データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 貿易港今治

 今治貿易港小史

 一、寛永一二年(一六三五)今治藩初代藩主久松定房が伊勢長島より最初に入藩したのは拝志浜であり、彼が延宝二年(一六七四)大阪より帰城した時も、今治城下町片原町下へ着船しており、現在の今治港は造成されてなかったので、拝志や大浜の浜を利用したものであった。
 一、今治港の築港は七代藩主松平定剛の寛政年間(一七八九~一八〇〇)頃、呑吐樋から海に直流していた金星川(泉川)の造った砂州を掘り立てて、片原町から南東方向に長くのびる沖新地(古新地)を造成して、湾入をつくり城域湾頭の船頭町や住吉町も整備したのに始まる。文政一二年(一八二九)には砂土の堆積を防ぐため、沖新地との間に中州を造成し、天保二年(一八三一)には港頭右岸の砂州を埋め立てて天保山と称する防波堤をつくり、ようやく現在の今治港の原形ができた。
 一、明治六年(一八七三)、石鉄県庁が今治に置かれたのを契機に天保山堤防の北付根から沖に突出する一文字防波堤建設の計画が持ち出されたが、僅か半年後の県庁移転と共に中絶し、不完全な港はさらに土砂堆積や護岸の損壊で荒廃し、以後一文字堤防の建設は悲願となった。
 一、以後、明治末年まで度々土砂浚渫や、防波堤建設がはかられ、明治四一年(一九〇八)には築港期成同盟会が結成され、今治綿ネル・タオルの生産増を背景に具体化がすすめられた。
 一、明治三〇年(一八九七)今治に税関監視署設置される。
 一、大正八年(一九一九)河上哲太らの努力で第四一回帝国議会で今治開港が決議され、同九年(一九二〇)市制実施と共に港湾修築第一期工事に着手。
 一、大正一一年(一九二二)二月一〇日四国唯一の開港場の指定を受け、神戸税関今治支署が設置された。大正一二年(一九二三)第一期工事完成、大正一三年(一九二四)には今治港務所が開設された。
 一、昭和二年、第二種重要港湾に指定され(全国三六港)、昭和九年に港湾修築事業落成。
 一、昭和九年第二期工事完成。
 一、昭和一〇年沖洲、新町荷揚場に倉庫三棟落成、昭和一六年沖洲荷揚場へ倉庫四棟落成。 一、昭和二五年、天保山倉庫五棟完成。
 一、昭和二六年、新港湾法に基づく重要港湾の指定を受ける。
 一、昭和三〇年植物防疫港(か穀類)に指定される。昭和三七年植物防疫港(木材)に指定されると共に波止浜港を今治港域に編入。
 一、新居浜(昭和二三年)、松山(昭和二九年)、三島・川之江(昭和四四年)、宇和島(昭和四六年)それぞれ開港指定を受ける。
 一、昭和四四年、新港湾建設工事着工、昭和五三年~四年新港湾岸壁使用開始。
 一、昭和五九年一二月、今治港港湾計画富田地区(通称織田ヶ浜)にかかる案件が国の港湾審議会で決定された。


 開港指定と今治港

 今治港「開港」の事情については、近隣の国安村(現、東予市)出身の代議士であった河上哲太が大正七~八年(一九一八~一九)、第四〇~四一回帝国議会に提出した「今治港開港に関する建議案」に詳細であるので抜粋する。
  
 一、港の全国における地位。出入船舶数一万一三五二隻、同トン数二四六万二〇〇〇トン(開港場三七港のうち一八番目)という実績がある。
 一、地元工業製品の第一は綿製品で、大正七年(一九一八)の内地向け生産金額は約一一四七万円(表2―56)。外国向けが約九〇〇万円。外国へは支那へ約二六〇万円、南洋へ約五七一万円が輸出されている。また、附近に桜井という漆器の生産地があり、また住友の四阪島では銅精錬の亜硫酸ガスを利用し、肥料も造っている。開港となればこれらの商品も今治から輸出される。
 輸出はこれまで、大阪・神戸を通じて行われていたが、商社も今治へ支店などを置き直接今治から輸出貿易したいという希望がでてきたが開港がないので実現していない。
 一、高知・徳島・香川への鉄道連絡も数年うちに出来るようになるが、四国には一つも開港地がない。
 一、今治港が悪条件の港であるということは有名であるが、それは浅いこと、東南風を防ぐ突堤がないことなどである。ふだんは沖へ船を止め荷役をしているが、東南風を防ぐ突堤ができれば大型船も入港し、荷役も楽になるし、大阪、神戸からの寄港も多くなる。

          
 今治港の利用状況
 
 瀬戸内海のほぼ中央に突出した高縄半島の先端の東側にあって、西風を防ぐ今治港は、位置的にも四国最初の開港場たる条件を備えていた。それは明治三〇年(一八九七)、はじめて税関監視署(水陸での貿易監視をする)の規定が定められ、全国七か所に設置されたがその中に今治港が入っていることをみてもわかる。
 しかし、泉川の土砂堆積や蒼社川河口からの漂砂等で港は浅く、東南風を防ぐ堤防が全くないため移輸出入港としてはほとんど用をなしておらず、港頭には灯火もないありさまで、明治二三年(一八九〇)の浚渫願書にも「秋冬は迅雨暴風有之、難破船川口に近寄、救助号哭の声年々耳に絶ず……」とある。
 しかし、平均的に平穏な日が多いので荷扱いは港外沖合に停船した船舶に「はしけ」による往復荷役をしたものであり、明治三四年(一九〇一)に今治に寄港した西洋型汽船二九二六隻及び西洋型帆前船二四〇隻は、すべて沖合荷役で、日本型五〇石以上の帆船二四〇〇隻のうち、港内に入ったのは僅かに三五〇隻にとどまった。
 開港場指定は国費による港湾整備を条件づけるものであり、開港の条件は輸出地場産業の振興とかかわるものである。明治一九年(一八八六)創業の綿ネル生産が、ようやく本格化したのは同三〇年(一八九七)代であり、三三年(一九〇〇)には六二万余円の生産額を示している。そして最盛年は大正一四年(一九二五)の約二四三〇万円で約四倍となり、タオルもその年、約二四〇万円を産して上昇気運に乗りはじめた。
 今治港の整備については明治三〇年(一八九七)代は一文字堤防の建設と今治港の浚渫が度々陳情され、同三四年~三七年(一九〇一~〇四)、愛媛県もその必要を感じ浚渫実費を負担し、県有浚渫船海南丸がそれにあたった。大正九年~一二年(一九二〇~二三)の第一期港湾修築工事及び同一一年(一九二二)の開港場指定は、まさに大正一四年(一九二五)の綿ネル最高生産とタオル生産の上昇を約束するものであったわけである。そして、当然に今治綿織物の輸出も約一〇九〇万円(生産の約四三%)と最盛年を示した(図2―32)。
 このように今治開港は、四国第一の工業生産を誇る繊維工業の町として特にその輸出活動を主導的要因とし、当時の国策にそって四国最初の開港場として認可され、続いて第二期工事が昭和九年(一九三四)まで行われ、現在の今治港が完成したものである。なお、その整備状況について、その後の増設も加えて簡略に記すと次のようになる。

 一、今治港域 蒼社川口の東岸より大浜灯台に至る。
 一、東防波堤 延長五九一m、突端に点滅灯台。
 一、整船岸壁 天保山岸壁に二一八m、水深五~七m。
 一、物揚場  片原町に一四五m、水深一・八m。内港沿岸九七m、水深三・一m。
 一、倉  庫 新町地先五八六平方m、住吉町九六七平方m、片原町九〇平方m、天保山五七一平方m、沖洲地先六六〇平方m。
 一、貯炭場  六一六二平方m。
 一、貯木場  浅川水面を含む二万三四二三平方m。
       

 貿易の発展
       
 今治港や地域産業にとって大正一一年(一九二二)の四国最初の開港は画期的なできごとであった。しかし例を地場産業である繊維製品にとってみると、輸出はすでに明治三四年(一九〇一)より行われており、大正一二年(一九二三)には生産の約半分である約四六〇万円を輸出している(図2―32)。しかし今治税関の通関輸出統計は○となっている。これは統計の取り扱いに起因するもので、取扱商社の関係で神戸港に集荷し神戸税関を通関するとなると、今治港扱いは、国内貿易(移出)として港湾関係統計に計上されることになる。だから今治港と外国貿易の関係を見る場合には、年次輸移出入統計すう勢と、地場個別産業の貿易統計とから理解する必要がある。
 今治港への出入商品についてみると、金額では明治末頃まで米麦など主食及び乾物類等の食品や雑貨類が七〇%前後を占めて、繊維関係は三〇%以下であった。これは、今治を中心とする生活圏の一般需要品出入りの機能を中心とした港湾であったことを示している。しかし大正期及び昭和期の戦前までは、繊維関係品が五〇~七〇%を占める地場産業移出入港の色彩を濃くしていった(図2―33)。
 その実勢を反映して昭和二年に第二種重要港湾指定(全国三六港)が行われて、港湾整備がすすめられ、又いわゆる韓・満・支貿易といわれる大陸貿易が振興し、昭和三年~昭和一五年に至るその間は、大連航路便船の寄港によって最盛期を迎えることになる。
 これは貿易船の入港状況でみるとよくわかる。開港当初は全く入港のない年もあり、大正一一年から一五年(一九二二~二六)までの五年間は一四隻にすぎない。ところが昭和三年の大連航路船入港の年から三六隻に増え、昭和八年には一〇〇隻を超えるようになっている(表2―57)。


 戦後の貿易

 戦災都市となった今治は地場産業が大打撃を受けると共に、仕向け地主力の大陸貿易も当然皆無となり、外国貿易船の入港のない年が続いた。これに加え昭和二二年、新居浜港が開港し、燐鉱石の輸入は新居浜港で行われることになり、今治税関の閉鎖が問題となった。また昭和二四年の税関法では年間二五〇〇万円の貿易額と、一三隻の貿易船の出入が条件づけられた。この危機に対し今治市行政令地元商工会議所が一体となって対応し、従来貿易実績のあった穀類及び木材輸入に活路を求め、昭和三〇年、植物貿易港の指定を受け、また三七年に木材輸入港の指定を受け外米、外材の輸入が可能になった。また、同年、近隣の波止浜港を今治港域に編入するなどの措置をとったため、貿易船入港も二〇隻前後となり、昭和四〇年代には一〇〇隻を前後するようになった(表2―57参照)。
 次に貿易構造の変化について概観する。
 一、移入について昭和四〇年と五九年を比較すると、鉄鋼、セメント等の重量の貨物が四~五倍に増加しているが、エネルギー資源としての石炭が皆無となり、代わって原油・石油製品が約二・五倍に増加していることが目につく。前者は新たに地場産業となった造船業の振興や、土木・建築量の増大によるものであるし、後者はエネルギー源の交替によるものである(表2―58)。このため輸送コストの低減化のためにも大型船の入港が多くなり、港湾施設の整備、拡大が必要になってきた。次に地場繊維産業のための原糸が外国産原糸に押され、東洋紡績工場の閉鎖に至る過程として原綿輸入が激減したことがあげられる。
 二、外国貿易についてまず輸入を昭和一一年と五九年を比較してみると、戦前最大重量貨物であった燐鉱石輸入が直接新居浜港輸入になったこと、および石炭、飼料、豆類についての大陸貿易がなくなり、代わって穀類や原木の輸入が、新大陸及び東南アジア主力で行われるようになり、これもコスト対策の上から大型船の入港施設が必要になった(表2―59)。
 また韓国からの安価原糸輸入が昭和五四年から始まり、年々大きく増加し、これがコンテナ輸送のためコンテナ船入港対策にも迫られるようになった。
 輸出については数量的には昭和五九年が上まわるけれども(表2―59)、それは統計扱上韓国より輸入の際のコンテナが輸出統計上されたもので、実数は韓国向けの高級原糸、紡半製品のみということである。しかし実態は、今治の地場産業である布帛製品(縫製品)生産の約二四%にあたる七八億円が大半アメリカに輸出されており、タオル製品も生産の約四%ではあるが、九四五トンが東南アジア・中・北アメリカに輸出されている。これは商社扱いの都合上神戸・大阪に集荷され、その場所の税関を通過するので、今治港扱いは移出として計上されるためである。


 新港湾の建設

 外国貿易の遠距離、大量化やコンテナ輸送化にともない、そのコスト低減化は極めて重要な課題となり海上流通拠点都市では、どこも大型船・コンテナ船のけい留施設の充実、整備に力を注いでいる。
 今治港においても港湾区域の拡張と、貨客分離を目的として新港湾の建設が計画され、昭和四五年に認可着工した。それは蔵敷地区に一万トン級バース一、五〇〇〇トン級一、二〇〇〇トン級五、鳥生地区に二〇〇〇トン級二、を建設するもので、昭和五四年に完成し、保税上屋、物揚場、及び附属工場地域も増設された。
 次いで第三次港湾計画として今治地区に一万トン級フェリー岸壁、富田地区(織田が浜)に三万トン、一万五〇〇〇トン級貨物船岸壁及び関係土地造成を予定している。四国の代表的流通拠点をめざすものであるが、自然環境との調和を配意した造成がなされるべきであることは論を待たない(図2―34)。

表2-56 大正5年今治綿製品生産実勢

表2-56 大正5年今治綿製品生産実勢


図2-32 今治市綿製品の内需・輸出量比較

図2-32 今治市綿製品の内需・輸出量比較


図2-33 今治港移出入額割合の変化

図2-33 今治港移出入額割合の変化


表2-57 今治港貿易船入港隻数

表2-57 今治港貿易船入港隻数


表2-58 今治港の移入品目変化

表2-58 今治港の移入品目変化


図2-34 今治新港と富田地区(織田が浜)新港湾計画

図2-34 今治新港と富田地区(織田が浜)新港湾計画


表2-59 今治港の輸出入品目、数量の変化

表2-59 今治港の輸出入品目、数量の変化