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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

九 丹原と旧吉岡新町

 松山藩の在町

 東予市新町(旧吉岡村新町)の円照寺寺伝に「松山藩主久松定行、新領主となるや新鋭の意気を以て産業をおこし、経済をおさむ、すなわち領内に三個の市場を設け、各個別に、松・竹・梅を植えしめ、ちなみて名称を付す。是において住民蝟集して商勢俄に隆盛におもむけり。」とある。
 三個の市場とは現在の丹原町丹原、東予市新町、北条市辻町(又は柳原町)で町域を囲んで植えた植生によって丹原は「松の町」、新町は「竹の町」、北条は「梅の町」と呼ばれた。北条市辻町については越智郡大西町新町の説もあるが寛政二年(一七九〇)の松山藩在町一〇か所にも入っていないので「梅の町」は北条辻町であろう。
 物資の流通と商業活動を奨励するため宅地を地租免として保護したが商売や住居、その他にかかおる在町掟が定められていた。

 在町丹原町

 『周布郡大手鑑』には正保元年(一六四四)代官の宮川半助・木本善右衛門に命じて今井村・池田村・願連寺村に接した原所に長さ四町(上町二町、下町二町)奥ゆき六〇間の新しい在町づくりをしたとある。正保四年(一六四七)に町域の周囲に松を植え並木をつくり、また正保三年には松山藩お茶屋が建てられたとあるから三~四年間で町並みが整備されたものである。
 この在町のあたりは「丹原」の地名が示すように砂礫の原野であり、今でも町の南はずれには当時取り除いた礎石の集積場や、小高い墓地の造成に使ったところが残っている。藩はこのような土地柄の場所を免租地として損失のでることはなかったし、更に改庄屋格の宇左衛門により八町二反余の新畑を開かせたとあるから「新田在町」といえるものであった(図2―38)。
 上町・下町の境は町の中央部の橋のあったところで、現在の「そごうマート丹原店」前の交差点で、庄屋屋敷や商売の神として松山東雲神社から分神した恵比須神社がある。そこから西へ愛媛相互銀行丹原支店までが上町、東へは消防倉庫のある駐車場あたりまでが下町であった。
 用水は十分ではなく、地下水面も四~五mで、井戸数か所を掘り、また防火用水を兼ねて道路の両側に「松並溝」(幅三尺六寸)がつくられたが現在の道路拡張が容易であったのも、その溝を暗渠にできたからである(図2―39)。
 周布郡の代官所は正保一年(一六四四)まで西の町はずれの北田野福岡八幡社の南にあり、それが貞享四年(一六八七)から文政二年(一八一九)まで現在の田野小学校付近に移った。これは田野代官所と呼ばれるものである。そして文政二年から明治二年(一八六九)までは、桑村郡の新町代官所と統合されて久妙寺村御陣屋にある多田代官所に移った。なお、それまで川之江代官所が支配していた松山藩預り天領(桑村郡一〇か村、越智郡八か村)も合わせて支配することになった。これらの代官所が丹原町の周辺にあったことは在町の繁栄とも深くかかわったことである(図2―40)。

 丹原町を中心とする道路網

 周桑平野のほぼ中央部に位置する在町であり、各代官所も近隣にあったので旧道は丹原町に集中している。まず南西からくる「松山道」は宝ヶ口から石経・長野・田野を経て丹原町の町筋中央道となり、願連寺から東に向かって下り三津屋街道となり壬生川浦に至った。「代官道」は同じく宝ヶ口から来見、兼久の山麓を通り多田陣屋に至り、吉岡新町で太政官道と合して今治方面に通じ、また、その支線は実報寺越や椎木越を経て越智郡と結ばれていた(図2―40)。
 町は太政官道にも近く、また松山金毘羅道へは中山川を渡る二道で結ばれており、その一つは石鎚登山道として「お山道」と呼ばれていた。
 新に設置された三つの在町の格付は丹原町(松の町)が上座位、新町(竹の町)が中座位、北条辻町(梅の町)が末座位とされたが、実力的には新町が第一といわれた。しかし新町が明治に入ると急速に衰えたのは周桑郡商圏の中心に位置し、流通網の集中した丹原と対比されるものである。

 丹原町商店街の発展と都市計画

 寛永二一年(一六四四)の「丹原新町申付之覚書」によると新しく開かれた在町の戸数は五二軒で、一軒も空屋にしてはならないとか、塩、いわし、他の小物類を村内で掛け売りしてはならないとか、他郡より来ての商売禁止等が定められ保護が加えられている。長さ四町、幅六〇間の在町区画は間口四間の短ざく型に区分されそこに商家が並んでいた。在町域を松並木で囲んだのは免租地や商売町の区分をより明確にすることや、他の在町との格付、災害防止等のためであったであろう。
 上町・下町の商勢は上町の方が盛んで、明治末期に町内にあった農家二八戸のうち上町には四戸しかなく、あとは下町に商店と混在していた。これは上町が各時代の代官所に近く、それに至る旧道が上町西端に集中していたことや、宅地として適していたことによるものである。
 明治に入って商店街は在町区画から拡大していったが、その主な方向は上町から西への発展であった。西隣の今井は他の四村と一緒に丹原町に合併され明治二二年(一八八九)に福岡村となり、また同三〇年に郡役所が丹原に置かれたことなどで市街地化がすすみ、裏町筋も形成された。昭和六〇年の丹原町商店数は三一五軒で、うち中央通り筋に約一四〇軒、そのうち旧在町範囲に約六六軒である(表2―38)(写真2―33)。
 丹原町の昭和六〇年の人口は一万四七七〇人で昭和三五年の一万八四七九人と比べて漸減の傾向にある。丹原商店街の商圏人口は全町人口とほぼ一致し、東予市の吉田・吉岡地区の一部を合しても二万人に満たない。
 昭和五七年の町民の商品購入場所調査をみると最寄品(食品・雑貨)は八〇%以上が町内商店であるが、衣料品、文化品、身辺細貨は町内購入が約五〇%で(贈答品では約七〇%が域外)他は、東予市・今治市・松山市へ出向いており、特に東予市の吸引力が強まってきている。これらの傾向は中心商店街に影響を与えてきており、特に旧在町の下町では五四戸のうち二八戸は民家ないし倉庫、空屋となっている。自動車時代における商店街の生命である駐車場問題や、専門店の充実など取り組むべき課題は多い(図2―39)。
 都市計画としては中央通り一帯が近隣商店街、それを取りまくのが住居地域、そして県道壬生川丹原線を越えて工業地域(富田鉄工・寺町鉄工・崎田鉄工など)となっている。
 丹原代官所や周桑郡役所の在地以来周桑郡関係官公庁(西条地方局丹原出張所、丹原土木事務所、農林水産省農業水利事業所支所、食糧事務所出張所、県経済農協連事務所、周桑農協、丹原高校など)が集まっている有利さに加えて内陸型工業誘致や、県道壬生川丹原線沿線の活用等が丹原町の活性化に連なるものである(図2―41)(写真2―34)。

 東予市新町

 寛永一八年(一六四一)に松山藩が代官長谷七郎兵衛に命じて桑村郡の上市村、新市村のほぼ中間の「千町が原」に開かせた在町であり、丹原町より三年早い開町で、その開町の概要は次のようである。

 新田一八町六反八畝、飛地九畝のうち、六町五反三畝を宅地とし、それが代官所、庄屋屋敷、商家にあてられた免租地で、残りので一ニ町余が耕作された。
 町筋は東西方向が約二〇〇m、南北方向か約五〇〇mのΓ型で、東西方向は横町と呼ばれたが桑村郡代官所(一六四一~一八一九)や、町民の菩提寺である円照寺もあり、公的には重要であった。宅地割は間口四間、奥行三七・五間の短柵型に区切られ、町筋の後に大明神川より引水した用水路が設けられており、町域は竹を植えて他と区分され、「竹の町」と呼ばれた。この竹林は戦前に「蔭切り」奨励のため伐採され、今は一部が名残をとどめている(写真2―35)。

 新町の開かれた場所は大明神川扇状地のほぼ扇央部に近く、高度も二〇~三〇m等高線の間にあって、古戦場といわれる千町ヶ原の原野であり、耕地をつぶさない桑村郡の中央部というのが選ばれた第一の条件で、用水条件などはほとんど無視されていた。それで町筋の後に細い用水路を入れたり、共同井戸六~七か所を掘ったりしたが、地下水面が深く一五m前後も掘り下げなければならなかった。町民の風呂も共同風呂で、ぬか袋を使用した後の汚水は肥料として散水したといわれるほどであった。

 新町の商業の盛衰

 新町の在町としての格は中座位とされたが商業の実勢は第一であったといわれ、「新町へ行けば何でも揃う」と言い伝えられている。記録をとどめないが町の北方約七〇〇mにある甲賀八幡神社への参道は町民の独力でつけられたといわれ、文政・安政期の奉献玉垣には岡田治右衛門・岡田宗平・油屋卯助・大蔵屋仁兵衛・櫛部龍之助・柴屋才治などの地元有力商人や、取引のあった今治・西条・大阪・京都などの豪商ら約一七〇人におよぶものの名が刻まれており、その盛況をしのぶことができる。
 断片的記録や古老の記憶による盛衰の様子は次のようなものである。

一、宝暦一〇年(一七六〇)の記録では家数九七軒、人口五一九人。丹原町頭初の五二戸を上回るものである。
一、明治九年(一八七六)の戸籍台帳による職業、全戸数一六五戸、商業三三戸、雑業七五戸、工業一五戸、農業四三戸。雑業七五戸は、めん類(うどん、そうめん)、菓子類(まんじゅう、飴、駄菓子類)の製造と行商、農・商・工の兼業、日雇、など小規模で不定期性が強く、明治期に入っての新町の急激な衰退を示しているといえる。製造・販売については大工・木工の町といわれ家具・仏具・建具商が多い。又在部の農・山村商圏に対する駄菓子類の製造・販売・行商が多く、壬生川の魚類行商と対比されるもので、周桑平野商圏の広さを物語っている。
一、大正・昭和期に入っても商業活動の衰退は続き、昭和三七年には商業・製造業二一戸と減少し、昭和六二年では九戸にすぎない。大正期より北海道・九州炭坑地帯、工業都市呉市等への移住、商人の松山、京阪神地区への場所替えの移住が行われ、明治中期より新町に住み続けているのは昭和三七年で二五戸である(図2―42)。

 新町商店街の衰退の第一の原因は商圏および交通路の変化である。藩政時代は宝ヶロから山麓を経て新町に至る代官道がにぎわい、桑村郡一円を官許の商圏にしたものであったが、明治に入ると壬生川・丹原の商業地に商圏を奪われ、交通路も松山―丹原線、今治―壬生川―西条線が中心となり近代流通ルートから疎外され、後背地商圏も僅かであったためである。それと関係して代官所の多田代官所への統合移転(一八一九)、周桑郡役所の丹原開設(明治三〇年)等も影響が大きく、また乏水地帯であったことも一因である。
 現在は「しもた屋」の並ぶ閑静な住宅町となっている。そして町の東に近く、越智郡や丹原方面を結ぶ広域農道沿線に新しい商店街立地の萌芽が見られる。





図2-38 丹原町の宅地割

図2-38 丹原町の宅地割


図2-39 丹原町商店街の商店分布

図2-39 丹原町商店街の商店分布


図2-40 丹原町を中心とする道路網

図2-40 丹原町を中心とする道路網


表2-38 在町丹原町の商業活動の変遷

表2-38 在町丹原町の商業活動の変遷


図2-41 丹原町の都市計画

図2-41 丹原町の都市計画


図2-42 新町商店街の変遷

図2-42 新町商店街の変遷