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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

七 周桑平野の藺草

 藺草栽培のはじまり

 愛媛県における、藺草の栽培状況を年次別にみると、表2―17のごとくであるが、『愛媛県農業の概況』(昭和二六年)は、その間の経緯を次のように記している。

  明治四三年(一九一〇)頃、周桑郡において四畝歩作付せられた
  のを始めとし、逐次増加の傾向を辿り、昭和九~一一年頃よ
  り平均二〇町九反(内訳藺草一五町、七島藺五町九反)と増
  植せられてきたが、日中戦争・太平洋戦争の勃発により激減
  し、作付皆無の状態となった。戦後昭和二三年藺草七町一反
  の作付をみるにいたり、二四年には、三六町五反(藺草三五
  町・七島藺一町五反)と急激に増植し、二五年六〇町歩(藺
  草五〇町・七島蘭一〇町)と再び増殖せられ、現在一〇〇町
  歩以上の植付となっているが、之が反収は平均七島藺二二
  五~三〇〇貫、藺草で二五〇~三五〇貫である。

 藺草栽培の分布と産地形成

 本県の藺草栽培は、周桑平野特に東予市を中心に産地を形成している(図2―16)。『愛媛の特用(工芸)作物』(工芸作物技術資料)によると、わが国の藺草栽培は、弘治年間(一五五五―五七)備後国(広島県沼隈郡山南村)で藺蓆を織ったという記録がある。『工芸作物耕種要綱』には、静岡県の藺草栽培は永正年間(一五〇四―二〇)に、僧玉庵が郷国である備後国沼隈郡から藺草をもち帰り、住寺である引佐郡東浜名村高栖寺の境内の池辺に植えたと記されている。これらの記録からすると、愛媛県の藺草栽培の歴史は随分新しい。
 愛媛県の藺草生産の推移を統計資料によってみると、明治末期に南・北宇和の両郡内で一〇~二〇アール前後の試作栽培があり、明治三九年(一九〇六)新居郡に二二アールの作付け、生産量原草四四五〇貫(一六・六八七㎏)という統計がある。その後、同四三年(一九一〇)には南予の栽培は皆無となり、新居・宇摩両郡で僅かに栽培されるにすぎず、大正四~五年(一九一五―一六)には新居・宇摩・越智郡で八〇~九〇アールの栽培をみた。大正七~一二年(一九一八―二三)温泉・越智・宇摩・伊予の四郡に拡大し、二ha前後の作付面積に達した。
 本県の藺草生産の主産地、周桑郡で栽培が本格化したのは大正一四年(一九二五)のようである。この年の周桑郡の作付面積は七〇アールで、原草二七八〇貫(一〇四二五㎏)販売金額一二八九円(原草貫当たり四六銭、この年県平均単価六三銭)であった。また県の総栽培面積五・八ha(越智郡三・一ha)生産量(原草) 一万六八七〇貫(六三二六三㎏)で、反当(一〇アール)約二七〇貫(約一〇九〇㎏)となっている。反当たり粗収入を概算すると、原草貫当たり平均単価六三銭であるから反当一七〇円となり、当時の米価石当たり三九円九三銭(松山市余土公民館資料、松山市の米価)からみると相当有利な商品作物であった。
 水田裏作として、昭和初期より栽培面積が増加し、昭和一〇年に最高を示したが、その後漸減し二〇年には食糧増産と肥料や労働力の不足で四〇アールに激減した。翌二一年には僅か一〇アールのみとなった。その後、食糧事情や肥料、資材等の好転と戦災復興資材としての畳表の需要増大に伴い、再び増産の傾向を示し、表2―18のように、昭和二七年には九八haにまで達した。しかも郡別では、周桑郡が他郡を圧倒して、八七・五%を占める独占的産地と化してきた。
 ところが、取引機構が整備されておらず、かつ無選別の地域は、例年でも主産県の岡山産に比べて二〇%位の安値で取り引きされていたが、昭和三三年には、この較差がさらにひどくなり空前の安値となった。作柄は良く良質でありながら、一二〇円内外(平均一九〇円・上物二五〇円)に下落した。この値下がりがもとで栽培農家の生産意欲は減退していった(表2―19)。

 藺草生産地の衰退

 昭和三〇年ころの藺草産地は、周桑郡が九割を産し、壬生川一五・二ha、周布一二・一ha、吉井一一・〇haが主要産地である(図2―16)『周布村誌』によると、周桑郡で藺草をつくりはじめたのは(明治四二年(一九〇九)ころで、丹原町願連寺の人とも、また周布の人ともいわれていますが、吉井地区では、石田の人、徳増齢三郎さんが吉井産業組合に勤めていて、大正二年(一九一三)尾道から藺草苗を持ち帰って指導したのがはじまりだ。」という。藺草は特殊な作物で、極く一部の農家で栽培していた。藺草は一二月中旬の寒い時に植え、七月二〇日ころの梅雨あげの干天の日に刈り取る重労働である。刈り取った原草は染め土をつけて乾燥する。乾燥は荒干し、根干しとそれぞれ一日ずつ三日間で手際よく乾燥させないと、商品価値に影響する手間のかかる作物である(写真2―17)。八月上旬には、広島や岡山の藺草商人が買い付けにやって来た。
 昭和一〇年、藺草の価格が下落してから、直接販売を中止し加工して販売することになった。自動織機二台を購入して製造を開始したのが藺草織のはじまりである。周桑郡内に畳加工織機が全盛期には一五〇台もあって、そのうち吉井に四二台、周布には一六台あった。同二四年には自動藺織機一六台が使用され、当時の農村工業の主力になった。
 その後、昭和三〇年代を境に、住宅の洋風化などにより国内需要の減少と、ビニール製品の進出、労働賃金の高騰など社会経済的諸要因により藺草栽培面積は減少した。東予市の栽培戸数は同三〇年の三八五戸、五七haから、五五年には僅かに三戸で一haを残すのみとなり、藺草織も全廃され完全に衰退してしまった。




表2-17 愛媛県の年次別藺草栽培の推移

表2-17 愛媛県の年次別藺草栽培の推移


図2-16 周桑平野の藺草栽培

図2-16 周桑平野の藺草栽培


表2-18 愛媛県の郡市別藺草と七島藺の生産

表2-18 愛媛県の郡市別藺草と七島藺の生産


表2-19 東予地方の藺草栽培の推移

表2-19 東予地方の藺草栽培の推移