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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

八 西条港の発展

 西条港のおいたち

 西条港の起源は、江戸時代初期に藩主一柳氏によって小港が本陣川の河口に築造されたことにはじまるとされている。寛永一三年(一六三六)一柳直重が西条藩に入封したが、その際陣屋を築くにあたって加茂川の一分流を濠として利用した。濠の余水を流すために海岸まで開削し、この開削部分を本陣川とし、この河口を港としたのであるが、当時は港といっても海浜の漁民が漁船の停泊場として利用するにすぎないものであった(表3―27)。
 西条市内にはこれ以外にも市塚港や新兵衛港などがあり、斎明天皇の七年(六六一)に熟田津に船を寄せ石湯に行宮したとする地を、西条市安知生の石湯八幡宮と関連づける説もあるなど、港津に関する歴史には古いものがある。藩政時代には藩主の入封や長州出兵などに際しては市塚港が利用され、また、石鎚山参拝に来る中国地方の人々は氷見の新兵衛港を多く利用するなど、ながらく市塚・新兵衛両河口港が西条の中心的港湾として機能していた。
 しかし、西条にあった港は、どれをとっても河口に位置しているうえ、前面に広人な遠浅の海が広かっていたため、船舶の寄港は困難であり、内海航路から取り残されてしまうことが多かった。明治時代に入り、瀬戸内海に多くの定期航路が開かれるようになると、この傾向は一段と強まり、新居浜地方が良港に恵まれ急速に興隆していったのに対して、西条地方は瀬戸内海の海上交通路からまったく隔絶されたところとなった。明治末期になり住友汽船部の四阪丸、木津川丸や東予運輸の東予丸など一〇〇トン級の汽船が西条港へ寄港するようになったが、これも名ばかりで遠浅のため港内へは入れず、沖合一〇〇〇m付近に停泊するにすぎなかった。このため乗り降りする人々は干潟を人力車で越え、さらに遠浅の海をはしけで渡らなければならなかった(写真3―26)。天候の悪い時は、汽船が西条港港沖に近寄ることは危険であったため、通過することもしばしばあった。このような時は、新居浜や今治で乗り降りしなければならず、西条の人々にとっては非常に不便な状況であった。大正一〇年(一九二一)伊予西条駅まで鉄道が開通したため、西条の持っていた交通上の悩みは大きく解決され、町勢は次第に進展していくようになった。

 西条港発展の過程

 西条港の機能を高めるために本格的な改修が行われるようになったのは、㈱倉敷絹織が西条町に工場を建設することを決定し、港湾改修の必要に迫られたことによる。第一期改修工事は昭和九年に起工され、総工費一二万円をもって施工された。工事の内容は西条港を浚渫し、船舶の入港・接岸を容易にするとともに、浚渫土砂をもって工場用地約四〇万平方mを造成し、併せて第一号物掲げ場及び第二号護岸を築造しようとするものであった。
 第一期工事は一〇年に竣工したが、これによって西条の産業基盤はかなり強固なものとなっていった。同一四年には電気事業統制のため創設された日本発送電㈱が、西条港をはさんで倉敷絹織の対岸を埋め立てて西条火力発電所を建設することを決め、用地の造成に着手した。これと併行して西突堤の一部を改修するほか、港内の泊地を幅六〇〇mに拡張するとともに第三護岸(延長三三一m)を築造した。また、これに接する延長一三四〇mの防波堤と、第ニ護岸に接続する延長七二四mの東防波堤も築造された。この結果、西条港は港の機能を飛躍的に高め、愛媛県における重要な港の一つとして成長していく基礎を確立した。港湾が整備されたのに伴って入港船舶数も増加し、一〇年には三二一五隻(総トン数五六万四三二〇トン)であったものが、一四年には七五一三隻となり総トン数は一〇〇万トンを超え、乗降人員も一七年には百万人に達した(表3―28)。しかし、第二次世界大戦の勃発という社会情勢の人きな変化により、西条港は維持補修すらできなくなり、終戦時にはかつての西条港の面影さえに見ることのできない状況に陥っていた。
 昭和二三~二五年にかけて国庫補助一〇二〇万円を投じ航路の拡張及び港内の浚渫を行った。しかし、急増する海上交通に対応するためには根本的に港湾を改修することが必要であった。このため西条市では二六年に「西条港港湾修築計画調査委員会」を組織し、抜本的な港湾改修計画を策定した。これによると、総工費二億五四四二万円を投じて、①突堤内の全域を浚渫し、航路を拡張する、②岸壁を改修し内港を築造するとともに、貯木場を設ける、③浮桟橋を架設し、船舶の接岸を容易にすることなどが計画された。
 西条港の場合、連続的に大量の土砂が流人することや前面に遠浅の海が広がっていることなどのため、航路を確保し港湾としての機能を維持していくためには多大の努力を払う必要があった。二五年に修築工事が終了した後も、小規模ながら継続的に浚渫作業が続けられていたが、三七年になって港湾整備緊急措置法に基づいて「港湾整備五ヶ年計画」の適用を受けることになった。この直後、「新産業都市建設促進法」が制定されたため、従来の港湾整備計画を根本的に見直す必要に迫られ、隣接する壬生川町域にもまたがる大港湾「東予港」を建設しようとする計画が浮上し、西条港についても工業港区と商業港区を分離しようとする港湾整備行画が策定された。

 重要港湾「東予港」(西条地区)のすがた

 「新産業都市建設促進法」は、我が国の経済が世界にも例をみないほど急速に成長し続けていた昭和三七年に、産業や人口が過度に大都市に集中することを防ぎ、大都市と地方との格差を是正する目的で制定されたものであり、この法律に基づいて全国の一五地域が新産業都市に指定された。愛媛県では三九年に、東予地方の六市七町三村に及ぶ地域が東予新産業都市に指定されるとともに、同都市における中核的港湾の建設を目指して、西条港と壬生川港を含む港域が重要港湾「東予港」に指定された。その後、東予港(西条地区)では、後背地域で新産業都市の建設が着実に建設されるのと歩調を合わせて、港湾整備が進められるようになった。四〇年に水深五・五mの公共岸壁の築造に着工したのをはじめ、四六年には、船屋地区に住友金属鉱山㈱東予工場が完成したのに伴って、水深四・五mの専用けい船岸壁も完成した。さらに五○年には、東予港(西条地区)の今後の発展にとってきわめて大きな意義を持つとされる西条市臨海部工業開発に伴う土地造成事業が開始された。この造成地は旧西条港の東に連なる遠浅海岸を埋め立てて、工場用地を造成しようとするもので、一号地、二号地(西ひうち)からなっており、総面積一七七haに及ぶ二号地は五五年に完成した。そして、五七年には二号地東岸のいわゆる西条新港に二〇〇〇トン級の貨物船が接岸できる水深五・五mの公共埠頭(五バース)も完成した。六二年現在、この二号地には三菱電機㈱西条IC工場、真鍋造機、愛媛サニタリープロダクツなど六一の企業が立地(又は立地予定)しているほか、西条市中高年齢労働者福祉センターや太陽光発電実験プラントなどの施設も見られ、西条の新しい姿が見られる場所になっている。
 このように港湾整備が着実に進行するなかで、東予港(西条地区)に入港する船舶も徐々に大型化していき、五九年には総トン数、一〇〇万トンを超え、海上出入貨物量は一六九万八六八四トンに達した。しかし、今後西条市の臨海部における産業活動が一層活発化することを想定したとき、本港が東予地における物資流通の一拠点として機能するためには、港湾施設・設備をより一層充実していくことが求められている。西条市では、五六年に「西条市総合趾画」を策定したが、この策定にあたってば港湾整備に関して①旧西条港の四国電力側に水深五・五mの埠頭を三バース建設すること、②一号埋め立て地と二号埋め立て地にはさまれたいわゆる西条新港に、一万トン級貨物船を対象とした水深九mの公共埠頭並びに関連施設の建設を促進すること、③フェリー及び高速艇の就航について調査研究することなどを提言し、海上交通の大型化、スピード化に対応しようとしている。






表3-27 西条港及び東予港(西条地区)関係年表

表3-27 西条港及び東予港(西条地区)関係年表


表3-28 西条港及び東予港(西条地区)における入港船舶数・総トン数、船舶乗降人員及び海上出入貨物量の推移

表3-28 西条港及び東予港(西条地区)における入港船舶数・総トン数、船舶乗降人員及び海上出入貨物量の推移