データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

五 大島の島四国

お遍路さんと善根宿

 島四国ガイドブック(吉海町・宮窪町観光協会発行)には次のような島四国五七五案内が載せてある。

開創は文化四年(一八〇七)という誇り その歴史二百に近い春や秋 准四国本山仁和寺允許なり 日本で善根宿はここばかり 三代に及ぶ善根宿の縁 今治へ阪神尾道三原から 新幹線三原下車して今治ヘ フェリーの大島行きで三十分 着くとすぐ四十四番がうちはじめ 婦女子にも二泊三日の良いコース 海や空心を洗う青や碧 信仰の霊験談も数多く 八十八寺院は四つあとは堂 へんろ市旧暦三月二十日中 本札と前札番外百余り 服装は自由軽装なれた靴 旅なれた人の要領荷はかるく 食堂や旅館は繁華街にだけ つかれたり宿の都合でバス利用   道すがら水軍遺蹟ここかしこ 道しるべ二百に余りまだほしい (55番、24番、44番、48番からは)
旧本道さけてふだんは新道を 尺貫法なれば今治からは二里 行程は十五里島は十一里

 大島に設けられた四国霊場巡りは、弘法大師の入定にちなんで、毎年旧暦の三月一九、二〇、二一日の三日間が縁日で大いににぎわうが、単に島四国あるいは「へんろ市」とも呼ばれる。島にはこの期間善根宿、お接待の美しい仕来りがいまもなお残っている。「大勢のお遍路さんのなかには、きっとお大師さんがまじっている。失礼があってはならない」という考え方が昔のままにのこっているわけで、島の人たちの純朴さの現れといえよう。
 縁日以外の日も、縁日ほどではないがお遍路さんの姿はあとを断たない。

 吉海町の下田水にフェリーが到着するとお遍路さんの群れが下船する。お年寄りもいれば若い者もいる。何年も続けて参る人もたくさんいる。山道を歩き、浜べを巡り、けわしい坂道も信仰の力でというか、群集心理でというのか、誰も彼も疲れを忘れて元気に歩き続ける。
 道中、お札所のあるお寺はもちろんのこと、民家でも、道路ぶちでも、おむすびや、お茶、お菓子、ミカン、ちり紙などを無償でお遍路さんに差し上げる。これを「お接待」という。
 最近はこの三日間に松山、西条、今治、新居浜、広島などからのお遍路さんは二、三万人といわれるが、そのすべてが沿道の一般の民家に宿泊させてもらい、これを「善根宿」という。善根宿には少なくとも数人、多い家では数十人も泊る。そして年々続けてくる人はほとんど前年の宿に泊るという。むろん宿賃は無料であり、お遍路さんたちはいくらかのお礼をするのである。善根宿では家をきれいに掃除し、夜具を整えてお遍路さんの到着を待つ。お遍路さんたちは宿に着くとまず門口に立ってお念仏、足より先に杖を洗う。宿のおかみさんの心づくしのお夕飯に一同は喜びの舌鼓を打ち、さらに仏前でのお勤めが終わると、さあお話の花が咲く。それは楽しい楽しい法悦の夜のくつろぎである。
 翌朝は早く起きて仏前でのお勤めをし、朝食が終わり弁当をいただいてから出発まえの門先でのお念仏。「ありがとうございました」「また来年もおいでください」。暖かいお別れのあいさつを残して次のお札所へと急ぐ。これが島四国善根宿の風物詩である。本四国では、もうとうに忘れられている、または薄らいでいる美しい友情と厚意が、大島の島四国では昔にも増して生き続いていることは、われさえよければ人はどうでもよい世の中にあっていかにも美しく、いかにもありがたく感じられる。(黒河健一「生きている民俗探訪」)

 吉海町観光協会の調査によると、昭和五五年度における来島者は二五〇〇人、うち町内宿泊者は一八〇六人で、他の約七○○人は日帰りかあるいは宮窪町での宿泊である。吉海町内宿泊者のうち旅館を利用したのは二四〇人で、他は善根宿の利用である。吉海町内の善根宿は一二三軒で仁江と泊に多い。町内宿泊者の発地別内訳では八四%が県内で、そのうち七一%が東予地方、二四%が松山市である。県外は広島県からの来島者が七二%を占めている。
 順拝者は、第一番札所の正覚庵から八八番の濃潮庵まで、四つの寺院や堂庵、番外札所も含めて一〇八の霊場を巡る。全行程六三km、うち吉海町四六km、宮窪町一七kmである。古くは七一番、または三七番が基点だったが、今日では今治に最も近い吉海町下田水港に一日二八便、さらに期間中は臨時増発便のフェリーが発着することから四門番十楽庵から打ち始めるようになった。また、今治―尾道聞の高速艇が寄港する友浦港を基点に一八番打ち始めも便利である。遍路姿の人よりも普段着のままの略装も多く、信仰を含めたレジャーや、歩け運動の保健にもと、順拝は内容外観とも多岐である。歩いて二泊三日の行程であるが、健脚な者の中には一泊二日で巡る者もおり、島内の道路整備が進んだことによりマイカーのほかレンタカー、マイクロバスを利用して短時間で巡る者、今治から日帰り三日間のコースで巡る者など様々である(図5-53)。


 島四国霊場

 島四国の順番、お寺の名前、本尊、ご詠歌は本四国と全く同じである。八八か所の霊場のうち寺院は四本寺と呼ばれる第八番海南寺、第三三番高龍寺、第四七番法南寺、第七九番福蔵寺のみで、他の札所は無住の堂または庵で自由に順拝できる。例外として縁日の三日間は付近の人たちが交替で詰めている。納経は四本寺と一番札所の計五か所でうけられる。
 第一番「霊山寺」=「正覚庵」
 吉海町の北端、広々とした白砂青松の浜辺に、二間四面の堂々たる堂がある。横手の海は大三島・尾道・三原から今治間を往復する航路に当たり、絶え間なく船が往き来している。その向うに中四連絡大三島橋のスマートな姿が見える。このあたりには大島石の石切場が多い。
 第九番「法輪寺」=「大聖庵」
 石切場を望む中腹に一三八段の石股がある。石段をのぼったところが札所で、その左手に「せりわりさん」がある。不動明王が刻まれた巨石があり、その横に一人がやっと通れる横穴が二〇m余りつづいて、奥にはやはり不動明王の石仏が安置してある。眼下にひろがる宮窪の集落と宮窪湾の眺めがすばらしい(写真5-42)。
 第一〇番「切幡寺」=「證明寺跡」
 高龍寺とともに村上水軍の菩提寺であったところで大きな宝筐印塔があり村上元吉の供養塔と言われている。宮窪町の中心部と能島城跡が一望できる。
 第三三番「雪蹊寺」=「高龍寺」
 村上義弘公の菩提寺で知られる高龍寺は四本寺の中の一つである。石段の上に山門があり、正面に庫裏、右手に鐘楼、左手の石段を上がったところにどっしりとした本堂がある。
 第六五番「三角寺」=「福寿庵」
 「むかしある所に信心な庄屋さんが居まして、島四国の開創に協力して、その邸の付近にお堂を建てました。これを一建立と言います。」との例が、八幡岡にある片山庄屋旧邸上方にある福寿庵、六五番の札所である。


 島四国由来

 島四国、半島四国などを本四国に対して地四国と呼ぶ。こうした四国霊場の小型版は全国にも数多いが、参詣者が多く有名なところに佐渡島、愛知県知多半島、壱岐島・淡路島・岡山県神島・児島半島、小豆島・因島・周防大島(屋代島)、福岡県篠栗などがあり、県内でも八幡浜市・肱川町・双海町・松山市興居島、中島町・波方町などで行われている。
 大島の「島四国巡り」は、文化四年(一八〇七)に毛利玄(元)得包孝(医者)、池田重太貞盈(庄屋)、金剛院玄空(修験者)の三人が本四国に準じて、大島全域(吉海町・宮窪町)にわたって八八か所の霊場を設けたのが始まりである。旧四月三〇日に開眼法要が金剛院で行われた。笛や太鼓の大練供養行列を先頭に、島内をはじめ今治その他から集まった僧たち、島民の一大行列が延々と札所をまわり「第○○番霊場□□寺」の額をかけていったのが二夜三日かかったという。開創後三人は今治藩から「衆人を騒がせた」として重罪を受けた時期もあったが、やがて京都の真言宗御室派大本山仁和寺門跡(四本寺は京都の仁和寺に属する)から「准四国八十八か所霊場」の称号と仁和寺紋章の使用許可が与えられ、はじめて自由に順拝、遍路できるようになった。
 伊予大島四国を順拝するお遍路さんは年ごとに増してにぎやかになっており、明治四〇年(一九〇七)には「開創百年記念碑」を三三番高龍寺境内に建立した。また、昭和三二年には、開創一五〇年記念事業として、大島石の道しるべ一二○本を順拝路の要所に建てた。この一五〇年記念事業の際には、かつて島四国巡りをしての病気快癒の体験によって故池田勇人元首相が奉賛会総裁となっている。海南寺に「汐騒に鈴の音和して百余年(海南子)」、福蔵寺に「島四国花散り咲いて百五十(暁童)」の句碑がある。

図5-53 大島の島四国札所

図5-53 大島の島四国札所