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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

二 四阪島の住民の生活

 四阪島の集落

 燧灘に浮かぶ四阪島は越智郡宮窪町に属し、住友の銅製錬の島として知られた。製錬所が新居浜から移転するまでは無人島であったが、明治三〇年(一八九七)製錬所の建設工事が始まると数百人の作業員が来島した。住宅や事務所が建てられた美濃島は面積約三五haの小島で、最高所は島の西部にある標高一一二mの山地である。
 美濃島には傾斜地を開いたり海岸を埋め立てて社宅が建てられ、集落ごとに名前がつけられた(図5-35)。北浦と中巽は一番古い集落で明治三一年(一八九八)に完成した。明見谷は同三八年(一九〇五)一〇月に完成し、はじめは鍛冶屋部落であった。日暮は製錬所の移転を推進した技師塩野門之助が終日そこの岩に腰をおろして構想を練った所といわれ、社宅の最下段二列は三二~三三年(一八九九~一九〇〇)に建てられ、その後看護婦寮となった。
 西日暮は明治四〇~四二年(一九〇七~〇九)に建てられ、美の浦は三六年(一九〇三)に完成した。また美の端(三八~四一年)、美の上(三七~四一年)、頂上(四〇~四一年)、西巽(三七年)、東巽・糯ヶ岡(三九~四〇年)、糯ヶ岡頂上(四〇年)、糯の鼻(三八年)、吉備浦(三二年)、吉備峠(三八年)などが相次いで建設された。
 社宅の中には木造平家で八畳一間の長屋式のものもあり、明治・大正期の長屋には畳や天井のない社宅もみられた。社宅は勤務年数や職階で区別され、それに応じて島内で引っ越しした。これらの各住宅はその後間取りの改造や増築、老朽社宅の解体・新築がくり返された。
 社宅のほか日暮に旅館の日暮亭や接待館の日暮別邸(明治三九年竣工)が建てられ、また明治三八年一月の操業開始と共に住友病院四阪島出張所が開設した。同出張所は一名の嘱託医で診療を開始したが、翌三九年に医師二名、四〇年には三名となり、四一年には薬剤師三名もおかれた。診療科目は内科・外科で、一時は婦人科・眼科・歯科も設置され、X線技師や歯科技工士もおかれた。昭和三年に私立別子住友病院四阪島分院と改称し、五二年四月の通勤体制移行により住友別子病院四阪島診療所となり、医師・看護婦とも一名に減った。なお五三年三月から高速の救急艇ひぐらし(七トン、定員九名)が就航していたが、六一年四月無医島となる。
 北浦の海岸埋め立て地に明治四一年(一九〇八)娯楽場が設立された。これは木造であるが収容人員約一〇〇〇人で回り舞台のついた立派な劇場であった。葬祭場は四四年(一九一一)七月に建立された寺で、曹洞宗本山に鉱山布教師の派遣を依頼し、初代住職として栃木県足尾から谷口大恵師が来島した。同師の帰山後は横山義寛師ほか一名を経て大正七年(一九一八)、四代目住職として浅野鉄元師が来島し長く布教に務めた。昭和二五年子息の浅野英司師が跡を継ぎ、五二年四月以降は今治市の瑞泉寺住職を務めながら、毎年一〇月に四阪工場殉職者の法要を続けている。
 葬祭場の下に新居浜警察署の警察官駐在所や消防署の四阪分団がおかれ、掘り切りを抜けると商店や生協、中央クラブがあった。クラブは島民の憩いの場で、他に頂上・美の上の各クラブがあった。島内の共同浴場は戦時中に頂上・美の浦・中央クラブの三か所にまとめられたが、以前は北浦にもあった。元は潮湯で、入浴客は自宅から持参したバケツの水を湯でぬくめて上がり湯にしたという。潮湯は戦後もしばらく続いたが水事情の改善により淡水の湯となった。
 四阪島の教育施設は明治三四年(一九〇一)二月二九日に私立住友四阪島小学校が吉備傭員役員住宅を仮校舎として開設され、四月一日に開校した。児童数は一年生一七人、二年生二人、三年生五人、四年生二人の計三五人で教員も二人であったが、大正九年(一九二〇)には児童数一〇一二人に達した(表5-68)。翌一〇年に七九一人に急減したのは、四阪工場の操業改革による人員削減のためである。大正二年(一九一三)に高等科が設置されて四阪島尋常高等小学校となり、昭和一六年には四阪島国民学校と改称された。戦後は二二年に別子学園四阪島小学校及び同中学校となり、三六年に公立に移管して宮窪町立四阪島小学校・同中学校となった。しかし五二年四月の通勤体制移行により両校とも閉校となり机などは宮窪町へ運んだ。
 大山祇神社は明治四一年(一九〇八)邸内社として奉戴したもので、昭和一五年別子開坑二五〇年の慶事と皇紀二六〇〇年を記念して現在地に新社殿の造営に着手した。この工事で島民は敷地造成や設備の運搬などに勤労奉仕し、翌一六年四月に完成して五月に遷座祭が行われた。
 勝浦には明治四一年(一九〇八)病院避病舎が建てられたが、昭和三六年避病舎跡に町立火葬場が新設された。それまでの火葬場は鼠島にあり、離島で不便なため勝浦に移転した。
 明神島は面積四〇・八haで四阪島中最大である。明治三四年(一九〇一)にきじ・うさぎを飼育し、また植林を進めて番人をおいた。製錬所の移転とともに労働者用住宅敷地が不足したため、同四〇年(一九〇七)五月に仮小屋七○○戸を建造して移住した。明神島の集落は鶯谷・清水谷・宮の上・榎平などで、雑貨店・魚屋・理髪店・病院等も設置された。小学校も建設されたが使用には至らず、また通勤の海上交通がきわめて困難なため、四二年(一九〇九)末をもって全て美濃島に再移転した。
 明神島には大正一二年(一九二三)末に農家九戸が移住し、社宅向けの野菜などを栽培した。島内には井戸が四か所あったが、日照りが続くと美濃島にもらい水に行っていた。明神島の農家も全て離島し、再び無人島に戻った。


 住民の生活

 四阪島の人口は、操業開始二年目の明治三九年(一九〇六)には三五二四人に達し、翌四〇年には四四七六人、四一年には四五九一人に増えた。さらに大正六年(一九一七)には五二一七人に増加したが、同一〇年(一九二一)末に製錬所の改良工事が竣工し、工場在籍者が前年同期の一七一〇人から一挙に七四二人に減少した。
 戦後の人口は三八年まで三〇〇〇人台を維持したが、四〇年代に急減し、さらに五二年四月に新居浜からの通勤体制に移行するとほとんどの島民が離島した(図5-36)。六〇年八月現在の宮窪町民は一〇世帯一四人にすぎない。製錬所の操業が盛んであった時代は四阪島から宮窪町議会議員に選出される社員もあり、多い年には三人の議員を送っていた(表5-69)。
 新居浜と広島県尾道の間には住友によって明治二八年(一八九五)に尾道航路がひらかれ、汽船の木津川丸が就航した。三〇年(一八九七)に四阪製練所の建設工事が始まると四阪島へも臨時に寄港するようになった。また三五年(一九〇二)八月に御代島丸が建造されて二隻寄港となり、これらの船が人や物資を運んだほか水船を曳航した。三六年(一九〇三)四月からは定期寄港となったが、翌三七年五月に曳船兼客船の新造汽船第一四阪丸が就航すると、御代島丸が日露戦争のため海軍省に徴発された。
 その後尾道航路は昭和一六年五月関西汽船に譲渡され、さらに二五年一〇月に瀬戸内海汽船に移ったあと、備後汽船の手に渡ったが四七年四月に廃止された。
 美濃島・家の島とも水がないため、住民生活の最大の難点は水の確保であった。水は全て新居浜から水船で輸送し、曳航船は一〇隻以上もの水船の列を太いロープで曳いて四阪島へ運んだ。運ばれた水は水くみ専門の従業員が島内各所の貯水タンクにくみ揚げ、島民は各家庭に配られた水札で決められた水をもらい、樋で家まで運んだ。戦後は淡水船の就航(二三年)により水事情が改善され、三〇年頃には水道がひかれた。最初の水揚場は北浦に作られ、その後昭和三六年六月家の島と美濃島の間の埋め立て地に新しい水揚施設が作られた。これが四九年九月一月の台風で崩壊・水没したため、五〇年二月その南に隣接して現在の施設が作られた。
 第一四阪丸は新居浜・四阪島間で水の輸送にあたったが、昭和一四年六月から二三年三月までは客船専用となり、新居浜-四阪島-今治を往復する四阪島航路に従事した。第二四阪丸は曳船兼客船として明治三八年(一九〇五)就航し、昭和一二年一〇月から一四年六月までは客船として四阪航路に従事した。
 第一四阪丸の後は昭和二三年四月から美の浦丸が客船兼淡水船として就航し、四〇年三月に就航した客船専用の「みのしま」も四阪航路に従事した。同航路は五二年三月に廃止され、四月からは新居浜・四阪島間の運行となった。五五年三月に現みのしま(五〇〇トン、定員一三○名)が就航すると従来の桟橋の使用をやめ、揚水場にドルフィンをうって岸壁を拡張し、新しい桟橋とした。新居浜・四阪航路は惣開商運株式会社が運営し、五四年四月の運航時刻改正により新居浜港発は七時五〇分・一五時五〇分・一八時五五分の三便となった。四阪島までの所要時間は五〇分、料金は大人七〇〇円(六〇年四月改正)である。
 四阪島の正月には娯楽場前広場に露店商が集まって店を並べた。また一月四日には会社行事の鎔舶祭が行われた。これは別子銅山で採鉱された良品鉱石を炉に入れる祭りで、鎔鉱係・係長を先頭に鉱石を熔鉱炉まで運び、神事のあと課長がハンマーで一割りして炉に入れた。
 四月には桜谷公園で花見が行われ、美の上や上部の山の桜に色電球をめぐらし、夜桜見物には島外からも見物客が訪れた。桜谷公園は昭和一二年四月美の上谷に数十本の桜を植えて開設した。美濃島は製錬所が移転するまでは樹木のない草山であったが、大正時代から植林が進められ緑の多い島となった。
 五月一~三日は山神祭とよぶ島の春祭りで、山頂の大山祇神社境内では相撲大会が催された。また娯楽場では歌舞伎、各クラブでは浪曲大会が開かれ、露店もでてにぎわった。夏は南部の埋地の海岸や明神島で海水浴が行われ、明神島へは通船がでて海水浴客を運んだ。また盆踊りが葬祭場(寺)の広場や埋地グランドで催され、櫓を組んで電飾し、太鼓のリズムで四阪音頭を踊った。
 次はその一節である。

  ハア 燧の灘と石鎚山の ヨイヤサ
  間に生まれた アラ四阪島
  島は小いが銅吹く島よ
  赤き炎の心意気
  サッサ踊ろよ四阪の音頭
  サテ ヨイショコラサノセー

 一〇月には殉職者の追弔法要が営まれ、殉職者の家族を招待した。寺には数名の僧がよばれ、島の子供たちも最上級生全員が参列し菓子袋が配られた。一一月には親友会が開かれ、埋地グランドで運動会が行われた。運動会は部落を三グループに分けて得点を競い、夜は娯楽場で映画や芝居が催された。埋地グランドは元は埋地社宅であったが、大正一二年(一九二三)末に解体して運動場とし、それ以来運動会はここで行われるようになった。
 また四阪島名物の朝市が毎朝港の近くで開かれ、魚・野菜などは主に今治から商人が売りにきた。港の近くに出張店舗がおかれ、主婦は毎朝八時~一〇時半頃にかけて買い物をした。朝八時に新居浜を出た船が着く頃人出が最も多かったという。
 個人商店には三宅商店(酒・衣料品)、広瀬商店(うどん)、村上商店(新聞販売)、藤田・高橋商店(雑菓子)、桃谷・広瀬・仲渡商店(鮮魚)、桧垣・広瀬商店(衣料品)、四田・鳥生商店(本・衣料品)、須賀商店(乾物・果物)などがあり、建設業者三社と鉄鋼業者二社もあった(表5-70)。
 五二年四月の通勤体制確立により住人の去った社宅は順次解体・焼却が行われている(写真5-31)。焼却された社宅は明見谷(五九年九月)、吉備浦(同年一〇月)、吉備峠(六〇年七月)、西日暮(同年八月)で、通勤する社員のほかはわずかの釣り客が訪れる程度の静かな島となった。

図5-35 宮窪町四阪島の集落(美濃島)

図5-35 宮窪町四阪島の集落(美濃島)


表5-68 宮窪町四阪島小学校の児童数の推移

表5-68 宮窪町四阪島小学校の児童数の推移


図5-36 宮窪町四阪島の人口と四阪島中学校の生徒数の推移

図5-36 宮窪町四阪島の人口と四阪島中学校の生徒数の推移


表5-69 宮窪町四阪島出身の宮窪町議会議員

表5-69 宮窪町四阪島出身の宮窪町議会議員


表5-70 宮窪町四阪島の生活史(1)

表5-70 宮窪町四阪島の生活史(1)


表5-70 宮窪町四阪島の生活史(2)

表5-70 宮窪町四阪島の生活史(2)