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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 自動車交通

 バス交通の発達

 今治地方にはじめてバス事業がおこったのは大正中頃である。越智郡吉海町出身の深見寅之助か大正七年(一九一八)に愛媛自動車を設立し、松山・今治・西条間を運行したのである。当時の車輛はアメリカ製のシボレー・フォード・ビュック等で今日の乗用車である。座席を改造して客席を二列とし三人宛で六人乗りとしたもので、運転台には運転者と助手より外は乗せられなかったのである。翌大正八年には宇摩郡三島町に、岡山県人藤江守が設立した東予自動車は、愛媛自動車の今治・西条間の営業権を買収して今治に進出した。大正九年には今治の渡部菊助が今治自動車を設立して今治・菊間間、今治・壬生川間の定期線を開いた。今治自動車は同一二年に今治・波止浜間、翌一三年に今治・竜岡間、同一五年に今治・波方間の定期便を開いた。
 大正中頃に芽ばえた今治地方のバス事業も、国鉄予讃線の西進、特に大正一三年二月に今治駅まで開通すると、前記三社は大きな影響を受けた。東予自動車は松山の松輪自動車と合併した後、愛媛自動車と合併し、その愛媛自動車も一五年に今治停留所を撤廃した。また、今治自動車は一三年に今治・壬生川間を廃止の止むなきにいたった。一方、国鉄今治駅の開通は、今治駅・今治桟橋間の連絡バスの運行を派生させ、これにあたったのが当時今治・尾道間の航路を経営していた瀬戸内商船であった。T型フォード八人乗りで一三年一二月に運行を開始した。
 鉄道はさらに西進を続け、昭和二年ついに松山まで開通した。それにともたって国鉄各駅と主要集落間を結ぶバス路線が昭和初期には相次いで開かれた。昭和二年に森文平・白石茂により昭和自動車が設立されて今治・上朝倉間か運行され、今治自動車は今治・鈍川間を開き、翌三年には八木達が文化自動車を設立して一九三四年式シボレー二台で今治―小部間、今治―大井間、樋ロー大井間を運行した。翌四年には越智節一により設立された常盤自動車が今治・桜井間を、また、この年瀬戸内商船は旭町・浅川間をそれぞれ運行した。同五年には神野啓一郎の富士タクシーも今治・小部間の運行を開始した。さらに同六年には片野淑人市長により今治市営バスの運行も始まった。この市営バスの運賃は全市三区制とし一区一〇銭で発足したが、翌年全市一区五銭均一として乗換えも自由とし、漸次路線も増やして行った。同八年には瀬戸内商船により今治・海禅寺間も開かれた。このように昭和初期には今治地方のバス事業は各種運輸業者による乱立状態となり、国鉄開通時期とは異なった形で、業者間の競争が新しい路線の運行となって展開された。これらバス事業と共にこの時期にはタクシー会社の設立が相次ぎ、バス・タクシー・鉄道間で激しい客の奪い合いとなった。しかし、日中戦争(昭和一二年)以来資材の窮乏と国家の要請に従い、一五年には今治・昭和・文化・常盤の各自動車会社と富士・朝日・日之出・城南・港の各タクシー会社の計九社が合同して今治合同タクシーを設立した。さらに一七年には鉄道省および県当局の統合指令により今治地区のバス事業五社を瀬戸内商船が買収する形で統合を進めた。一八年一月には第二回統合により周桑自動車・宇摩自動車を吸収し、同年六月の第三回統合で新居浜地区の東新自動車と新居自動車を買収し、東予地方のバス事業は瀬戸内運輸に統合されていった。なお、一八年一月に会社商号を瀬戸内運輸㈱と改称し、同年四月に本社を尾道市から今治市に移転した。統合当時の路線は二〇で、バス五三台を保有していた。こうした統合が進むなかでガソリンの使用制限が次第に強化されたので各バス会社は運転系統を整理したり、重要路線を除いて営業を縮少、休止するようになった。やがてガソリンに代わって木炭炉を装置した木炭車への切りかえが行われた。この木炭車は、傾斜の急な坂道を登りきれない場合が多く不便であった。
 終戦後もしばらくは自動車の資材・部品等の配給はなかったので、応急修理による戦災車両、焼け残った軍用車等がようやく重要路線を走ったありさまで、トラックが代用バスとして当然のように使用された。二二年頃から諸産業の復興につれて自動車業界も活気をおび、わずかではあるが新車も配給されるようになった。翌二三年頃からは戦時中から不評をかっていた木炭車は順次ガソリン車に変更せられ、二七年以降になると新車はディーゼルエンジンとなり車両の大型化も進んだ。戦後のバス会社は、旧車両の修理改善および新車の配備に苦心して休止路線の再開、定期便の増加をはかったが、車両数の増加によってさらに積極的に新路線の開拓にっとめた(表2―75)。その結果、鉄道に並行したバス路線はしだいに鉄道利用者さえ吸収して、めざましい発展を続けた。その代表路線が、短区間運転を行っていた今治―桜井間および西条―新居浜間を、二二年二月から四月にかけて壬生川―西条間、桜井―壬生川間を延長して、ついに今治―壬生川―小松―西条―新居浜間を結んで直通運転をするようになった。この路線は国鉄の予讃線と並行していたが、瀬戸内運輸がバスを積極的に増発して、沿線の乗客の利便をはかったために、国鉄利用者から転ずる者が多くなったので、さらに準急・急行バスを運転してスピードアップをはかった。
 また新居浜―川之江間にも延長運転を見たが、二九年八月から伊予鉄バスとの協定によって、今治―大井―菊間―松山間の海岸線と、今治―竜岡―立岩―松山間の山手線とを両社相互乗り入れによる直通運転を開始した。このうち、海岸線はその後の国道一九六号の改修と相まって営業成績を上げていった。すでに乗り入れをしていた伊予鉄バスの松山―湯谷ロー小松―新居浜線についても協定の結果、三二年から瀬戸内運輸も急行バスの運転を実施して、松山・西条・新居浜の三市を海岸回りの予讃線より短時間で結んだので、沿線の利用者から歓迎された。
 戦後におけるバス路線網の発達は、幹線バス路線の確立と、それから枝分かれしてフィーダー線として山間部へ路線が拡張していったことであり、今一つの特徴は、昭和四〇年以後の過疎化の進行によるバス輸送人員の減少にともなって廃止路線が見られるようになったことである。南予においては四〇年に早くも廃止した路線があったが、東予地方では四五年の田滝線(五本松―石経間二・九㎞)が最初で、翌四六年には三路線八・三㎞、四七年がピークで八路線三六・二㎞にも達した(表2―76)。四〇年代半ばは過疎化とともにマイカーの普及の時でもあり、バス乗客の減少に拍車をかけた。こうした厳しい現実への対応策として、四四年からワンマンバス化を推進し、四八年度にはワンマン化率は六七%に達し、五九年度では一二一系統、五三路線、一九二輛のワンマン化を達成している(九九・九%)。また、五三年三月からは別子山線の富郷橋・役場前間一九・八㎞でフリーバス化を導入し、翌五四年八月からは西山・竜岡・葛谷・神子森・畑寺等の一一路線八三・一㎞で実施して経営の合理化につとめている(表2―77)。一方ではバス離れ防止策として最新式の車両の導入や停留所の改善、自転車置場の設置、車内案内をはじめ各種サービスの向上をはかっている(表2―78)。
 ところで、越智郡の島しょ部にもバスが走っている。それは、昭和三二年五月に瀬戸内運輸が大三島町宮浦から野々江および井口の二路線を運行したことに始まる。この二路線は翌年大三島観光交通に譲り渡されたが、路線五町と瀬戸内運輸の合資で瀬戸内海交通の設立をみ、路線は肥海(三四年)・浦戸(三五年)・瀬戸港(同)・盛(四三年)へと延びていった。この間、三五年には伯方島に、三六年には大島において運転を開始し、今日にいたっている。島の交通は本来、海上交通に頼りがちで、バス交通はあまり発達しない傾向がある。ただ、越智諸島の中心をなす大三島・伯方島・大島は近々架橋で結ばれるので、今までとは異なった形でバス交通需要の高まりが期待されている。


 貨物輸送の発達

 今治地方の現在の国道や主要県道は、藩政時代の主要街道を増幅したり、部分的に路線を変更したもので概略のコースはあまり変わらない。当地方には明治五年(一八七二)に三輛の人力車が導入され、同三六年には乗合馬車が出現した。明治末期には自転車ブームがみられ、貨物輸送が人から自転車・馬車にとって代わられた。貨物輸送にとって乗合馬車の出現は画期的であった。明治三六年に柳社が導入した乗合馬車は駐車場を柳町(現在の旭町一丁目)におき、周桑郡三芳方面に運転をはじめた。その後同郡三津屋行き、越智郡竜岡方面行きができ、駐車場は呑叱樋にあった。また、別宮に駐車場をおいて、菊間、時には松山方面へ運転するものが出来、桜井や菊間にも営業所ができた。馬車は六人乗りで鉄輪であって(後大正年間に入るとゴム輪も出現した)哀調のラッパで乗客を呼んだ。明治四四年末には、今治町に五台、日吉村に三台、盛況時には柳社五台、呑叱樋に三津屋行四台、竜岡行二台、別宮に菊間行が四台あった。国鉄予讃線の西進開通とバス事業の発展にともない、漸次運転範囲をせばめ、大正一四年菊間駅の開通により、竜岡行のみ一台となったが、これも翌一五年鈍川行自動車の開通で姿を消した。
 自動車による貨物輸送は、大正四年(一九一五)飯僖久治が自動車一台を購入して始めたのが最初である。大正七年に二台、八年に四台となり、その後も漸次台数を増した。昭和一〇年頃には三人乗八台、六人乗一五台等合計三二台、同一四年には五四台(別に市営バス一一台)となった。明治末期の馬車、大正初期の自動車の出現は、当地方の道路の改修・新設を意味し、必然的に公費によって工事がなされ漸次改良されていった。それにともたって、前述のバスの発達と相前後して貨物自動車やタクシーの普及がなされた。特に昭和初期は業者の乱立時代であった。第二次大戦中はガソリン不足のため木炭車が多くなる一方、自転車でひっぱる厚生車が増加し、近距離での人と物の輸送をなした。この厚生車は終戦後もしばらくは幅をきかせ、二五年には四四台あった。三〇年代になると軽自動車の増加が著しく、三〇年代後半から始まる高度経済成長期には貨物自動車と普通自動車が目立って増加した。四〇年代半ばからはマイカー時代を迎え、普通自動車はさらに普及した。経済活動の活発化にともなう輸送需要の増大、生活様式の高度化、国道・県市道等の道路の改良・舗装等により自動車交通はより加速を増した。こうしたモータリゼーション化は地域間の人や物の移動する時間を大幅に短縮するとともに、それにともたって地域間交通量を増大さす結果となった。しかし、道路整備が追いつかず、市街地およびその出入口付近では交通渋滞がみられる。特に国道一九六号の西および南入口、同三一七号の北および西入口での朝夕の交通渋滞は著しく、建設途上の一九六号バイパスへの期待が大である。
 ところで、今日のトラック輸送は、経済の伸張による輸送需要の増大、道路網の発達、自動車の普及などにともない、「戸口から戸口へ」の移動の容易さと機動性、低廉性といった特性をもっているために急速に増大している。最近の宅配業者の急増ぶりはこのことを如実に物語るものである。今治は四国では高松と共に、北四国の中・長距離フェリーボートの基地という有利な条件がともなっており、他の地方以上にトラック輸送の発達条件を備えている。昭和五三年の今治市における定期トラック輸送業者の路線状況をみたのが表2―79である。これによると、四国内はもちろんのこと、中国・近畿方面への路線が多く、遠くは名古屋・東京方面にまで伸びている。今治から発送する貨物の品目は、地場産業である繊維産業を反映して、タオル・綿布・縫製品などが主体であり、到着貨物は雑貨が大部分を占めている。トラック輸送業者は、市のほぼ中央の泉川通にトラックターミナルをつくり流通拠点としていたが、規模が小さいのと市街地のため大型トラックの通行に支障が多いことなどのため、昭和四八年に埋め立ての完了した天保山の二・五万平方mの土地に、六社の出資による大型トラックターミナルを移転設置した。これは、四八年に資本金一・二億円で設立された協同組合流通センター経営の天保山トラックターミナルで、翌四九年八月から供用を開始した。一日の貨物取扱能力は一〇〇〇トンであるが、五八年一〇月現在のそれは四八〇トンである。この施設の利用状況は表2―80に示した。近畿圏を中心に中・四国・名古屋・東京におよぶ路線を持っている。
 今治は、海陸から人と物が集まりやすい位置にあるので流通拠点都市づくりを進めている。その第一歩として、蒼社川河口および河口左岸に一万トン級の岸壁、四国最初の保税コンテナヤードを有する貨物専用港と、蒼社川右岸に新貨物港と連結した臨海流通工業基地を含めた、臨海流通センターを五五年に完成した。新貨物港に隣接して、物流施設であるセメント配分基地・前述のトラックターミナル、卸商センター、公共卸売市場、飼料工場、飼料配送センターも完成している。さらに、数万トンの木材専用船の出入りできる木材港を、木材団地の海岸に計画している。また、内陸流通拠点計画の事業として、市街地を走る国鉄予讃本線を高架にする事業(工事中)、国道一九六号バイパスの建設(一三・四㎞のうち六〇年一一月宅間―阿方間一・七㎞開通)、伊予富田駅を貨物専用駅にする貨物流通センター計画、今治―尾道間本四連絡道路の今治南インターチェンジ予定地に隣接して設立する内陸流通センター計画、港湾、貨物駅、内陸流通センターを結ぶ三本の道路建設計画(工事中)などがある(図2―62)。

表2-75 今治を中心とするバス路線の形成 1

表2-75 今治を中心とするバス路線の形成 1


表2-75 今治を中心とするバス路線の形成 2

表2-75 今治を中心とするバス路線の形成 2


表2-76 今治を中心とするバス路線の休・廃止状況

表2-76 今治を中心とするバス路線の休・廃止状況


表2-77 瀬戸内運輸のバスのワンマン化の推移

表2-77 瀬戸内運輸のバスのワンマン化の推移


表2-78 今治地方のバス路線の現況

表2-78 今治地方のバス路線の現況


表2-79 今治市における定期トラック輸送

表2-79 今治市における定期トラック輸送


表2-80 天保山トラックターミナルの利用状況(昭和58年3月~59年3月)

表2-80 天保山トラックターミナルの利用状況(昭和58年3月~59年3月)


図2-62 今治市の流通拠点構想図

図2-62 今治市の流通拠点構想図