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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 宇摩平野の稲作と水利②

 水不足の宇摩平野と銅山川の水
 
 宇摩平野の灌漑用水の取水源をみると(表5-5)、溜池灌漑面積が三六七・三ha、(二九・五%)を占めている。金生川は流域延長三五・八km、流域面積五八・六平方㎞、三角寺川など支流を合わせると川之江市最大の河川であり、銅山川分水以前には最も重要な水源であった。したがって、河川水の取水や分水について維持管理の細かい規定があった。また渇水時には

「此節旱天続き東西村々に用水差しつかえ難渋の趣き相達し候。もっとも村々にも雨乞い祈祷致し候。」

と雨乞い祈祷が行われた。分水に関して延宝二年(一六七四)妻鳥村民と上分村民の間に水利権をめぐる流血の惨事も起こっている。
 このように、灌漑用水の不足に悩んだ宇摩平野米作農民は、安政二年(一八五五)の大干魃で甚大な旱損被害を蒙った。今治藩治下の三島・中曽根・松柏・妻鳥の庄屋連中が耕地灌漑の目的で、銅山川の水を法皇山脈に燧道を抜いて分水することを計画し、三島代官所に願い出で銅山川総合開発の第一歩を印した。宇摩郡銅山川疎水組合の『愛媛県営銅山川疎水宇摩郡改良事業経過梗概』にはその事業の必要性を次のように述べている。

本地区は気候土質良好なるに不拘農家豊ならず、辛じて生計を維持し得る状態に在り、之が原因には種々ありと雖も、その主なるものは農家各戸の耕地反別狭少たると、其耕地また水利の便を欠き完全な農業経営をなし能ざるに起因す。……灌漑組織不完全にして有名なる旱魃地なるため、古来農民は水を得に必死の努力をなし来りたるも年々歳々旱害の苦しみ繰返し、平年においても無被害地の農家より以上の努力をなし、而して収穫において毎年二割内外の旱害を蒙りつゝあるのみならず、二年~五年毎に必ず大旱魃に遭遇、大正一三年(一九二四)の如きは減収五割に達し、甚しき町村にあっては、収穫皆無に終わりたる反別甚大にして、之がため肥料代は勿論水利費にさえ事欠くに至れり。
 近時、機械力に依る地下水の利用旺盛となり部分的に用水補給をなしうるも、本地下水は地区内随所に得ること能わず、極地的なるのみならず渓流および溜池など涸渇するに従い地下水また涸渇す。おもに本地下揚水には多額の設備および経常費を必要とするをもって旱害を辛じて免れ得るとするも、農家経済においては旱害を蒙りたると何等相違なきものなり。農家は裏作及び副業その他の収入をもって、旱害による損失を補顛する暇もなく、重ねて旱魃に遭遇するが如き実状にして、農業をもって生活を保ち得ざる惨状にあるも、質実なるが故に不安焦慮の中に伝来の天職を継続しつつあるものにして、これら農民を救済するには、一に古田の用水補給を行うと同時に開田を行うにあるも適当な水源なく、従ってその方策なく実に同情に余りあり……。

 この干魃の根本的克服の積極的対策としてクローズアップされたのが、銅山川総合開発計画で、安政年間(一八五四-五九)以来宇摩郡民の渇望であった。

 銅山川総合開発の開発過程

 銅山川総合開発の歴史は、安政年間以来宇摩平野農民の干害克服の悲願を達成するための水を求めての苦闘史である。安政二年(一八五五)より銅山川の水を灌漑用水に利用しようという計画は、大干魃がおこるたびに線香花火のように燃え上がった。大正三年(一九一四)これを発電所の利権としていち早く水利権の獲得と疎水事業の許可申請の出願をしたのが、川滝村(現川之江市)の紀伊為一郎一派である。土居町の鉱山師後藤国太郎らが、当時鉱山不況で付近の銅山の坑夫の余剰労力を、トンネルエ事にふりむけようとして、紀伊氏を動かしたのが出現の動機であった。
 大正八年(一九一九)六月、徳島県側から流水、舟航、水利等に支障があるとの理由で反対運動が起こった。大正一三年(一九二四)干魃に襲われ、九月八日郡内の川之江・金生・妻鳥・中曽根・三島・中之庄・寒川・豊岡・野田・津根・小富士の関係一二町村による「宇摩郡疎水組合」を結成し、翌年事業を県に移管した。一方、徳島県側でも「銅山川分水調査会」を組織し、強力な反対運動を展開した。本県でも、「銅山川疎水事業期成同盟会」を組織して、事業実現の地歩を固めたが、交渉は難航をきわめた。
 昭和九年九月の大干魃による被害は甚大で、減収量一万八三九〇石(一石=〇・一八〇三九kl)にのぼり、愛媛県議会でも疎水計画実現のため、裁定の促進を政府に陳情した。愛媛県官民一体堅忍持久の熱意と努力は、遂に内務省及び徳島県を動かし、同一一年第一次協定が成立し、疎水トンネル工事が着手された。実に安政以来九五年間の苦闘であった(表5-6)。
 しかしながら、昭和一二年日中戦争が起こり、資材と労力不足で工事が中断した。昭和二〇年、灌漑用水の補給と発電を目的として、農業補給水量を一〇三九立方m/秒とする第二次協定が成立したが終戦となり、悲運はつきなかった。これが実現するのは、同二三年三月一日第三次協定が成立し、徳島県側の分水反対に終止符をうってからである。同二四年には、取水口第一燧道一八二m、第二燧道二六〇〇mが貫通した。脇之谷に高さ五三m、幅一四七mのコンクリート動力式ダムを築き三〇〇〇万立方mの貯水池(柳瀬ダム)が完成したのは、同二八年である。昭和三〇年から分水が開始され、宇摩郡民一〇〇年来の悲願が達成された(写真5-3)。
 その後、開田の増加や農業近代化のため柑橘畑の増加などによって、初期の年間四〇〇万トンの用水では不足し、分水強化を働きかけ、ついに早明浦ダム計画の一環として、治水とともに新たな用水を確保すべく新宮ダムを建設した。このため、柳瀬ダムからの取水が六五〇万トンに増加し、新宮ダムからも新たに一五五万トンの水が供給される(表5-7)。

表5-5 宇摩平野の水源別灌漑面積

表5-5 宇摩平野の水源別灌漑面積


表5-6 銅山川開発略史年表

表5-6 銅山川開発略史年表


表5-7 銅山川疎水用水の地域別灌漑面積

表5-7 銅山川疎水用水の地域別灌漑面積