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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

九 西条平野の道路と鉄道

 予土最短の国道一九四号

 四国の太平洋岸と瀬戸内海側を最短距離で結ぶ国道一九四号は、愛媛県側三一・一四㎞、高知県側八四・六㎞の計一一五・七四㎞で、昭和三九年の寒風山トンネルの開通をもって明治中期以来の予土連絡の念願がかなった。明治三一年(一八九八)には当時の加茂村が県道昇格運動をおこしている。また、大正元年(一九一二)には愛媛水力電気㈱が加茂村藤之石山の字下津池に発電所を設置するため工事資材運搬道路として下津池から東宮、神戸村境に至る里道の改修許可申請書が加茂村から県知事に提出された。それに添附した理由書には次のようにある。

 本村は新居郡西條町より約弐里、加茂川の上流僻隔の地にありと雖も、川に添ふて高知県に通ずる狭隘なる、古来よりの路線ありて高知に達す。実に愛媛県海岸より高知県海岸へ横断する最近距離とす。然るに土地凹凸崎嶇として平坦の地の如きは実に僅少にして、行旅は難み、運搬殊に難路とす。本村の如きは面積二万三千有余町歩の山林を有し、土地肥沃にして植林に適す。殊に高知県土佐郡本川村、同吾川郡清水村の如きも我村より遙に以上の山林面積を有し、今や日進月歩の勢をけて造林を為し、近時木材の輸出頻繁なれ共、人馬を労するの外更になし。原価僅かの物と雖も搬費為に嵩みて高価のものとなり、故に夥多の物産ありと雖も其利を得ること甚だ少し。(以下略)」(『西條市誌』)

 このように林産資源開発への期待が述べられていた。しかし、この計画は路線争いや反対者の出現で中断した。第二次世界大戦末期には四国横断の最短軍用道路として二〇㎞余を完成させたが、実用には程遠い内容であった。
 戦後は、それまでの予土横断道路から四国中央産業開発道路と呼び方を改め、二五年から建設省の実地調査がなされた。ニ九年には上要地方道として取り上げられ、同年末には県道に認定された。三七年政令によりニ級国道高知・西条線(路線番号一九四号)として指定され、四〇年には一般国道一九四号となった。この路線は、高知県及び愛媛県によって管理されていたが、県境付近の寒風山地区は、地形が急峻な山岳道路で幅員が狭く、急勾配で小屈曲が連続する悪路であるうえ、県境の寒風山トンネル(九四五m)は標高一一一〇mの位置にあり、冬期は通行が不能となる日が多い。このため、昭和四七年度から高知県土佐郡本川村川又から西条市川来須に至る現道延長約三〇㎞の間の調査を建設省四国地方建設局で始め、五二年度までに新寒風山トンネル(四一三五m)を含むこの区間のルートが固まり、五六年から新寒風山トンネル(標高七六〇~六七〇m)の工事に着手した。しかし、五七年一〇月に西条市藤之石で発生した地滑りで国道及びトンネル工事用取り付け道路などが崩落した。そのため約ニ年間も通行不能となった。建設省では、一〇〇〇mもの新道を開いて復旧にあたると共に、新寒風山トンネルの計画の見直しを発表した。それによると新ルートは西条市川来須から本川村一ノ谷までの五四〇〇mで旧計画よりも標高が下がり川来須側五二〇m、一ノ谷側七一〇mで、トンネル出口付近での積雪の被害はほとんど受けない見込みである。また、旧計画が四本のトンネルだったのに比べ一本としたため地滑り、落石などの危険性が低くなる。所要時間も現在の寒風山トンネルを通ると両区間六〇分かかるのが約一〇分、旧計画より約五分短縮される。トンネルの勾配は三・四%と長大トンネルとしては日本では例のない急勾配となるほか、長さ五・四㎞は完成すると自動車用としては四国で最長、全国でも屈指のものとなる。総工事費は約二〇〇億円で完成には八~一五年はかかる見込みで六一年から用地買収にはいった(写真3―27)。
 一九四号は、瀬戸内海と南四国を最短距離で結ぶルートとして、地域経済に重要な役割を果たしている。これまでは本材運搬車両が多く、産業道路としての性格が強かったが、新寒風山トンネルを含め全線の整備が終わると、西条市―高知市間が現在の三時間半から二時間に短縮されるとあって、本県の西条市・新居浜市・東予市・小松町・丹原町と高知県の五市町村で結成する国道一九四号改良促進期成同盟会は大きな期待を抱いている。なお、今日までに順次改築が進み六〇年度には延長一〇二・八㎞、改良率五六・四%、舗装率は五二・九%となっている。

 東予有料道路

 県道壬生川新居浜野田線のうち西条市蛭子―樋ノロ間三・五㎞は、昭和四八年に着工し、五三年五月に供用開始をみた東予有料道路で、愛媛県道路公社が管理する石鎚スカイライン、西海有料道路に次ぐ三番目の有料道路である。途中の加茂川に架かる五五〇mの新加茂川大橋は、県下最長の道路橋である。東予市・西条市・新居浜市・土居町・伊予三島市の東予四市一町の臨海地帯を結ぶ県道壬牛川新居浜野田線の一部をなす幹線道路であることと、加茂川に架かる数少ない道路のため開通以来の通行台数は、開通年の五三年度に九四万台を記録し、翌五四年度には一〇〇万台を突破し、六〇年度には一三四万台、一日平均三六六六台に達した(表3―29・写真3―28)。

 鉄道建設の遅れた西条・壬生川

 『愛媛の国鉄五〇年の歩み』によれば、多度津に建設事務所が設立され、政府による四国の鉄道建設が緒についてから四年の歳月を経て、県境鳥越トンネルを抜け、川之江町に達したのは大正五年(一九一六)四月である。愛媛に初めての国鉄の列車は汽笛を力強く響かせて官民多数の歓喜に応えた。以来平坦線を西に延びた国鉄は大正六年九月三島町まで開通した。しかし、第一次世界大戦の影響で鉄材をはじめとする資材と人工賃が高騰した。それでも三島以西の敷設は着工が早くその影響は比較的少なく一、ニ工区の土居村までが、ニ年後の大正八年九月に開通の運びとなった。
 土居―西条間(二五・七㎞)は四工区に分けられ、それぞれ別の業者が請け負った。資材労金の高騰により工事が遅々としてはかどらず、業者は鉄道院に対してたびたび金額の増額を申請した。当局も前後三回にわたって追加金をだし工事の遂行を督励したが、それでも損失に耐えられなくなった第三工区の赤沢組と、第六工区の山地組は契約を放棄して引き揚げてしまった。第三工区の方は第四工区請け負いの菱川組が引き継いで工事を継続したが、第六工区中萩―西条間の工事は三分の一にも達しないまま大正八年三月ころから放置されていた。鉄道院では工事を継続するべく六月に再入札を行い、京都の西松組が落札して八月から着工することになった。こうして路盤工事は軌道に乗り、第四工区の大正八年九月竣工を皮切りに、最後の第六工区が九年一一月に竣工した。軌条、枕木等の敷設は鉄道院の直営工事であるが、膨張する経費のため年度末開通も危ぶまれる状態となった。一方、停車場建物は多喜浜・新居浜に続いて一〇年五月に西条駅も竣工した。
 伊予三島駅が開業してから三年一〇か月、伊予土居駅が開業してから一年一〇か月と、予定より半年余り遅れて大正一〇年(一九二一)六月ようやく伊予西条駅の開業をみることができた。なお、中萩駅は駅舎の工事が遅れたため駅の開業に間に合わず、営業開始は九月になった。
 伊予西条駅開業と同時に西条機関庫と西条保線区も設置された。創立当時の機関車配置は、六〇形式、二七〇形式各一両、五〇〇形式、七〇〇形式各二両のタンク機関車と、五四〇〇形式テンダー機関車一〇両である。四国に初めて木製のボギー客車がおめみえしたのも伊予西条まで開通のときであった。
 大止九年(一九二〇)一月、政府は物価騰貴のため新線建設費を訂正した。西条―壬生川間(一二・五㎞)の工事は松山線として西松組の請け負いで、西条開通を待たず大正九年一月に工事にかかった。この区間は平坦線であるが、幅三〇二mの加茂川と幅二五八mの中山川の二つの大きな川があり、この鉄橋工事がもっとも難関とされた。加茂川橋梁の橋台は西松組が請け負い、橋台上の工事は全部直営で行って約二年の歳月を要し、大正一一年一二月にようやく竣工した。中山川橋梁も同じく難工事で、壬生川までの開通予定は再三変更されて大幅に遅れたのである。その中山川橋梁は大正二一年四月末に完成し、五月一日に伊予西条―壬生川間の開通式を行った。
 千生川―桜井間(一一㎞)の工事も同じ西松組が請け負って大正一〇年九月に着工していたが、国安村と三芳村の境界にある天井川の大明神川の川の下にトンネル(六四m)を掘削して鉄道を通す工事では大雨で大明神川が決壊し、また楠河村の永納山トンネル(四三〇・五m)工事では崩壊事故で死者一名を出し、工事は大幅に遅れた。それでも伊予三芳駅は大正一二年一〇月、伊予桜井駅は同年一二月にそれぞれ営業を開始し、今治駅には大正一三年ニ月に達した。なお、大正一二年から讃岐線(多度津―川之江)と西条線(川之江―伊予西条)を合わせて「讃予線」と称したが、山陽線と発音が紛らわしいのと、昭和二年に松山まで延びたこともあって、同五年から「予讃線」と改称された。
 その後、当地方で開設された駅は、昭和四年七月に伊予西条、伊予小松駅の中間で石鎚山のお山開きの期間に限り石鎚山駅が仮設され、同七年からは利用者が多いことが認められて常設駅となった。また、昭和三六年には伊予氷見駅が、さらに三八年には伊予小松―壬生川間に玉之江駅が地元民の熱望によって気動車旅客駅として開設され、朝夕の通勤・通学者の利用の便をはかっている。
 この地方の拠点である西条駅の利用状況をみると、昭和一五年の乗客数は六六・二万人であったが、三〇年には九九・四万人、四〇年がピークで一一一・八万人に達し、四五年八一・五万人、五〇年七二・六万人、五五年には五〇・二万人に減り、一五年当時より減少した。貨物輸送も一五年ころは発着合わせて一・五~二・五万トンであったが、二〇年代後半には約五万トンに増え、四〇年代初めがピークで約六~七万トンとなった。だが五〇年代に入り、民間輸送機関の充実発達に伴って乗客同様減少の一途をたどり、五〇年代半ばには約三万トンになっている。なお、貨物の取り扱いは五七年一一月をもって廃止している。六〇年の一日当たりの乗車人員は一二六八人で、四国では二八番目となっている(表3―30参照)。











表3-29 東予有料道路の利用状況

表3-29 東予有料道路の利用状況


表3-30 予讃本線川之江~菊間間のあゆみ(1)

表3-30 予讃本線川之江~菊間間のあゆみ(1)


表3-30 予讃本線川之江~菊間間のあゆみ(2)

表3-30 予讃本線川之江~菊間間のあゆみ(2)