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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

九 波止浜の形成と発展

 波止浜の形成

 今治市域の北部に位置する波止浜は、昭和三〇年に今治市に合併するまでは、波止浜町として独立した行政地区であり、塩田と造船業それに来島海峡をひかえる観光の基地として知られていた(写真2―38)。
 波止浜の旧市街地は筥潟といわれた奥深い入江の湾頭に立地する。市街地の形成は天和三年(一六八三)波方村浦手役長谷部九兵衛によって県内最古の入浜式塩田が完成して以降である。塩田はその後、貞享四年(一六八七)・元禄四年(一六七一)・文化四年(一八〇七)・文政六年(一八二三)・天保五年(一八三四)と五回にわたって増設され、七〇余町歩の大塩田となる。市街地は天和三年の数軒の寒漁村が、三年後の貞享二年には三四戸、元禄一三年(一七〇〇)には九七戸となる。集落は商業集落の波止町と、塩田集落の浜分に分かれていたが、元文五年(一七四〇)の宗門改帳によると、波止町の家数二九四戸、人口一一一二、浜分の人口四七三となっている。波止町と浜分が合併し波止浜の地名が誕生したのは天明元年(一七八一)であるが、町分の年寄と波分の庄屋の個別の支配は明治維新に至るまで継続した。
 藩政時代の波止町には、塩田地主や塩問屋・回船業を営むものが居住し、浜分には塩の生産の責任者である大工と、それに支配された浜子が居住していた。塩田で生産した塩は波止町の塩問屋の手をへて販売され、塩田で使用する松葉などの燃料も波止町を通じてもたらされたので、波止町は塩の生産が盛んになるにつれて活況を呈する。塩の移出は波止町の浜からなされたが港は内外の船の往来でにぎわい、波止町は松山藩の重要な港町としても栄える。また、奥深い入江は瀬戸内海の沿岸航路の寄港地としても利用され、風待ち・潮待ち港としても栄える。人口の集積と共に波止浜の市街地は次第に拡張され、弘化二年(一八四五)には新地、同四年には幸町、嘉永元年(一八四八)には常盤町と海を埋め立て市街地は拡大していく。


 大正・昭和初期の波止浜

 波止浜は明治二二年(一八八九)隣接の高部・来島・杣田の村を合併して波止浜村となり、明治四一年(一九〇八)には波止浜町として町制をしく。明治維新以降の波止浜は、藩政時代同様、塩の生産と塩をはじめとした物資の移出港、沿岸航路の潮待ち・風待ち港として発展する。明治九年(一八七六)の記録によると、五〇石以上の船五三、五〇石以下の船三六、魚船九三、移出品は塩一三万九八八俵・五万二四八四円、雑魚九八円、木綿一万六二〇〇匁・三七六八円、移入品は米二六三六石・一万六〇四三円、石炭一〇五〇万斤・一万五〇〇円、麦二五〇石・一〇〇円、塩俵五五万枚・二五〇〇円となっている。塩の移出港並びに、港町として発展していた様子がよくわかる。
 波止浜の戸数は明治七年(一八七四)五二八、明治三七年(一九〇四)五八一、大正一三年(一九二四)四二二、昭和一二年四一九と推移している。明治年間に対して、大正・昭和の戦前にかけては戸数の減少がみられ、町勢の停滞がみられる。それは帆船交通の時代から機帆船・汽船の時代になっていくにつれて、波止浜が潮待ち・風待ち港の機能を失ってきたことを示すものである。港としての機能の低下は、大正九年(一九二〇)今治市が市制実施と共に港湾改修をはかり、波止浜港をしのぐ港湾施設をもつに至ったこととも関連する。
 製塩は明治三八年(一九〇五)専売制度が実施されて以降も、浜の塩田の塩釜で生産されていた。塩釜の燃料は文政年間(一八一八~一八三〇)ころからは石炭になり、塩問屋と並んで石炭問屋が町の中では資産家となる。塩田で生産された塩を湾内の本船まで搬出し、北九州から輸送されてきた石炭を塩田の塩釜まで搬入するのは、上荷船という小さな船である。上荷船は上荷組合をつくり、塩と石炭の輸送を独占していた。波止浜の岸壁には常時四〇隻程度の上荷船がたむろし、満潮を利用して塩と石炭を運搬したという。
 波止浜の塩田地主は明治六年(一八七三)塩田組を組織していたが、大正六年(一八七三)に波止浜塩合資会社を設立し、昭和一二年には全塩田で生産した鹹水を町の北部の製塩工場にパイプで運び、合同製塩を開始する。製塩工場に隣接しては専売公社の塩の倉庫があったが、製塩工場も専売公社の倉庫も本船の接岸が可能なことから、上荷船による塩と石炭の運搬は不要となり、ここに上荷組合は解散の憂き目をみる。
 波止浜の現在の主要産業は造船業であるが、この造船業は波止浜が港町であったこと、近くに波方・木浦・津島・御手洗などの海運業の基地があったことなどに刺激されて成立する。明治初期にも木造船の修理工場はあったが、この地区の造船業の嚆矢をなすものは、明治三五年(一九〇二)に設立された波止浜船渠であり、同工場は大正一三年(一九二四)には鋼船の生産に乗りだす。その他の造船工場は第二次大戦中から設立されたものが多く、当初は木造船の生産に従事していたが、昭和三五年以降の造船ブームの間に鋼船の生産に転換する。
 大正年間から昭和の戦前にかけての波止浜の市街地には、塩田地主や塩問屋・石炭問屋などの豪荘な邸宅を中心に、上荷船や内海海運の船乗り、造船所の労働者などが居住し、それらの顧客を相手とする商店も蓬来町や蛭子町には並んでいた。街の大部分は埋め立て地であるところから、住民を最も悩ませたのは、清冽な飲料水を得ることが困難であったことである。昭和二六年上水道が敷設されるまで、山麓ぞいの各所に共同井戸が多かったのは、この水不足への対応であったといえる。また井戸のなかには、塩田地主や塩問屋などの資産家が掘さくし、住民に提供した井戸もあった。第二次大戦前に水売りがみられたのも、水に不足するこの町を象徴する風景であったといえる。


 塩田廃止後の波止浜

 瀬戸内海有数の生産地であった波止浜の塩田も、昭和三四年には塩業整備臨時措置法の適用をうけ、製塩業は廃止され、波止浜塩業組合も解散する。塩業組合では昭和二四年から波止浜化学工業㈱を設立し、製塩の副産物である苦汁生産を行っていた。塩業組合は製塩業の廃止にあたり、この波止浜化学工業を改組し、波止浜興産㈱を設立した。この会社は廃止された塩田を利用して地域開発をはかる会社であり、旧塩田地主がその株主となった。波止浜興産は塩田を順次埋め立て、そこに住宅用地を造成したり、ゴルフ場や自動車練習場を開設したり、自動車整備工場や貸倉庫業などを営む。
 波止浜興産が塩田を埋め立て、そこに宅地造成をしたり、各種企業を設立したことは、波止浜の町の景観を一変させる。宅地造成は塩田北部の五番浜に始まり、その南の二・三・六・七・八番浜へと及んでいく。この街区の中には、主要地方道大西・波止浜線が通じ、その沿線には商店や事務所が並び、波止浜の新しい商業・業務地区へと変貌している(図2―54)。この地に新しく進出した商店や事務所の中には、旧波止浜の市街地から進出してきたものも多い(図2―55)。昭和三五年に開設されたゴルフ場と自動車練習場の西方と南方の地区も、次第に住宅の進出が著しく、波止浜の新興住宅地となっている。
 旧塩田地区が新しい商業地区・業務地区・住宅団地として発展しているのに対して、波止浜の旧市街地は商業機能も低下し、衰退の一途をたどっている。狭くて屈曲の著しい街路ぞいに、旧塩田地主や回船業で産をなした人々の土蔵造りや格子戸をもつ豪邸がたたずんでいるが、これらの家並みに、往時の繁栄がしのばれるのみである。
 塩業廃止後、波止浜地区最大の産業は湾岸に立地する造船工業である。造船工業は明治三五年(一九〇二)波止浜市街地の北部に波止浜船渠が創立され、同工場が大正一三年(一九二四)鋼船の生産に乗りだす。現在湾岸には九社の造船工場が林立するが、これらは第二次大戦中から戦後に設立された木造船が、昭和三五年以降の造船ブームの間に鋼船の生産に切り換えたものである。

図2-54 波止浜の市街地の拡大

図2-54 波止浜の市街地の拡大


図2-55 今治市波止浜の公共施設・事務所の移動

図2-55 今治市波止浜の公共施設・事務所の移動