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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 越智諸島の漁村

 越智諸島の漁業集落

 越智郡の島しょ部で漁業の盛んなのは、大島の椋名・宮窪・志津見と、岡村島の岡村、それに魚島々あり、大三島・伯方島・岩城島・生名島・弓削島などには、ほとんど漁業を営むものは見られない。大三島・伯方島では、のり養殖や真珠貝の養殖は一部にみられるが、一本釣漁業や網漁業などは見られず、広島県の忠海や能地などの漁民の入漁地となっていた。またごく一部存在する一本釣漁業などを営む者をみると、彼等は忠海や能地から入漁していたものが定住した者であり、旧来からの地元住民ではない。越智郡の島しょ部では、漁業を営む集落と農業を営む集落が截然と区分されており、多くの集落は臨海にありながら海を背にして生活している住民から構成されている。


 椋 名

 大島西岸の椋名は来島海峡に臨む半農半漁の集落である。昭和五五年現在の世帯数は一九〇であるが、渦浦漁協の正組合員は七〇名であり、約七〇戸が漁業を生業としている。漁業形態は、昭和五九年現在では小型底曳網五、ローラ五智網二、建網七、小型定置網二、延縄二五、それに一本釣六〇程度であり、来島海峡を漁場とする一本釣漁業と延縄漁業に特色をもっている。
 集落は来島海峡に臨んだ砂浜海岸に沿って南北に並んでいる。現在は農家と漁家、今治市への通勤者の家などが混在しているが、漁家は集落中央部付近に主として集中していた(図5-32)。漁港は冬の季節風をさける集落の北端に構築されているが、昭和三〇年代までの漁港は狭く、主として椀船の停泊地に利用されていた。現在海岸ぞいには護岸が完成し、その内側に県道が通じ、さらに集落北端には防波堤にかこまれた漁港が構築されているが、これらの工事は昭和四五年以降始まったものであり、それ以前の漁船は集落前面の砂浜に杭を打って繋留していた。
 この集落は北西の季節風をまともに受ける位置にあり、漁村の立地点としては決して恵まれてはいなかった。冬季風波が強まると、漁船は砂浜にコロを敷いて道路まで押し上げたり、南隣の臥間の漁港にまで避難することを余儀なくされた。家屋もまた冬の季節風への備えが厳重である。海岸ぞいに並ぶ家は、海に面して納屋を配置し、母屋を烈風から守るようにしている。壁にはベンガラやコールタールを塗った板を張り、屋根瓦を漆喰で固めたり、海岸に面する側面に窓がほとんどないのも、冬の烈風への備えである(図5-33)。
 この集落は昭和初期まで椀船といわれた漆器行商の盛んな集落としても著名であった。明治四五年編集の『渦浦村村誌』によると、椀船の起源は嘉永二年(一八四九)頃椋名の住人村上茂吉が紀州黒江および京都より漆器を仕入れ、これを山陰方面に売りさばいたことにある。以後漆器行商は年を追って盛んになり、明治末年には椋名の戸数二四三のうち、漆器行商を営むものは六〇戸を数えた。
 漆器行商の組織は、漆器行商用の椀船を所有する親方が四~五人の売り子を従えて、和歌山・桜井などで仕入れた漆器を九州各地に売りさばいた。各親方は販売先の九州ではそれぞれ販売圏を設定していた。販売時期は春季に売り込み、秋に米の収穫後集金してまわるものであり、これが第二次大戦後の東京・大阪等で盛んになった月賦販売の起源となった。行商の合間の夏季には漁業を営むものも多かった。親方は集落内では地主階級であり、売子は小作階級であったが、その関係はおおむね固定していた。この集落では、第二次大戦後の農地改革が行われるまでは、地主階級であると同時に漆器行商の元締めである親方が、小作階級であると同時に漆器行商の販売人である売り子の上に君臨するという社会組織が固定していたのである。


 宮 窪

 大島東岸の宮窪は越智諸島中部の代表的な漁業集落である。第二次大戦前は一本釣・延縄、たこ壷などが主体であったが、現在は小型機船底曳網、一そうローラ五智網・刺し網・一本釣、潜水漁業などが主体であり、小型機船底曳網と一そうローラ五智網は燧灘一帯で操業され、刺し網は大島と伯方の東岸、四阪島の周辺を主な漁場とする。また一本釣と潜水漁業は宮窪町と伯方島の沿岸で操業される。宮窪町から伯方島の地方には、宮窪・伯方共同漁業権が設定されているが、伯方島には従来からほとんど漁民が存在しないので、宮窪漁民の独占場となっている。宮窪の漁業は、小型機船底曳網・一そうローラ五智網・刺し網などは二人ないし三人で操業され、潜水漁業は四名で操業されるが、いずれも家族が操業の単位であり、個人主義的な色彩が強く、網主-網子、船主-船子などの社会的な関係はみられない。
 宮窪の集落は北東に湾口を開いた砂浜海岸に立地する。宮窪は四五〇戸をこす大集村であり、農家と漁家、それに商家や勤め人の家から構成されているが、元来農家と漁家の立地するところは截然と区分されていた。漁家は海岸ぞいの微高地である浜堤上に立地し、農家はその内陸側に立地していた(図5-34)。漁業集落は浜といわれるのに対して、農業集落は在といわれ、集落の自治組織も別個に組織され、風俗習慣も異なっていた。現在、漁家と農家の所得を比較すると、漁家の方がはるかに多いが、魚の流通機構の整備されていない第二次大戦前は、漁家はその日ぐらしの貧しい生活を強いられていた。漁民の家はすべて農家の借家で、海岸に面して妻入となっている目の字型の民家の広さは、一〇坪程度のものが多かった。狭い借家には物置も風呂もなく、物置の必要なものは海岸の砂浜上を利用し、風呂は集落内の銭湯を利用した。農家には各戸井戸があったのに対して、漁家には個人井戸はなく、飲料水は共同井戸の水を利用し、二〇戸程度で一つの井戸水を使用した。
 宮窪の漁村は北西の季節風をさける位置にあったが、船の接岸できる入江はなく、漁船は集落前面の砂浜の上に陸揚げされていた。台風時には避難港がなく、船は砂浜と集落の間にある道路上にまで引き揚げなければならなかった。現在集落の南東部に漁港が構築されているが、それは昭和九年に構築されたものである。その北側に続く長さ二一〇mの防波堤は昭和四七年に始まる第六次漁港改修工事によって構築されたものであり、ここにようやく漁船の停泊地を得たといえる(写真5-30)。


 志津見

 大島の南岸には北東から南西に向かって直線状の断層海岸が走る。その断層海岸の中ほどに長さ二〇〇mほどの砂浜海岸がみられ、そこに立地するのが志津見の漁村である。志津見は冬季の北西の季節風をさけ得る地点に位置するが、湾入部はなく、漁港の立地条件は劣悪であった。この漁村に防波堤が構築され、漁港が整備されだしたのは昭和三〇年以降であり、それ以前の漁船は砂浜に杭を打ち、それに繋留していた。台風の襲来時などには小さい漁船は砂浜上に陸揚げし、大きな漁船は大島西岸の下田水あたりまで避難させざるを得なかった。
 志津見の漁民は漁港の立地条件の劣悪さをカバーするかのごとく、漁業活動には極めて積極的であった。志津見の漁法は他の集落の漁法より常に一歩先んじていたと言われ、第二次大戦前に他の漁村が一本釣の時に、すでに延縄漁業が盛んであり、ローラ五智網も昭和の初期に波方の小部より導入したといわれている。昭和三九年頃の志津見の漁業は、ほぼ年間を通じて操業する一そうローラ五智網、三~一一月を主な漁期とするさわら刺網漁業、一二月を主な漁期とするたこ壷漁業などがあり、冬季には漁業を止めて杜氏の出稼ぎに行く漁民も見られた(表5-67)。
 昭和六〇年現在の漁業経営体は、一そうローラ五智網三、きす・かますの刺し網六、雑魚建網七、たこ壺一、定置網一、のり養殖五などである。ローラ五智網は三経営体とも兄弟によって共同経営され、その三経営体が同時にそれぞれのり養殖も共同経営している。刺し網や建網は親子または夫婦の家族労働で営まれるものが多い。現在志津見の水揚高は二億七〇〇〇万円といわれているが、うち七五%はのり養殖によるものであり、昭和四五年頃から始まったのり養殖が、現在この漁村の主な収入源となっている。のり養殖は一一月一日に筏を敷設し、三月一五日に筏を撤去するまで、冬季四か月半にわたって行われるが、この間はローラ五智網はもちろん、刺し網・建網ともに休業し、のり養殖業に雇用されるものが多い。
 志津見の漁民は昭和三九年現在で見ると、多少なりとも農地を所有しているものが多く、半農半漁の形態をとっていた。燧灘沿岸でこのような半農半漁の漁民の存在は珍しいが、このような形態になったのは昭和になって以降である。大正年間までの志津見は、海岸の浜堤上に立地する漁業集落の浜と、内陸の緩斜面に立地する農業集落の岡の異質の二集落から構成されていた。浜と岡はそれぞれ別個の社会組織を形成し、冠婚葬祭等も別々に営んでいた。この浜と岡の区分が解消されてきたのは、昭和初期に岡集落の農民が入漁料を出して漁業を営みだし、また昭和三〇年代のみかんブームの時期に漁家が土地を購入し、みかん園を開墾しだしたことによる。また家屋も浜集落の二・三男の分家が岡集落の中に進出し、浜と岡の区分は次第に不明瞭になっていった。昭和六〇年現在志津見三八戸のうち、農業のみを営むものはわずか二戸にすぎず、農業と漁業を兼営するものは五戸で、他に通勤者三戸、無職一戸を除いては、いずれも漁業を主たる生業としている。この集落は燧灘沿岸の他の漁村と同じように、漁家と農家が截然と区分されていたが、昭和年間となって、その区分が不明瞭となり、近年は農業の衰退から純漁村に近い集落に変貌してきているといえる。

図5-32 吉海町椋名の集落構成

図5-32 吉海町椋名の集落構成


図5-33 吉海町椋名の矢野順民宅の間取り

図5-33 吉海町椋名の矢野順民宅の間取り


図5-34 宮窪町宮窪の集落(昭和60年)

図5-34 宮窪町宮窪の集落(昭和60年)


表5-67 吉海町志津見の住民の生業と土地所有

表5-67 吉海町志津見の住民の生業と土地所有