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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

六 宇和盆地の集落立地の特色


 集落立地の特色

 南予随一の穀倉地帯である宇和盆地は、耕地整理された短冊型の水田の間に道路と灌漑水路が碁盤目状に走る。集落はその水田の中にはほとんど見られず、山麓線にそって立地している。集落が盆地底をさけて山麓に立地する主な要因は、山麓部の土地が高燥であったこと、飲料水の取得に便利であったことに求められる。また集落が山麓に立地すれば、水田の壊廃を防止できたこと、山地からの薪炭や肥草の採取にも便利であったことなども有利な点であった。
 広大な水田耕作を営む宇和盆地の集落は、水田に投入する肥草の採取上、林野を所有することは不可欠であった。集落領域の地域的構成をみると、山麓線に立地する集落の背後には林野が広がり、その前面には水田が展開するのが普遍的な形態である(図4―7)。林野は薪炭や肥草の採取地として重要であるのみでなく、清冽な飲料水を住民に提供し、また山麓に構築された溜池の灌漑水源としても重要であった。

 盆地底に立地する集落真土と永長

 宇和盆地の集落のなかで山麓線に立地していない集落には、真土と永長がある。これら両集落は共に宇和川ぞいに自然堤防状の微高地があり、かつ飲料水に適する地下水が得られたことが集落立地を可能にしたといえる。
 真土の集落は宇和川の右岸の西真土と、宇和川の左岸の東真土に分けられる。西真土は宇和川ぞいの自然堤防上の徴高地に立地する古い集落であるのに対して、東真土は明治三三年八幡浜と卯之町を結ぶ県道が開通して以降、西真土や加茂の住民が移住してきて形成された新しい集落であり、出店ともいう。西真土の飲料水は各戸井戸水に頼った。宇和盆地の盆地底は地下水が滞留しているところから、鉄分を含んだ赤茶けた地下水しか得られず、一般には飲用に不適当であった。しかしこの西真土は、六〇㎝ほどの表土の下に一・五mから二m程度の粘土層があり、その下には清冽な地下水が流れている。住民は各戸井戸をうがってこの地下水を汲み上げ飲用に供した。この地に集落が立地し得た最大の要因は、この清冽な地下水の存在であったといえる。
 一方、東真土の新興集落は飲料水の取得に困難をした。この地の井戸水は、場所によっては清冽な地下水が得られたが、大部分の井戸は鉄分の多い赤茶けた地下水しか得られなかった。宇和盆地には、もらい水をするのは恥とする風潮もあったので、このような家では砂と木炭を桶に入れた濾過装置をもち、濾過した水を飲用した。 真土の林野はその西方の田苗の集落背後の山が利用された。真土は行政的には独立した集落ではなく、田苗と共に藩政時代の行政村をなし、田苗真土といわれたが、それは採草地の必要性が林野のある田苗と林野のない真土をして、一つの行政村を構成させたものと思われる。
 永長はその集落領域内に林野をまったく持たない宇和盆地唯一の集落であった。集落立地点は自然堤防状の微高地に位置し、飲料水は地下水にたより、各戸井戸を掘削していた。井戸水には飲用に適するものと、適さないものがあったが、鉄分を含んだ赤茶けた井戸水は、砂や木炭で濾過して飲用した。水田に投入する肥草山は集落領域内には皆無であったが、新城に永長のみの共有林があり、また上松葉・野田・小野田などには、それらの集落との共用の入会採草地があった。
 真土や永長の集落は盆地底のなかでは微高地に立地していたので、小規模な洪水には侵水をまぬがれたが、昭和一八年や二〇年などの稀有の大洪水には、床下浸水程度はまぬがれなかった。このように見てみると、真土や永長などの盆地底の集落は、立地上は決して恵まれた位置にあったとはいえない。

 岩木の集落立地

 宇和盆地の北西部にある岩木は山麓線に立地する集落であり、集落立地からして、宇和盆地の模式的な集落である。集落が山麓線ぞいに立地する第一の要因は、山麓線ぞいに集落立地に適する高距地があったことである。岩木の集落領域の南を流れる川を深川、その付近の水田を深田というが、深川流域は幕末に水田が開かれるまでは一面葦の群生する低湿地であった。開拓された水田も明治三九年に耕地整理が始まるまでは、膝を没するほどの湿田であった。これに対して集落北東部の山麓には扇状地性の高燥地があり、集落の中部から西部にかけては山麓線にそった高燥地があり、そこが集落立地に絶好の場所を提供したのである(図4―8)。
 第二の要因は、山麓線ぞいが飲料水の取得に便利であったことによる。この集落の飲料水源は、大正年間までは谷川の流水と山麓線にそって湧出する「いずみ」、それに井戸水であった。井戸水は山麓線ぞいでは清冽な地下水が得られたが、盆地底の方になると、鉄分を含んだ赤茶けた地下水しか得られず飲用には適さなかった。現在の飲料水は谷川に水源を求めた簡易水道に頼っているが、この簡易水道は大正末年から昭和三五年ころの間に数戸から十数戸が簡易水道組合をつくり建設したものである(図4―9)。 
 第三の要因は、水田を可能なかぎり宅地に潰したくないという農民心理である。古老の言によると、現在の山麓線よりさらに高いところに住居跡があり、そのような土地を元屋敷とよんでいるという。藩政時代には年貢米の確保のため、「屋敷上り」と称して、いったん平坦地に進出した住宅が、また山麓線の上の旧屋敷跡に帰っていった例もあるという。
 第四の要因は、現在の山麓線が明治年間まで住民の経済活動の中心地であったことである。集落の背後の山地には、かつては薪炭の採取林や入会採草地があり、また山地を刻む侵食谷には水田も開けていた。さらに山頂の平坦地にも畑が開けていた。この畑は「うちとり」といって、共有地を開墾したものが自己の所有地にしたものであるという。一方、盆地底の湿田は明治末年の耕地整理事業までは、土地生産性も低く、価値の高いものではなかった。このようにみると山麓線はまさに住民の生活圏の中心地であったのである。

 岩木の集落の移動

 岩木の集落は山麓線ぞいに立地していたが、大正年間になってから、山麓線から次第に低地へと移動してきている(図4―10)。住居の移動は転居や分家の創出という形をとって進行している。住居の山麓線から低地への移動を促進した要因は、耕地整理の実施、道路の整備、簡易水道の普及などであった。
 明治三九年(一九〇六)に開始された岩木の耕地整理では、同時に暗渠排水がほどこされたので、山麓に近い水田は乾田化され、そこへの住居の立地を可能とした。耕地整理事業では、同時に道路の拡幅整備もなされたので、盆地底に近い部分では、旧来の山麓の集落の立地点と比べて道路が整備され、馬車の時代から自動車の時代になるにつれて、集落の立地条件が良好となってきた。
 しかし何といっても、集落が低地に下りてくることを可能とした最大の要因は簡易水道の普及であった。耕地整理事業によって耕地が乾田化し、道路が拡幅整備されても、山麓線を離れた地点では飲料水の取得が困難であった。谷川に水源を求めた簡易水道が敷設され、その水が導水されるようになって、はじめて盆地底の方には集落の立地が可能になったのである。なお明治末年に形成された県道ぞいの新店の集落は、盆地底への道路の開通に伴って形成された街村であるが、昭和三九年簡易水道が敷設されるまでは、二〇〇mから三〇〇mも離れた山麓の井戸まで桶によって飲料水を汲みに通わざるを得ず、婦女子の水汲みは大変苛酷な仕事であったという。








図4-7 宇和盆地の集落の領域

図4-7 宇和盆地の集落の領域


図4-8 宇和町岩木の集落立地

図4-8 宇和町岩木の集落立地


図4-9 宇和町岩木の飲料水源と簡易水道の利用関係

図4-9 宇和町岩木の飲料水源と簡易水道の利用関係


図4-10 宇和町岩木の住居移転の方向

図4-10 宇和町岩木の住居移転の方向