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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

七 新居浜市の社宅街の盛衰

 社宅の立地と現況

 新居浜市では別子銅山を背景とし、金属工業・機械工業・発電・化学工業などの大企業が、同一資本系統のもとにコンビナートを形成してきた。この重化学コンビナートの形成は、新居浜の都市形成に諸方面から大きな影響を与えている。その一つの顕著な影響に膨大な社宅群の立地がある。前田社宅・山田社宅と呼ばれる両社宅群は、戦前からの住宅であるが、それらを含めて、昭和四二年当時、全体で五一二七と二一七の居室(寮とアパート)とが集中的に存在していた。化学関係が二一〇〇戸、電力関係が二一八戸と八八室、機械関係が五九九戸、そして鉱山関係が二二一〇戸(うち新居浜七四一戸、端出場一〇四九戸、東平四二〇戸)と一二九室という構成であった(資料、『日本地誌』一八巻)。その後、別子銅山閉山、社宅の老朽化、経済動向の変動に伴う企業活動の転換等によって社宅の改廃が進み、昭和六一年八月では全体で一八四五戸の住宅と四六一の居室となった(図4-37)。
 改廃された社宅の中には、化学の松の木・神郷、鉱山の沢津のように売却され、すでに新興住宅地に変わっているところや、鉱山の角野新田のように撤去された後無住の社宅が解体を待っているところがある。前田・山田の両社宅においても無住の社宅が雑草の中に取り残されたり、解体された広大な空地が跡地の再利用を待っている姿が見かけられる。

 前田・山田社宅

 現在前田社宅となっている一帯の王子川流域は、山田社宅の地域と同じく、大正初期には低湿地帯であった。大正一四年(一九二五)に星越選鉱場が建設されると、その尾鉱(鉱石を選鉱して有用鉱物粒を採取した残りの廃石)の処理を、最初は索道によって西の谷山中に造られたダムに捨てていたが、やがて山田地区と王子川流域湿地帯の埋め立てに利用することになり、サンドポンプによる尾鉱の流送とその上部に赤土を搬入することによって宅地の造成が進められた。昭和一一年九月の住友地方鉄道新居浜港線(星越駅-新居浜港駅)開通当時には、選鉱場の南の山田地区には多くの社宅が形成され、北側には住友病院が惣開から移転され、グランドも造成された。このころには、鉄道(港線)の西側、現在の前田社宅の所はまだ王子川沿いに湿地が多く残っていた。
 山田社宅は、昭和四年の一一棟一四戸の建設をきっかけに、大部分が戦前に建設されたもので、ほとんど平屋一戸建て(一部一棟二戸建)、敷地面積、家屋共に浴室つきの規模の大きい住宅であり(平均敷地一五七坪、建坪三〇・六坪、八畳・六畳二間・四畳半・二畳二間の型に近いものが多い)、現在もゆるやかな斜面に石垣と生垣に囲まれた静かな住宅群が見られる(写真4-27)。
 前田社宅が建設されるのは昭和一一年の二棟三戸が始めであるが、多くは昭和一六年から二〇年にかけて建設され、戦後も引き続いて建設が進められた。住宅の規模は山田社宅よりも小さいが、他の社宅よりは大きく、戦前のものは大部分二階造り一戸建である(一部一棟二戸建)。戦後建設されたものには六畳二間・四畳半二間、あるいは六畳二間と四畳半一間の型のものが多い(写真4-28)。
 前田社宅における昭和四六年の社宅数は四七八戸(鉱山一三〇、化学一九七、重機一〇八、共電四三)であるが、六一年には三四七戸に減少した。鉱山関係は、四七年に産業道路建設のために八戸を撤去したのと、五四年に老朽化のため一戸解体、五八年に火災による一戸解体の計一〇戸の減少であるが、化学関係の撤去が多く、八四戸に減っている。東部(図4-38)新居浜港線跡地側の取りこわし区画のほとんどは化学のもので、現在(昭和六一年八月)解体され空地となっている。産業道路に接した東西の取りこわされた区画は重機関係のもので、住友重機体育館の西の一画は解体されアパートとなっている。

 山根地区の社宅

 山根地区には住友鉱山鉄道山根駅、山根工作所、別子病院山根分院、山根配給所などの住友金属鉱山関係諸施設と、梅林・新田・山根東・山根西の各社宅があり、これらの社宅は鉱山関係(山根西の一部二九戸のみニッケル関係)のものであった。施設のうち配給所(昭和五年設立、配給所はほかに東平、筏津・惣開・四阪島・高薮・端出場・鹿森・新田・梅林にあった)の建物は現在も生協として使用している。別子病院は五二・五三年に売却され新しい住宅に生まれ変わっている。山根駅舎は解体され、線路も取りこわされているが、線路跡地は排水路が通っており跡地利用の計画はない(線路跡地のうち新居浜駅引込線跡地はサイクリングロードとして舗装利用されている)。社宅についても、その多くは撤去あるいは売却が進んでいる。

 山根社宅

 一棟二戸建と一戸建がほぼ半数ずつで、明治四〇年建設の二棟三戸のほかは、昭和四年から一六年に建設されたものがほとんどで、平均敷地九四坪、建坪二三坪で上部地区では大きい住宅である。八畳二間・六畳二間・三畳とか、六畳二間・四畳・二畳ほどの間取りのものが多い。山根西社宅の北部の三分の一は既に売却され新しい住宅地になっている。南部の三分の一が現在宅地造成され分譲中(別鉱開発株式会社による)である(写真4-29)。

 新田社宅

 今も残る赤レンガの大煙突がある生子山の北麓一帯に別子銅山記念館、大山積神社、山根グランドそして新田社宅がある。山根グランドは明治一九年(一八八六)から建設された(完成明治二一年)山根精錬所跡地である。
 新田社宅五六三戸のうち五四三戸は大正一二年から昭和三年の間に建設されたもので(二棟二〇戸は昭和一五年の建設)、典型的な平屋長屋型式の社宅が広がる地域である。一〇戸建五二棟、八戸建二棟、六戸建一棟、五戸建二棟、四戸建二棟の社宅群で、各戸は二間でタタミ数は九枚から一三・五枚程度の広さであった(写真4-30)。
 他にクラブ(公衆浴場と娯楽場)と自彊舎がある。クラブは一段高くなったところの白亜の建物で、昭和六年に従業員の厚生施設として造られ、一階は男女浴場、二階には図書室、喫茶室、囲碁・将棋などの娯楽室、売店、床屋があった。自彊舎は、明治四五年八月、旧別子風呂屋谷山形部落別子銅山病院跡に、鷲尾勘解治によって創設された青少年従業者の修養道場である。その後、東平呉木を経て、大正一五年川口新田に移設されたものである。
 国領川にかかる新田橋から東へ通じる道路を境に、北側に五つの区画、一区から四区までと六区、南側に五区とその東にクラブ、西に(新田グランド北側)自彊舎の配置になっている。五九年までに五六三戸全部が撤去されたが、道路より北側の一区から四区と六区は家屋は無住のまま残っており再開発がまたれている。南側の山根グランドに続く一画(自彊舎、五区、クラブ)は現在取りこわされ、新居浜市による山根公園整備事業として、五九年度から約十か年計画による健康運動施設を主体とした整備を進めている。完成すれば国領川河川敷のスポーツ公園と並ぶ健康運動公園となる。すでに総合体育館・多目的グランド・駐車場などは完成し、引き続いてプール・テニスコートなどの整備が進められている。
 なお、山根公園は、六一年一〇月九日に、天皇陛下御在位六〇年記念「健康運動公園」に指定された。
 梅林社宅の七〇戸はすべて昭和二四年に造られたもので、全部二戸建三五棟からなり、各戸とも六畳・四畳半・三畳の間取りである。五九年までにすべて撤去され、現在は家屋も取りこわされ跡地のみとなっている。





図4-37 住友各社の社宅の分布

図4-37 住友各社の社宅の分布


図4-38 新居浜市前田社宅の現況

図4-38 新居浜市前田社宅の現況