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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 石鎚山と瓶ヶ森

 石鎚山の観光開発

 石鎚山は古くから山岳信仰の山であったが、江戸時代中期ころから一般庶民の登拝が盛んになり、各地に石鎚講がつくられた。現在も石鎚信仰にもとづく登山は活発で、七月一日からのお山市期間中は、大勢の信者が石鎚山を訪れる。
 こうした信仰による登山のほか、戦後はスポーツやレジャーとし石鎚山に登る人々も増加し、信仰の山も大きく変貌してきた。昭和ニ八年には第八回国民休育人会の登山競技が、石鎚山系を舞台にして行われた。また、三〇年には石鎚山を中心とする一万六八三haの地域が国定公園に指定された。これが石鎚国定公園で、全面積のうち愛媛県か七三%を占めている。しかし、この当時はまだ観光行政が未発達であったため、西条市では国定公園の指定を契機として、観光資源の開発と保護育成・有効利用などに積極的に取り組むことになった。
 昭和四三年に開通したロープウェイは、石鎚山系への観光客誘致の拡大に大きな役割を果たした。同年の石鎚山の登山者は八万人であったが、四五年には石鎚スカイラインの開通も作用して、一挙に一三万人に増加した。さらに五〇年には二二万人、五六年には二七万人と着実に増加した。ロープウェイの利用客は、はじめは年間一三万人余であったが、四九年に二〇万人を超え、五七年には三五万八〇〇〇人余に達した。
 この間、四四年には成就社周辺に遊歩道を作り、さらに五〇年から五か年計画宮石鎚ピクニック園地整備事業に着手した。石鎚ピクニック園地はロープウェイ山頂成就駅周辺に位置し、キャンプ場や花木園・水呑場・ベンチなどが設置された。
 石鎚ピクニック園地のスキー場は、五三年冬にオープンしたが、雪不足のため一冬に四〇日ほどしかスキーができなかった。しかし、五五年冬に秋川達夫(現石鎚登山ロープウェイ社支配人)の尽力によってスノーマシンが導入された結果、安定した積雪が確保できるスキー場として知られるようになった(図3―37)。五七年には一二月一五日から翌年三月二六日まで、連続一〇二日間にわたってスキー可能な日が続き、約三万四〇〇〇人のスキー客等が訪れた。
 しかし、ピクニック園地のスキー場はゲレンデの長さが約一九〇mと短く、傾斜も緩かなため、本格的なスキー場の建設が望まれた。そのため、小松町は石鎚登山ロープウェイ㈱と協力して、石鎚山成就展望台(標高一四一四m)の北東側斜面に上・中級者用ゲレンデを開設した。これが六〇年一二月にオープンした石鎚山成就スキー場で、中級者用ゲレンデは長さ六九〇m、最大斜度二六度、上級者用ゲレンデは長さ三四〇m、最大斜度三〇度である(写3―29)。
 スキー場には二台のリフトが設けられ、輸送能力は毎時一九二〇人である。このリフトは夏季には成就に向かう参拝客の足としても利川されている。スキーシ―ズンには県外からも車で訪れる客が多く、下谷駅ではロープウェイ乗車待ちの長い列ができることもある。また、正月の初詣に訪れる人が増加し、一月のロープウェイ利用客は七・八月に次いで多い。
 ロープウェイの利用客が増加すると共に、下谷地区では駐車場の整備が進められ、加茂川右岸に作られた大駐車場などで約八〇〇台が収容できる。また、宿泊施設は成就社境内の旅館(白石小屋・玉屋・日之出屋)のほか、頂上小屋・二の鎖小屋がある。二の鎖小屋は旧石鎚村黒川(現小松町)の竹村仁市が、大正年代にアメ湯売場として建てたもので、登山愛好家の冬の合宿所としても使われていた。

 瓶ヶ森

 瓶ケ森(標高一八九七m)は西条市と高知県土佐郡本川村の境界にあり石鎚国定公園に属する県内第三位の高峰である。石鎚山と共に古くから山岳信仰の地となり、山頂の男山側には大和から勧請されたという石土蔵王権現がある。また、瓶ヶ森に隣接する子持権現山(標高一六七八m)には長い鎖がかけられ、瓶ヶ森信者の行場となっている。
 瓶ヶ森の山頂付近は、広さ五〇~七〇haの広大なササ原で、氷見二千石原とよばれる。このササ原は石鎚山の岩峰と対照的で、白骨林のそびえる風景は瓶ヶ森の代表的な景観である。
 瓶ヶ森からは、シラサ峠・土小屋を経て石鎚山に至る縦走路が通じており、石鎚山系の代表的な登山コースである。また、瓶ヶ森から東へはさらに西黒森・伊予富士・寒風山を経て笹ヶ峰に至る縦走路が通じている。
 石鎚山から瓶ヶ森に至る地域は県内有数の山岳地帯であるが、昭和四三年に高知営林局が瓶ヶ森林道の建設に着手した。この林道は土小屋―瓶ヶ森駐車場間(九・八㎞)が四七年に開通し、有料林道として一般にも開放された。瓶ヶ森駐車場は氷見二千石原の麓に設けられ、約二〇〇台の車を収容できる。瓶ヶ森林道は五七年には一万四〇〇〇台余りの利用者があったが、瓶ヶ森駐車場から寒風山トンネル南口に至る区間(一六・七㎞)は、営林局・営林署の事業専用道路となっている。
 瓶ケ森への登山口は西条市西之川と東之川にあり、西之川までは定期バスが通じている。西之川登山道を登ると、常住・鳥越を経て高度差約五〇〇mの急坂になり、それを登りつめると氷見二千石原のササ原に至る。その一端に瓶壺とよぶ天然の甌穴があり、瓶ケ森の名はこの瓶壺に由来するという(写真3―30)。
 瓶ケ森の山小屋には白石小屋と瓶ケ森ヒュッテがあり、キャンプ場も設けられている。白石小屋の起源は、昭和一〇年に瓶ヶ森避難小屋として建てられたものである。また瓶ヶ森ヒュッテは、昭和二八年に開かれた第八回国民体育大会の際に建てられた県営ヒュッテが母体で、三七年に愛媛県山岳連盟の所有となった。

 笹ヶ峰

 笹ヶ峰(標高一八六〇m)は、西条市の南東端にある県内第四位の高峰で、石鎚国定公園に属する。笹ヶ峰も山岳信仰の山として開かれ、頂上には新居浜市大生院にある正法寺の石鎚権現が祭られている。毎年七月の第三金曜日から日曜日にかけて、大生院地区の信者たちによって笹ヶ峰のお山開きが行われる。
 大生院からの登山道は、がっては大野山から黒森・沓掛山・西山越を経て笹ヶ峰に至るものであった。昭和初期には西条市東部の丸野から熊宮峠を経て笹ヶ峰に至るコースが開かれ、笹ヶ峰の登山ブームがおきた。しかし、笹ヶ峰登山が大きな変化を受けたのは、現在の国道一九四号の開通と、下津池から吉居に通じる古居林道の開通(昭和二六年)である。三二年三月には中之池まで定期バスが開通し、下津池が笹ヶ峰の登山基地となった。また、マイカーの普及により、吉居林道を車で登る登山客も増え、吉居の登山口から丸山荘までは約一時間で登れるようになった。
 丸山荘は旧加茂村(現西条市)の高橋吉次郎が、昭和八年に笹ヶ峰の丸山(標高一五四五m)の西南に建てた山小屋がその前身である。その後二一年に伊藤亮張が継承し、二六年に増築して収容人員約二五〇人の木造二階建て山小屋となった。なお、三七年には丸山荘の近くに笹山荘(伊藤広義経営)が建てられたが、四八年七月に火災で焼失した。
 昭和二六年に丸山周辺にスキー場が開かれると、東予地方の唯一のスキー場として大勢のスキー客が訪れるようになった。しかし、五五年に石鎚ピクニック園のスキー場が開設すると、笹ヶ峰を訪れる冬季の登山客は激減した。現在は、夏休みに西条市や新居浜市の小・中学校が実施する学校登山の場としてよく利用されている。
 西条市では、笹ヶ峰一帯の観光開発をさらに推進するため、昭和五四年に策定した西条市レクリェーション開発構想の一つとして、「笹ヶ峰レクリェーションの森」建設にのり出した。六〇年八月に出された基本計画によると、スキー場・リフト・キャンプ場・バンガローなどを設置し、スキーシーズンで年間四万六〇〇〇人、その他のグリーンシーズンで同六万四〇〇〇人の客を見込んでいる。
 しかし、一部の市民から開発反対の声が出ており、六一年一一月に提出された環境アセスメント(環境影響評価)報告書は開発規模の縮小を提言した。そのため、当初は六二年冬に一部施設の供用を開始する予定であったが、実現はかなり遅れる見込である。

図3-37 石鎚ピクニック園スキー場と美川スキー場の積雪量の比較

図3-37 石鎚ピクニック園スキー場と美川スキー場の積雪量の比較