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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

五 今治の港

 今治港のあらまし

 今治港は高縄半島の先端に位置し、瀬戸内海の本航路に面している。阪神や九州地方を結ぶ航路に直結しているため、海上交通の要衝として重要な役割を果たしてきた。
 港の起源は、二〇万三〇〇〇石をもって入封した藤堂高虎が、堀に海水を引き込む海城として今治城を築造した後、その北隅に船頭町を配したことに始まるとされているが、明治初年までは小船の出入りする港にすぎなかった。その後、商工業の発達に伴って、数多くの船舶が寄港するようになった。しかし、当時の今治港は港湾施設が不十分であったため、これらの船の多くは沖に碇繋し、艀によって貨客のつみおろしをしなければならない状況であった。
 このため、大正三年(一九一四)に港湾の修築を計画し、最も急を要する東防波堤の築造に着工した。また、大正一二年(一九二二)より九か年の継続事業として、国の直接施工により大改修が行われ、現状は写真2―45に近いものとなった。昭和二年に重要港湾に指定されて以来、今治港は愛媛県を代表する港湾として港勢は進展し、一四年には海上出入貨物量は一二〇万トンとなり、戦前の最高を記録した。戦後の一時期、港勢は衰退したが、三〇年代に入り経済の高度成長に伴って出入貨物量、乗降人員ともに増加していった。三九年には出入貨物量は一五四万トン、乗降人員は一八九万人に達した。さらに四〇年代に入り、フェリー時代を迎えると出入貨物量(自動車航送を含む)は飛躍的に増大し、四五年には八三一万トンになった。
 乗降人員及び出入貨物量の増加に伴って、港内が狭くなってきたため、四五年度より蔵敷地区に貨物専用の港湾建設に着手し、一一年の歳月と四〇億円の費用を投じ完成をみた。また、鳥生地区臨海工業用地の埋め立ても行われ、すでに企業の進出も始まっている。今治港は、背後都市の発展を伴い、流通拠点港湾として成長しており、このため、六八年を目標年次として、新たな港湾計画も策定されている。
      

 明治期以前
       
 今張(今治)の名が始めて文献に表れてくるのは建徳二年(一三七一)頃に著された『太平記』であるといわれている(表2―81)。すなわち、『太平記』巻七「河野謀反の事」の条に「今張の湊に船をそろえ云々」とあり、また、同「脇屋刑部卿義助伊豫下向」の条には「今張の浦に送りつけ奉る」とある。これらに記される今張の浦は、現在の天保山や内港付近の地域ばかりを指したものではなく、時には蒼社川や頓田川河口の海岸一帯から大浜付近までを指したものとされている。この付近一帯は風波や海岸の状況が船の碇泊に適しているため、碇泊地として幕末まで使用されていた。
 慶長五年(一六〇〇)藤堂高虎が関ケ原の戦功により、二〇万三〇〇〇石で入封し、城下町今治を建設したが、今治港開港にいたらないうちに転封した。寛永一二年(一六三五)に久松定房が三万五〇〇〇石で伊勢長島から入封したが、当時の港湾施設は不十分であった。このため、寛永一七年(一六四〇)蔵敷に船頭町を設け護岸を整備した。
 七代藩主定剛は、寛政年間(一七八九~一八〇〇)に呑吐樋(泉川)の河口に新地を築造し、これと呑吐樋を利用して藩主御召船の定繋場を設けた。この新地は後に「古新田」・「沖新田」・「沖州」などと称されるようになった。また、八代藩主定芝は新地港湾内に堆積した砂州を利用して埋め立てを行ったが、この地は後に「中州」と呼ばれるようになった。天保二年(一八三一)には船頭町下に防波堤の築造を計画し、郡奉行堀七太夫正義に御用係を命じた。この工事のことは、「今治拾遺」に次のように記されている。

蔵敷村船頭町下濱手風波之為二破損シケル事毎度ナリ、定芝公御代人辛卯年正月二十日波止・石垣築替普請仰出、郡奉行堀七太夫正義二御用係被仰付、工事ハ大阪ヨリ北山貞助雇込相成、同三壬辰年三月普請着手翌癸己年七月落成、汐際ヨリ築山ヘハ紀州杉之杭打立山取之模様所々ヘハ松植立其ノ景色甚美々タリ、九月ニハ寺町法華寺ヨリ妙見宮ヲ勧請シ、其賑ヒ群集之人々濱邊二充満セリ、時ノ人天保山卜稱シ逐年石垣築出今猶堅固ナリ……

 このように、当時の人々はこの埋め立て地を「天保山」と呼ぶようになったが、その後も石積み防波堤は築造され、その長さは四〇間余に達し、築港らしい形が整った。

 明治期から昭和期(終戦)まで

 藩政時代には、今治港の工事はすべて藩費でまかなわれていた。しかし、廃藩後は港域が蔵敷村・今治村・本町外七町の三地区にまたがっていたため費用の分担があいまいで、積極的に港湾改修に取り組む町村もなく、岸壁は崩れ、土砂は堆積するにまかせていた。しかし、人々の港湾改修に対する関心は高く、明治一四年(一八八一)頃には改修費用を得るために帆別銭の徴収が行われ、一六年には中山義兄による常夜燈の建設計画が出された。また、二三年(一八九〇)には畴谷養三郎・中川卯三郎等による自費竣渫が計画されたが、いずれも目的を達することはできなかった。このような中で、二一年と二六年の暴風雨や水害は防波堤を大きく破壊するとともに、多量の土砂が港内に堆積していった。
 日清戦争後、今治の商業活動は、伊予ネルの生産が増大したこともあり、きわめて活発であった。このため、港の早急な改修が迫られており、県も三四年には竣渫船海南丸で港内の竣渫を実施した。これに対し町も阿部光之助等七人を港湾竣渫委員に任命し、計画的に竣渫を行った。施工に要した費用は一二四三円二三銭一厘に達したが、これによって港内を自由に航行することができるようになった。この後もしばしば竣渫が行われたが、根本的な港湾改修にまではいたらなかった。このため、東北東の風が強い日には波浪が高く、船舶の入港は困難であった。
 日露戦争後、伊予ネルの生産はさらに増大し、今治港の出入貨物量も増加したが、当時は貨物ばかりでなく人も多くは艀によって乗り降りをしなければならない状態であった(写真2―46)。大型船の接岸が可能な港を建設することは、今治の産業の発展にとって不可欠なことであった。このため、今治商工会は明治四一年(一九〇八)に築港期成同盟本部を設け、さらに四五年(一九一二)には築港調査委員会を設置した。当時の愛媛県知事伊澤多喜男は今治築港を早急に行うことの必要性を認め、四四年県の土木課長土田工師長に今治築港の計画を立てさせたが、伊澤知事の離県によって実施されることなくおわった。
 大正五年(一九一六)には県の土木技師坂本一平が予算八〇万円になる今治港の築港計画を策定し、六年九月には内務省も今治築港計画を立て、県は土木課の垂水輝治技師に港湾の設計をさせた。築港は当初六か年の継続事業で計画されたが、大正一〇年に今治港が重要港湾に指定され、翌一一年には開港場になったことなどで、当初計画分を第一期工事とし、大正一二年以後の内務省直轄施工による分を第二期工事とした。このため、第一期工事は最終的には四か年継続となり、大正九年五月に起工された。こうして、第一期工事は町(後に市となる)が県の補助を得て施工することになったが、工事の重点は防波堤の築造と浚渫にあった。防波堤は今治港の安全性を高めるため、東北東の風を防ぐことを目的に天保山の旧突堤から弧形に四五〇m余り延長築造が計画された。また港内は、新地・沖州・船頭町・住吉町を取り除いて港内の船溜を約二倍に拡げるとともに、一〇〇〇トン級の船が繋留できるように浚渫が行われ、浚渫土砂で天保山海岸や旧今治町地先海岸の埋め立てが行われた。
 大正六年(一九一七)頃の今治・日吉両町村の工業生産額は年額二〇〇〇万円余に達し、県下第一の工業地域となっていた。特に綿織物業は盛んで「四国の大阪」とも称された。明治三〇年代から支那・朝鮮・シベリア等への輸出が行われていたが、大正に入って一層販路は拡大し、南支・インド・南洋方面への輸出も行われるようになった。また、大正一一年(一九二二)四国初の開港場に指定されたのに伴い、神戸税関今治支署も設置された。
 第二期工事は、工費予算三〇〇万円余をもって、大正一二年(一九二三)より内務省の直接施工で行われた。同工事は昭和九年三月三〇日竣工したが、これによって桟橋もさらに二基増設され三基(いずれも長さ七二m、幅九m)となり、これらを櫛形に並行して配置した。小型汽船のみならず一〇〇〇トン級汽船の繋船が可能となり、貨物及び旅客の上げ降ろしが著しく便利とたった。また、防波堤の築造も行われ、既設防波堤を一〇〇m延長したが、これと併行して港内の浚渫を施工することによって、三〇〇〇トン級の船舶が二隻停泊することもできるようになった。なお、二〇年八月には空襲にあったが、沖州倉庫が二棟焼失した程度で、港湾施設には大きな被害はなかった。
       

 昭和期(戦後)                      

 昭和二一年の南海地震以後、地盤沈下が続いたため、天保山岸壁の嵩上げ工事が行われた。また、二五年には軍艦「摂津」を改造して、老朽化した第一桟橋と取り替えるなど、新時代に対応するための対策が相次いで行われた。しかし、今治地域が繊維を中心とする産業が主体であり、その上、戦後対中国貿易の再開が見送られていたため、港勢は一時期きわめて衰退した。二六年一月の港湾法に基づく重要港湾指定及び二七年二月の今治港安全宣言告示により、ようやく開港場今治港に活気がよみがえるようになった。
 戦後の今治港には大きく分けて二つの問題があった。その一つは、船舶の巨大化とフェリーの発達に伴う港内の狭隘化の問題であり、他の一つは新居浜港の開港指定に伴う貿易量減少の問題であった。これらの問題に対するため、市は臨港鉄道敷地の買収や沖州倉庫の再建、港務所の建設など施設の充実に力を入れるとともに、外国船の寄港招請や植物防疫港の指定等を関係機関に働きかけた。こうした努力が実り、三〇年には植物防疫港に指定され、外米や外材の輸入が可能となった。
 三七年に誕生した羽藤栄市市政は、特に港湾の拡張・整備を重要施策として取り上げ、積極的に改修工事に取り組んだ。その代表とされるものに新港湾の築造がある(図2―63)。これは、貨客分離を目的に貨物専用港を蒼社川河口の蔵敷地区に建設しようとしたものであり、一万トン級船舶が接岸できるように計画された。新港湾の建設は、一一年の歳月と四〇億円の費用を投じて施工され、物揚場、岸壁(マイナス五・五m、同七・五m、同九・〇m)、植物防疫所指定輸入木材消毒実施区域施設、蔵敷上屋、コンテナヤード等が相次いで完成している。また、フェリーの発達に伴い、フェリー接岸施設の建設も行われ、四五年には島しょ航路、四七年には神戸航路、五一年には大島(下田水)航路の各施設が完備された。   
 今治港の背後圏の中心である今治市は、造船、繊維工業等が盛んな工業都市として、また、東予地方における商業の拠点都市として、さらに本州や島しょ部と四国を連絡する流通拠点都市として、今後ますます発展することが期待されている。このため、港湾の果たす役割も、流通の拠点としてのみならず、海上旅客輸送の拠点として、今後一層増大することが考えられており、これに対応した港湾機能の整備拡充が強く要請されている。このような情勢に対応するために、六八年を目標年次として、今治地区及び富田地区を中心に港湾を整備することが計画されている。
          

 今治港の港湾施設

 今治港の港湾施設は、新港湾の建設やフェリー接岸施設の整備等に伴い充実されてきており(表2―82)、泊地面積は二九万二五〇〇平方m、防波堤の総延長は一五四九mに達している。けい留施設も大型船けい留施設が八施設(一二バース、総延長一五〇〇m)、小型船けい留施設が一八施設(総延長三四五二m)に達するなど、四国を代表する港湾の地位を保っている。この他、上屋一〇棟(総床面積六〇五〇平方m)、倉庫一三棟(同六一六一平方m)、サイロ一五基(総容量一万九五二九立方m)の各建造物をはじめ、貯木場四か所(総面積五万四二九〇平方m)、野積場二か所(同三万四九六六平方m)等も備えている。
 しかし、船舶の大型化及び外・内貿コンテナの取り扱いに対応するためなど、物流の合理化を図るために大型船が接岸することのできる岸壁を整備することが要請されている。この他にも、フェリーふ頭の整備をはじめ、臨海部に移転を希望する企業に対する都市再開発用地の確保等、今後に残された課題も多い。


 今治のもう一つの港・波止浜港

 波止浜港のある湾は、古くから筥潟湾と呼ばれ、来島を入口に置いた奥の深い入江であった。船舶が小型であった時代には、燧灘や斎灘を往来する船は、来島海峡の急流を通過する場合、筥潟湾で潮待ちや風待ちをしていた。また、中世には村上水軍の要地ともなったが、水軍滅亡後は再び避難港、漁港となっていた。
 しかし、天和年間(一六八一~八四)の波止浜塩田開拓以後、塩の一大産地となり港の重要性はしだいに高まり、これに伴って松山藩の保護も受けるようになった。弘化三年(一八四六)には港の護岸が構築され、また、嘉永二年(一八四九)には海上交通の安全を図るため大燈寵一基が築造されるなど、次第に港としての機能も高まっていった。この結果、参勤交代の際には、松山藩はもとより、今治藩・宇和島藩等も波止浜港を利用することがしばしばあった。
 大正時代以後、五回にわたって大規模な浚渫が行われ、港湾の機能の向上が図られた。この頃から木造船の修理工場が港の周辺に立地し始め、これに伴い出入貨物量も増加するようになった。昭和三〇年代初めに、造船界は木造船の建造から鉄鋼船の建造に移行し、我が国の高度経済成長とともに飛躍的に発展していったが、波止浜港に隣接する地域にも造船工業地帯が形成された(写真2―47)。
 昭和三七年に今治港港湾区域に編入され、外材の取り扱いが可能となるとともに、塩田跡地が貯木場に適したことなどにより出入貨物量は増加し、六〇年には四万一二二トンの輸入があった。また六〇年の入港船舶数は七四四二隻(三六八万七一四九トン)であり、移出は七万七八四〇トン、移入は七万六〇六八トンとなっている(表2―83)。全般的に移出に比べて移入が大変多くなっている時期もあるが、これは、造船に要する原材料は移入となるが、製品となった船舶は出港として扱われ、移出とはならないことによるものである。
 現在、波止浜港を発着する定期船は「第三くるしま丸」のみであるが、毎日波止浜と来島・小島・馬島の間を各々約一〇往復して通勤・通学者を運んでおり、島の人々にとってはなくてはならない定期船となっている。

表2-81 今治港関係年表(1)

表2-81 今治港関係年表(1)


表2-81 今治港関係年表(2)

表2-81 今治港関係年表(2)


図2-63 今治港港湾計画図

図2-63 今治港港湾計画図


表2-82 (1)今治港のおもな港湾施設

表2-82 (1)今治港のおもな港湾施設


表2-82 (2)今治港のおもな港湾施設

表2-82 (2)今治港のおもな港湾施設


表2-83 波止浜港の港勢

表2-83 波止浜港の港勢