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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

二 今治市のタオル工業の発展(1)

 タオル製造の歩みと先駆者

 わが国にタオルがイギリスから輸入されたのは明治五年(一八七二)で、襟巻に使用されたという。その国産化は明治一三年頃、大阪で始まり、泉州タオルは同二〇年、播州タオルは同二四年にそれぞれ創始されている。今治タオルは、明治二七年(一八九四)、綿ネル業界の阿部平助か綿ネル製造によって生ずる余りの糸と、色違いの色の利用に着目して製造を始めた。しかし、当時のタオルは西洋手拭いと呼ばれ、日本手拭いに比べ価格も高く、国内需要は少なかった。大阪地方のタオル産地が、順調に発展したのは、輸出を目標にしていたためである。一方、今治地方でのタオル産業は品質が劣る上に、貿易港のある阪神地方との交通が今日ほど便利でなく不振であった。
 私費を投じて自ら能率的なタオルの製織法を研究していた麓常三郎は、苦心の結果、明治四三年(一九一〇)に、いわゆる二挺筬バッタンとよばれるタオル織機(手織り式)を考案した。これは両側に耳のあるタオルを同時に二列に製織できるもので、画期的な成功であった。これにより今治タオルの品質向上、生産効率に大改善がもたらされ、当時不況に悩んでいた白木綿業者は、木綿織機を有利な麓式タオル織機に改良する者が続出した。中には綿ネルからの転業者もみられ、大正四年(一九一五)頃には、麓式タオル織機が今治地方一般に普及した。
 大阪方面で製織されていた後晒タオルや縞タオルの模倣に終始していた今治地方に、もう一つの転機をもたらしたのは、大正初年、縞反物製造業の中村忠左衛門が、織る前に糸を晒して染める先晒単糸による縞タオルの製法を開発したことである。これは体裁がよく、価格が安かったので市場で歓迎され、売れゆきがよかった。おりからの第一次世界大戦による好況に恵まれ、木綿・ネル業者から追随する者が急増し、生産量は増大し、ここに大阪の後晒しタオル、三重の撚糸タオルと並ぶ先晒しタオルが主流の今治と、三大タオル産地を形成する基礎がつくられた。これは、単なる先進地の模倣に終わらず、紀州ネルを改良して今治独特の片毛ネルをつくり出し、容易に追随を許さなかった綿ネル業と同様で特筆すべきことである。タオルは、日本手拭いに比べ吸水性がよく、浴用に適する長所があるので、漸次、その長所が理解され、生活必需品の中に加えられたことと、第一次世界大戦の好況に恵まれ、輸出が増大したことにより、国内外の需要が増し、生産は年々増大した。こうした状況下に、今治地方のタオル工業の基礎は大正時代前期に確立したものといえる。
 大正時代後半に力織機やドビー機の普及がなされてタオルの生産能率は向上し、年々生産量も多くなった。大正九年(一九二〇)には兵庫県をぬき、同一三年には三重県をぬいて第二位にあがり、昭和四年には四〇〇万ダースを超えて、第一位の大阪府に迫った。その後、昭和六、七年の世界恐慌の影響で一時期減産したが、綿ネル・広幅織物に比べると恐慌の打撃は少なかった。それは、タオルはまだ国内市場への普及の段階で、輸出は生産量の約二〇%程度にすぎなかったためである。そのため、輸出不振とたった綿ネル・広幅織物業者の中には、タオル業に転業する者も出た。タオル工業は、小規模経営を特色とし、小資本をもって経営できるので業者が増加しやすい。そのため粗製乱造となり、自ら墓穴を掘る愚さを繰り返した。そこで、昭和七年佐野タオル工業組合(後に大阪タオル工業組合と改称)が中心となり、三重・今治のタオル業界に呼びかけ、日本タオル工業連合会を組織し、商工省(後の通産省)の指導のもとに統制にとりかかった。統制の手始めは、タオル製品の検査の標準として、タオルの規格をある程度統一し、浴巾・湯上・反物・腰巻・ハンカチの五品種に、一三〇種の規格が定められ、粗悪品を防止し、品質の向上をはがるために、昭和八年から検査を実施した。さらに、翌九年からは生産統制を実施し、各地方組合に生産数量を割り当てた。こうしたタオル業界の自主統制は、ややもすれば低下しようとする採算水準を維持することができ、綿布業界からタオル業界への転業や、需要期のみにタオル製織を行う者が現れることが防止され、業界は安定した(表2―30参照)。
 第二次世界大戦の激化にともない、他の産業同様、タオル業界も厳しい企業整備がなされ、昭和一八年には今治地方で操業を許可されたのは二三工場、織機八二三台にすぎなかった。戦後は、その後の転廃業や同二〇年の戦災による焼失などで工場数の八九%、織機の八八%を失い、残存した九工場、織機二七五台で再スタートを余儀なくされた。昭和二五年に織機の設備制限が廃止されると、タオルの織機は急増した。その原因は、まだまだ戦後の衣料不足の時代で織れば売れる見通しがあり、利益もかなり多いことが見込まれ、採算もよかった。戦争を通じ一〇年間余り独立自営のできなかった技術者が、この時期の来るのを待っていた。また、タオル業者の二、三男対策として分家開業することも多かった。その際、タオル織機四~五台の小設備、小資本で開業できた。
 昭和二五年六月、朝鮮動乱の勃発によって、タオル業界も需要が旺盛になり、売手市場の好景気を迎え、世はこれを「糸へん景気」と呼び、今治地方はタオル業界のみならず広幅織物なども好景気がもたらされ、織機が「ガチャン」と音をたてるたびにもうかることをもじって「ガチャ万」とまで呼んだ。しかし、朝鮮動乱がおさまり、長年タオル不足に悩んでいた人々にタオルが行きわたった昭和二七年には、早くも需要の減退が現れた。そこで、二七年から九年半におよぶ長期の生産数量制限という厳しい事態を経験した。この間、通産省の指導の下、業者の団結、品質の向上、技術の改善、タオル用途の拡大、販路の開拓など地道な努力がなされ、再びタオル工業の繁栄をかち得た。中でも今治独特のタオルケットの創製は、毛布と同じ大きさで浴巾や湯上、おしぼりに比べ面積が広く、使用する糸量も多いので、ついに昭和三五年には大阪をぬき、生産量日本一の座を獲得した。折りからの所得の増加、消費ブームに乗ってタオルケットの需要が伸びはじめ、品種別の生産高は、昭和四一年には、今治タオル創業以来七〇年余り首位を保っていた浴巾を追い抜きタオルケットが首位にたった。四三年には過半数を占め、以後年々割合を高め、四七年には六一%にも達した。またタオルケットの約九〇%は今治地方で生産されている(表2―33・2―34)。

表2-33 タオル業界の歩み―愛媛を中心として― 1

表2-33 タオル業界の歩み―愛媛を中心として― 1


表2-33 タオル業界の歩み―愛媛を中心として― 2

表2-33 タオル業界の歩み―愛媛を中心として― 2


表2-33 タオル業界の歩み―愛媛を中心として― 3

表2-33 タオル業界の歩み―愛媛を中心として― 3


表2-33 タオル業界の歩み―愛媛を中心として― 4

表2-33 タオル業界の歩み―愛媛を中心として― 4


表2-34 最近のタオル生産量の推移

表2-34 最近のタオル生産量の推移