、宇和島市にとっては残された大きな課題である。













図5-32 宇和島市の都市機能の分化

図5-32 宇和島市の都市機能の分化


図5-33 宇和島市の中心商店街の店舗構成

図5-33 宇和島市の中心商店街の店舗構成


表5-55 宇和島市の商店街別基本指標

表5-55 宇和島市の商店街別基本指標