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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

八 周桑平野の畜産業

 庄内村における畜産のはじまり

 かつて「畜産の村」としてその名が知られていた庄内村(現東予市庄内)に、畜産の気運が本格的に高まったのは、大正初期に当時の村長村上盛一が畜産の将来性を説いて、村民を指導したことに始まるとされている。
 村上は大正三年(一九一四)南予方面を視察し、優良な種牛二頭を購入し、また同四、六年にも南予から繁殖用雌牛を各々一二頭ずつ購入するなど、畜産振興を強力に推進していった。このような動きと相前後して、周桑郡の畜産家が九州(宮崎・熊本・鹿児島)方面を視察し、繁殖用の優良な雌馬一二頭を購入したが、これが周桑地方における馬匹改良の先駆けをなすものであった。
 大正八年(一九一九)には、村上盛一をはじめ飯尾鉱吉・阿部道永ら村内の愛馬会の者が中心となり、種付所の設置を計画し設置場所を大野とするとともに、用地一反三畝一歩を二八〇円で買収した。こうした努力が実り、同年三月には国立高知種馬所からアングロノルマン種アブロ号を導入することに成功し、本格的に種付けを開始するようになった。その後、次第に種付けに対する認識が高まるにつれ、庄内村は勿論、近隣の町村からも優秀な仔馬を生産するために、大野種付所に来る馬は増加していった。また、同年には、北海道産の繁殖用雌牛五〇頭を導入し、品質の良い牛馬を順調に生産するようになった。
 大正一三年(一九二四)に国立高知種馬所が廃止されたのに伴い庄内村大野種付所も閉鎖された。しかし、優良馬の生産を行うためには、計画的な種付けが必要であるとの郡内村民の要望が強かったため、翌一四年に周桑郡畜産組合の管理のもとに三芳家畜市場内に種付所を開設し、毎年四月から七月まで種付けを行った。三芳家畜市場における種付けは戦後まで続けられたが、昭和二五年以後は庄内村に設けられた愛媛県立種畜場において種付けを行うようになった。

 庄内村における畜産の発展

 大正時代に入って畜産を振興しようとする気運が高まり、南予地方をはじめ九州や北海道から優秀な牛馬を導入するようになった。しかし、継続的に優秀な家畜を生産するためには、種畜の改良普及が重要であるとして、大正九年(一九二〇)周桑郡畜産組合長越智茂登太(中川村長)をはじめ同副会長村上盛一、周桑郡奨農会長一色耕平、日野松太郎(吉井村長)らは東予地方に種畜場を設けて牛の繁殖普及を行い、ひいては県下全域の畜産を振興しようとした。県をはじめ各方面への積極的な設置運動が功を奏し、大正一〇年(一九二一)庄内村且之上に県下で最初の県立種畜場が開設された。初代場長事務取扱は辻本正一であったが、最初の二年間は用地の造成や施設の建設等に充てられ、一一年から本格的に業務を開始した。主な業務は、繁殖用雌牛の育成・貸し付け、種豚の繁殖・育成及び配布、種鶏の繁殖、育雛及び配布などであったが、畜産の発展とともに県立種畜場の業務は次第に拡大していった。
 昭和六年には牛の種付けを開始するとともに豚、鶏肉の加工、試験雛の飼養試験等の新事業も行うようになり、九年には農林大臣の認可を得て農事修練場を併設した。これにより、県立種畜場は家畜の改良ばかりでなく、修練生の養成という重要な任務も帯びるようになり、県立種畜場の発展は、庄内村の畜産振興の原動力となっていった。庄内村における家畜飼養の状況をみてみると(表2―20)、馬は明治時代の初期には、ほとんどすべてが在来日本種であり、今治市野間地方が原産地とされる野間馬(乃万馬)で、この飼養目的は山路運搬に使役するためであった。しかし、日清・日露戦争の勃発によって軍馬の大量徴発や政府による軍馬増産が奨励された結果、庄内村の馬も質・量とも著しく変化していった。明治時代の中期以後、雌馬頭数が雌牛頭数に比べて圧倒的に多いが、これは多くの農家が換金目的で馬を生産するために雌馬を飼養したことによるものである。大正時代に入り、国立高知種馬所大野種付所や県立種畜場が開設されるに及んで、庄内村は数多くの優良馬を生産することが可能となったため、次第に県内屈指の馬産の村として知られるようになった。こうした状況は昭和二〇年ころまで続いたが、戦後は軍馬の需要が途絶え、しかも道路交通の変化や農業の機械化などにより馬産は急速に衰退していった。
 牛飼養頭数をみると(表2―20)、明治一二年(一八七九)にはわずか六二頭であったが、その後畜産熱が高まるとともに馬よりも、飼養が容易である牛を飼養する農家は増加し、明治二〇年(一八八七)には一八八頭に達した。しかし、この傾向は短期間で鎮静化し、以後明治時代の末期まで一〇〇頭程度で推移した。大正時代に入ると飼養目的は育成主体から生産主体へと大きく転換し、これとともに雌牛頭数が急激に増加した。さらに、県立種畜場が開かれ、種雄牛の育成貸し付けが行われるようになると、牛の生産も一層増加していった。こうした状況を背景に大正一三年(一九二四)庄内村肥育牛組合(組合長村上盛一、顧問佐田益田県立種畜場長)が設立された。生産された牛は県下の牛馬商に販売され、その多くは阪神方面に出荷された。同組合が昭和初年の経済変動等によって自然消滅したのに代わって、六年には村内の牛馬飼養者約二〇〇名が庄内村牛馬生産組合(組合長村上盛一、顧問青野岩平)を組織し、牛馬の生産、増強、種付けはもとより先進地の視察や技術講習会等を積極的に行ってきた。こうした努力が実を結び、牛馬を飼養する者は、大正二年(一九一三)には一七三名であったものが、昭和五年には二二五名となり、同一五年には二九六名と増加していった。その後も同組合は庄内村の畜産発展に大きく寄与していたが、戦争による飼料難や畜産行政の変化等のため一八年に解散した。
 なお、大正二年の馬飼養者数をみると、他地区に比べて黒谷が多くなっているが、これは渡海屋(岡渡海とも言う)の活動と関連するものである。越智郡の島々に、島と今治を結ぶ渡海船が存在したように、越智郡の山間部にも明治三〇年代から大正時代にかけて、各部落と今治を結び、物資を運搬する人々がいた。これらの人々を渡海屋と呼んでいたが、当時黒谷には長井熊一をはじめとする渡海屋が活動していた。
 戦前における庄内村の養鶏業は、県立種畜場が開設されるまでは牛馬飼養ほどの発展はみなかった。しかし、大正一〇年(一九二一)に種畜場が設置され、養鶏が奨励されるに伴って鶏舎を建設する者も相次ぐようになった。養鶏は主として庄内村産業組合の指導で行われたが、同組合は鶏卵の共同出荷や人工孵化など各種の事業を計画的に拡大するようになり、この結果、昭和二年には飼養羽数は九〇二〇羽に達し、庄内村の名は「養鶏王国」として県下に知れわたるようになった。しかし、養鶏も他と同様、七年ころより飼料難のために衰退し、一七年にはわずか八〇〇羽に減少してしまった。

 畜産模範指定村

 戦時中の畜産業は主として軍馬の生産を目的としたものであり、全体的には飼料難や労働力不足のため著しく低迷した。また、終戦直後は食糧難のために、家畜飼養の余力は農家にはほとんどなかった。こうした全国的な傾向と同様、庄内村においても終戦直後の家畜飼養頭羽数はきわめて少なく、戦前の面影はほとんど見ることのできない状況であった(表2―21)。
 愛媛県では、こうした畜産業の低迷状態を打開するため、昭和二二年に畜産模範指定村の設置を決め、有畜農業を振興しようとした。県はこの目標を達成するため、同年に東・中・南予各一か所を指定し、二四年には一二か所を指定した。二二年に指定された地域は、越智郡小西村、伊予郡下灘村、東宇和郡野村町であり、二四年に指定された地域は、新居郡中萩村、周桑郡庄内村、越智郡富田村、温泉郡立岩村、同川上村、伊予郡広田村、上浮穴郡小田町村、喜多郡白滝村、同菅田村、西宇和郡四ッ浜村、北宇和郡高光村、南宇和郡一本松村であった。大正時代から昭和初期にかげて畜産の村として県下に知られた庄内村は、畜産模範指定村に指定されたのを契機として、再び畜産振興の道を歩むことになった。
 庄内村における畜産業の発展については、村上盛一の果たした功績を除いては語ることは不可能であろう。村上は庄内村長及び県会議員として地方自治の発展に貢献したばかりでなく、県立種畜場の建設や各種畜産関係の組合を組織したり、三芳競馬場を新設するなど庄内村は勿論県下の畜産業発展に尽力した。このため、二九年には同氏ゆかりの庄内村役場(現東予市庄内公民館)内に頌徳碑を建立し、その治績を後世に伝えている。碑文には次のように記されている。

村上盛一氏ハ……終世自治ノ振興二貢献シテ偉大ナル治績ヲ挙ゲ殊二畜産并二林業二盡悴スルヤ啻二一村一郷二止ラズ広ク国県ノ畜産発展二寄与セラレタ功績ハ洵二顕著デアル……。

 庄内村では畜産模範指定村事業を成功させるため、二四年八月庄内村畜産振興委員会を発足させ、これを二九年までの五か年にわたる指定村事業の推進母体とした。同事業には五か年間に県費補助金六三万七三三二円、村支出金九六万五〇九五円、寄附金その他五六万四八五七円が充てられ、畜産事業の振興、設置技術員による診療及び飼養管理、生産増加、一般農業生産技術の向上、有畜営農の促進等多くの事業が施行された。こうした事業と合わせて、二五年に県立種畜場と農事修練場が統合して愛媛県立有畜営農伝習場が発足し、種雄牛・種豚の育成、牛馬羊豚の種付け、鶏の孵化・育雛・産卵・検定等の事業を行うようになったことは、庄内村の畜産業が再び名実ともに県下有数のものとなることを確固たるものにした。

 庄内村における競馬及び三芳競馬場の沿革

 戦前の競馬は、競馬法に「日本競馬は馬の改良増殖と馬事思想の普及を図るを以て目的とす」とあったように、能力の優れた種馬を競馬という形で大衆の眼前で選定し、馬匹の改良増殖を図ることが主な目的であった。庄内村においても明治年間から競馬が行われているが、当時の競馬のようすを知るものとしてはかつて宮内神社に奉納されていた「明治一九年三月三日 宮内神社広前競馬の図」がある。これによると、樹間にやぐらを組み、太鼓の音を合図に老若が思い思いの服装で出場し、立ちどまるものや側にそれるものがあり、それを長い竹竿で打ち追いて走らせる姿等が描かれており、当時の競馬のようすがよく表されていた。
 大正一一年(一九二二)東予四郡競馬会が発足したのに伴い、周桑郡丹原町花の池に競馬場を新設し、同年より現代的な競馬が行われるようになった。以後毎年競馬が実施されて庄内村から出場する者も多かったが、三芳競馬場が開設されるとともに自然廃場となった。昭和四年松山市郊外の三津浜に公認競馬場が設立されたが、当時全国馬匹協会理事であった庄内村長村上盛一と三芳村長行本頼助の両氏は、以前から鳴尾競馬場をはじめ各地の競馬場を視察するなどして三芳競馬場の設立を計画していた。設置場所を大明神川に沿った約三万四〇〇〇平方mの土地に求め、同五年に完成をみた。当競馬場は大明神川の堤防に植えられている青松を背に、燧灘を見おろす眺望の良い場所であった。第一、第二スタンドが堤防に並行して設げられ、第一スタンドの下は管理事務所として使用された。馬場は幅二一m、一周一〇〇〇mであったが、場内は東予三市四郡が使用する体育競技場として整備され、野球場としても使用された。
 三芳競馬場は庄内村との関係が特に強く、開設、工事、運営等においては庄内村民主催の観を呈したほどであった。本競馬の運営は八九〇名の株主で構成する株式会社東予愛馬会(取締役社長村上盛一)が行ったが、庄内村民の株主は一三一名に達しており、当時馬を飼養していた村民のほとんどが株主になっていた。競馬は春秋に各三~四日間開催され、出場馬数は各季とも九〇~一五〇頭に及んだ。このため、当時の三芳村の農家の中には人と馬を同時に泊める民宿を行うものもあった。三芳競馬が最も盛況であったのは昭和六年であり、同年の馬券売上高は春秋合わせて二〇万円を超えた。全国競馬協会地方競馬として盛況に行われ、馬産の改良普及にも寄与した三芳競馬もその後は徐々にさびれ、一五年に軍馬保護法が公布されるとともに廃止された。そして、馬場及び場内の競技場は食糧増産のため開墾された。なお、三芳競馬場の跡地には、現在、住宅、㈱オカロンや五八年に開所した「東予希望の家」等が建っているが、「東予希望の家」は県下で初めての重度身体障害者授産施設であり、昭和六二年現在五〇名が入所し、重度の障害にもめげず残った機能を精一杯活用して、縫製やポリ袋の製造、電機部品の組み立てなどの作業に取り組んでいる。

 周桑平野の畜産の現状

 周桑平野の畜産は、村上盛一をはじめとした先人に恵まれたこともあり、全般的に盛んである。六一年現在、周桑平野一市二町の豚飼養頭数は四万一八〇頭で県全体の約一三%を占め、採卵鶏飼養総羽数は六八万六五〇〇羽で県全体の一七%を占めている。東予市では特に採卵鶏の飼養が盛んであり、飼養羽数は六一年現在四五万三八〇〇羽で県下最大の養鶏業地域を形成しているが、この背景には三六年に発足した「愛媛東予養鶏農協」の活動が大きく関係している。同市の一戸当たり平均飼養羽数は、三八年五五羽(飼養戸数三〇八〇戸)、四五年三七六羽(同一五二〇戸)、五〇年一四〇〇羽(同二三〇戸)となり次第に専業化していった。この傾向はその後も続き、六〇年には四六〇〇羽(同九九戸)となり、六一年には一戸平均五〇〇〇羽を超えた(表2―22)。養鶏業を営むものの中には企業的経営を行うものも出てきているが、中でも同市河原津にある河原津養鶏団地は、一五万羽養鶏を目標として建設されたもので、愛媛県を代表する養鶏団地の一つとなっている(写真2―18)。東予市の飼養豚数は大洲市・丹原町・三瓶町・土居町に次いで県下では五番目に多く、六一年現在周布・国安両地区を中心に一万五九〇〇頭(飼養戸数一〇九戸)となっている。養豚についても近年専業経営による多頭飼養が著しく進展しており、三八年には一戸平均七頭であったものが、五〇年には四六頭となり六一年には一六五頭に達した。
 丹原町では田野・中川・徳田地区を中心に養豚・養鶏が盛んであるが、なかでも養豚は大洲に次いで盛んで、六一年現在二万一九〇〇頭が飼養されている。一戸平均の飼養頭数は三八年には一五頭であったが、その後養豚農家の専業化が進行するのに伴い飼養頭数は増加し、五〇年には四六頭、六一年には二三八頭になった。一〇〇〇頭以上飼養する大規模経営を行うものは愛媛飼料丹原農場・愛媛味えさ、渡辺州祥・越智富義・秋川東海らがあり、新しい飼養技術を採用した企業的多頭飼養も行われている。
 丹原町における採卵鶏の飼養総羽数は東予市・伊予三島市・松山市・土居町・伊予市に次いで県下では六番目に多い。大規模経営を行う者一二戸で約一七万羽を飼養しているが、なかでも同町田野にある戸田養鶏は高床式養鶏を行っており、新しい飼養方法として注目されている。この他、同町では保井野(富田)牧場における乳牛飼養や越智幸夫らによって組織されている田野肉牛生産組合の活動などもあり、畜産業各部門における今後の発展が大いに期待されている。

 愛媛東予養鶏農業協同組合

 従来から周桑地方には養鶏業を積極的に行おうとする伝統があった。こうした風土の中から、養鶏農家の経営をより一層安定させる目的で、三〇年に五〇余名の組合員をもって東予専業養鶏組合(組合長越智信鹿)が結成された。同組合では週二回、今治・周桑・越智諸島の組合員農家を回って集卵し、それを主として関西汽船で神戸の㈱兵庫鶏卵に出荷していた。しかし、高騰を続ける飼料代から組合員農家を守り、より一層経営の安定を図るため組合を法人化する必要に迫られていた。当時は農協の合併を国・県とも強く推進しており、こうした中で既存の農協と競合する事業を営む専門農協を設立することはきわめて困難な状況であったが、桐野房平・桐野忠兵衛等の尽力により、三六年に養鶏専門農協として「愛媛東予養鶏農業協同組合」が一八〇名の組合員をもって発足した。当初、本所を今治市においたが、事業の拡大に伴い五一年に東予市楠に移転し現在にいたっている。養鶏の専業化が進行するにつれて、組合員数は徐々に減少し、六一年現在四三名となったが、鶏卵等売上高は急速に増加し六〇年度には三五億円(鶏卵売上高二三億円、飼料売上高一二億円)に達した。また、六一年度からは㈱松山バークと提携し、鶏糞を活用して鶏糞バーク堆肥(商品名「土の友一番」)を生産発売するなど事業の拡大も順調に進行している。

 愛媛県養鶏試験場

 愛媛県養鶏試験場の歴史は、二七年に中予地区の畜産総合施設として、愛媛県畜産指導所が松山市湯山に開設されたことに始まる。その後、大・中家畜は種畜場に移管し、県下一円の産卵能力集合検定事業を行う単独の養鶏試験研究施設として、三五年に愛媛県養鶏試験場が正式に発足した。その後、畜産業の中において養鶏業の占める割合が上昇するにともない、本県の養鶏業は飛躍的に発展し、我が国有数の地位を占めるまでになった。こうした状況のもとで、試験研究機関の重要性が重視されるに伴い、施設、設備、立地条件などの面から新たな対応を迫られるようになり、四七年より養鶏業ゆかりの地である東予市福成寺の旧県立種畜場跡に移転し現在に至っている。六〇年現在、約九万一二○○平方mの用地に鶏舎一九棟、育すう舎九棟のほか各種の実験施設を設け、試験研究や調査事業等を行っている。主なものは「西南暖地における『ノーリンクロス』の飼養技術確立試験」、「飼養環境改善による産卵向上試験」、「種鶏改良事業」、「採卵鶏の優良系統組合せ試験」などであり、いずれも本県養鶏業の発展に大きく貢献するものとして、その成果が各方面から期待されている。











表2-20 庄内村(現東予市庄内)における家畜飼養頭羽数の推移

表2-20 庄内村(現東予市庄内)における家畜飼養頭羽数の推移


表2-21 第二次世界大戦直後の庄内村(現東予市庄内)における地区別人口 耕地面積及び家畜飼養頭羽数

表2-21 第二次世界大戦直後の庄内村(現東予市庄内)における地区別人口 耕地面積及び家畜飼養頭羽数


表2-22 東予市及び丹原町の畜産業

表2-22 東予市及び丹原町の畜産業