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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 宇和海の湾頭集落


 川之石

 川之石湾は別名巴湾ともいい、旧役場や川之石小学校の所も明治時代には海であった。江戸時代に開かれた新田としては和田新田・鯛ヶ浦向新田・楠浜新田・沖新田などがあるが、これらは宮内川・喜木川のデルタの沼沢地を開発したものである。和田新田は明和年間(一七六四~七二)に伝六という船大工がこつこつと浅瀬を埋めていき、藩主からその功に対して和田の姓を賜ったといい、これが和田新田と和田町の名称の由来といわれている。向新田もこのころできたようである。一方、沖新田は、寛政年間(一七八九~一八〇一)に日土村の次郎兵衛と宮内村清水町の船来屋の二人が一五年かかって埋め立てたものである。
 明治になっても埋め立ては進み、川之石小学校の東門一帯の埋め立ては明治二一年(一八八八)である。現在の伊豫銀行の所は明治二〇年、中学校(旧東洋紡)は同二三年、小学校敷地は同四〇年まで海であったという。元の川之石中学校敷地は昭和の始めまでは海であったが、昭和一三年に昭和鉱業が進出し、今出鉱山の素石の捨て場として造成されたものである。
 川之石町内に藩政時代からさかんであった櫨・木蝋の生産と海運業は、維新後いっそう盛んになり、明治八年(一八七五)には蝋座が開設された。その蝋座の有志が同一一年に県下で最初の銀行である第二九国立銀行(後の伊諭銀行)を開設するにおよんで、川之石は南予の商業・金融の中心地となった。同銀行の資力をもとに明治二一年(一八八八)には兵頭昌隆らによって四国で最初の紡績会社、宇和紡績会社が設立された。これは大正三年(一九一四)には東洋紡績川之石工場となった。設立当初の工場は川之石本通りの本町にあったが、明治二九年(一八九六)の増設に際し、旧東洋紡跡地に移転した。また、銀行は海運業や鉱山開発資金の調達に貢献した。ことに海運業は、明治四五年(一九一二)には雨井・川之石を母港とする機帆船は四九三隻を数え、明治末から大正期には石炭輸送に進出した。鉱山開発では、明治二〇~三〇年代に一三の銅鉱山が開かれ、金・銅・硫化鉄鉱などゴールドラッシュを思わせる盛況ぶりで、八幡浜以上のにぎわいであった。特に、明治二四年(一八九一)開坑の大峯鉱山は同四〇年ころには月産六〇〇〇トンの出鉱量をほこり、別子に次ぐ四国第二の大鉱山となった。しかし、これらの海運業や鉱山は、昭和に入って急激に衰退した。前者の衰退要因は資力に乏しかったことで、当地の船主のほとんどは一杯船主で、時化その他の災難にあい被害を被ると再建は不可能であった。また、日中戦争勃発により船が高く売れたので、大部分の船主が船を処分して海運に見切りをつけた。残った船も第二次大戦中徴用にとられ、折りしも予讃線の八幡浜までの開通(昭和一四年)、二〇年の台風による港や船問屋の被害、戦後の自動車の普及による陸上輸送の発達なども衰退要因である。後者鉱山の衰退は資源の枯渇である。
 ところで現在の川之石は、八幡浜市の都市機能を分担する形で著しい発展がみられる(図3―23)。特に、喜木川河口の右岸にあたる琴平町・本町は川之石の中心街をなし、川之石小学校(①)、保内中学校(②)、中予電気保内工場(③)、保内郵便局(④)、伊豫銀行川之石支店(旧第二九国立銀行跡、⑤)、愛媛相互銀行川之石支店(⑥)、県内唯一の蚕種製造の愛媛蚕種(⑦)、Aコープ川之石店(⑧)、保内町商工会(⑨)、カワイシ醤油(⑩)、八興産業(⑥)などのほか本町商店街を形成し、商業、経済、教育などの施設の集中立地をみている。また、喜木川河口左岸の和田町から沖新田には県立川之石高校(⑫)、あけぼの寮老人ホーム(⑬)、八西特別養護老人ホーム「青石寮」(⑭)、白浜造船(昭三四年立地、⑯)、興国パイプ(昭三七、⑰)、平和コンクリート(⑱)、ヤマキ産業(⑲)、豊洋産業(⑳)、松代木材(丸21)、あわしま堂製菓(丸36)、新井産業(丸37)、川之石保育所(丸35)などの中小の工場、事業所が多く立地している。
 川之石の北隣りに位置する宮内地区南部の清水町・駄場・大竹には東西に国道一九七号が走り、南北に宮内川沿いに走る国道三七八号とが交差する。交通の便の良さと用地確保の容易さから近年急速に都市化がすすんでいる。保内町役場(三九年完成、丸22)、町中央公民館(四八年完成、丸23)、警察官派出所(丸24)、瀬戸デッカ航路標識事務所、宮内簡易郵便局、保内電話交換局(丸38)、保内町母子健康センター(⑮)などの官公署施設をはじめ、四国送電工事企業体現場(丸28)、八幡浜倉庫保内営業所(丸41)、八幡浜自動車教習所(昭三九年、丸25)、西南開発(四〇年、丸26)、Aコープ宮内店(丸42)、宮内青果農協(丸43)、八幡浜生コンクリート(丸27)、堀田建設(丸39)、南予メリヤス編振興会(丸40)など川之石地区や八幡浜市からの進出、移転した施設や事業所が多い。また、両国道沿いを中心に各種商店・事業所、一般・町営住宅や寮・アパート、マンションの建築が多くみられる。八幡浜市に接し、国道一九七号が地区の中心を走る喜木地区も宮内地区同様住宅地化が著しく、また八幡浜市方面からの事業所の進出も目立つ。西宇和青果保内選果場(丸29)、農協八幡浜カーセンター(丸30)、日本柑橘工業八幡浜工場(二九年、丸31)、丸三産業(丸32)、四国電力保内変電所(丸33)、同保内アパート(丸34)などである。この喜木から宮内にかけての国道一九七号沿いは八幡浜市の産業通りとともに八西地区で最も都市化の著しい地区となっている。一方五八年の保内町への転入世帯二九四のうち、八幡浜市からの転入が八五世帯(二九%)に達していることからも、八幡浜市のベッドタウン的機能を果たしているといえる。

 三 瓶

 朝立・安土・津布理・垣生といった三瓶湾湾頭に立地する集落は、宇和旧記にも記録があり、宇和の西園寺にとって、宇和海より瀬戸内海へと門戸を開くために、重要な拠点であったことは容易に想像される。
 藩政期に入り、宇和島藩は初期は安土港から津出しを行なっていたが、安土浦などを吉田藩に分藩することによって、新たな港が必要となり津布理開発にのり出している。当時の津布理開発の様子が『弌野截』岩野郷之内津布里村に関して次のような記載がある。

  米三拾石 御城下廻御俵物運賃米也。但御城下廻高壱万俵有之
  時之事也。是ハ安土浦庄屋へ四分積せ申定故、六千俵分、壱俵
  五合宛、安土浦江従先年津出仕来九ヶ村井俵津浦江津出仕来候
  御村之内五ケ所、従当年津布里村へ津出し申付候二付支配之        
  事。(中略)一、津布里船入堀普請之儀者、致津出侯村々与加
  勢申付、急々為堀可被申事。云々           

 それまでの津布理は在方で、港湾施設が整っていなかったので、安土浦が吉田藩となり、宇和米、蝋、仙過紙などの積み出しに藩独自の港が必要となって写真3-20にみられるような船入堀が急拠完成された。この写真からは「津布理商人」と呼称されるほどの商業活動が盛んで、宇和を後背地とする街村が形成されていた津布理の様子をうかがい知ることができる。この絵図は三瓶小学校にある縮尺三千分の一程度の絵図で、明治初期から中期にかけての旧三瓶村の当時の景観がよく分かる。
 また安土浦の庄屋文書に次のような記録がある。

  口上之覚
 安土浦無縁菊太郎、同万作、有網代浦佐太郎
 右之者共無家督二御座候而、渡世方も無御座難渋仕候間、弐枚帆位之廻船所持為至度断申出候。然処是迄ニも廻船数御座候。
又ぞう御願申上腕儀も恐入御儀奉存候得共、当浦ハ御見受被下置候通、田畑もせまく候上追々人数相増し候得バなぐり作等之渡世方も無御座、無拠、御伺申上候。以上
 安政四巳五月一二日 安土浦庄右衛門
  毛利又佐衛門様 兵頭官右衛門様

 回船業によって生計を立てている者が相当数あることを示しており、安土浦のほかに吉田藩の番所のあった二及や、垣生、朝立などの湾頭に位置する浦々にも、こうした商業活動が盛んであったと考えられる。
 朝立川・津布理川の川尻の土砂の堆積が進行し、埋め立てが数次において行なわれている。とくに明治三九年(一九〇六)朝立に朝井猪太郎が進めていた五〇〇〇坪の埋立が成功し、明治四三年(一九一〇)から計画的街並みづくりが行なわれ、朝屋新地の商業の繁華街ができあがった(図3―24)。明治三〇年代後半の海上交通の発達、周辺農村の養蚕業の発達などによる商業活動の活発化に加えて、明治四四年(一九一一)八幡浜~二瓶線の郡道が開通し、朝屋新地に結びつけられ、大正六年(一九一七)三瓶トンネルが開通し往来が多くなるなどにより朝屋新地は歓楽街のにぎわいを見せた。
 大正末には塩田の一部が埋め立てられ塩田町通りが形成されている。大正八年(一九一九)三瓶織布、昭和四年近江帆布の工場が建設されることにより、入山綿布四〇〇人、近江帆布一二〇〇人の工員の流入は商店街の中心を朝屋新地から塩田町に移すことになった。昭和一〇年(一九三五)塩田の埋め立てが完了し、新しい街の区画が作られ、商店街がつくられた。昭和四〇年にはアーケードの銀天街に改装されている。背後を山に囲まれた三瓶の住民は、この商店街を利用してきた。同じ湾頭でも八幡浜が国鉄予讃線の開通によって、近在の物資集散の拠点となり、急速な商業の発展をはたしてきたのに対して、昭和五一年一一月の酒六三瓶工場の閉鎖、同五三年の横平トンネルの開通による三瓶~八幡浜間の交通事情の変化などに直面して、湾頭集落としての三瓶は、新しい時代への対応をせまられている。








図3-23 保内町川之石・宮内の都市的施設の分布

図3-23 保内町川之石・宮内の都市的施設の分布


図3-24 三瓶湾内の埋め立て

図3-24 三瓶湾内の埋め立て