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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

一 周桑平野の稲作

 稲作の地位

 中山川や大明神川の潤す周桑平野は、県内では松山平野に次いで広大な平野であり、松山平野と並ぶ穀倉地帯である。東予市・小松町・丹原町を合わせた周桑平野の昭和三五年の稲の作付面積は四〇四六ha(県の九・七%)、米の収穫量は一万七一七〇トン(県の一〇・三%)であった。稲の作付面積と収穫量は同四五年に始まった米の生産調整の進展で次第に減少していく。同五〇年には三四一三ha(県の一一・四%)、一万六五四〇トン(県の一二・二%)、同六〇年には三〇〇一ha(県の一二・三%)、一万四六三〇トン(県の一二・四%)となっている。作付面積と収穫量は減少しているが、都市化の進展の著しくないこの地域は、県内の他地域と比べると、その減少率は低く、かえって県内では稲作の地位を相対的に向上させている。
 周桑平野の農業粗生産額に占める米の比率は、昭和三五年には四七・一%も占め、裏作の麦と結合し、米麦主体の農業が周桑平野の特徴であったといえる。しかしながら、その後山麓部での果樹栽培の増加、水田地帯での野菜栽培の振興、さらには畜産業の発展に伴って、米の生産比率は次第に低下していく。昭和四四年に三一・九%に低下した比率は、その後の米の生産調整のあおりを受け、五八年には二四・一%にと低下している。しかし現在でも米は周桑平野の農業の基盤であることには変わりない。山麓部では稲作と果樹、平野部では稲作と野菜の複合経営農家が多く、稲作は周桑平野の農業を支える重要な柱である(写真2―2)。

 稲作の変遷

 周桑平野は中山川・大明神川の運搬してきた肥沃な沖積土に厚くおおわれている。気候は瀬戸内式気候で夏季の晴天に恵まれ、最暖月八月の平均気温は二七度Cにも上がり、地形・気候条件からして稲作の好適地といえる。平野は海抜五m、ほぼJR予讃本線あたりを境界に、山麓側は扇状地、海岸側は三角州となっている。水田は扇状地の部分では二毛田、三角州の部分では一毛田の湿田が多かった。平野の開発は扇状地の部分が早く、律令制下の耕地整理の跡である条里制の遺構が広く見られる。これに対して臨海の三角州平野は近世の干拓地が広く、新田の地名が多い。
 明治中期の周桑平野では水田の約六〇%程度に麦が作付げられていたが、その後裏作率は向上し、昭和三五年には、壬生川・吉井などの三角州地帯を除くと、八〇~九〇%の水田で裏作の麦が栽培されていた。米の単位面積あたりの収量は、松山平野・今治平野に次いで高い地区であり、県内では裏作の普及率も含めて上地生産性の高い地域であった。周桑平野が第二次世界大戦前、宇摩・新居郡の平野や、今治平野と共に、県下でも小作地率が高く、町村別に見ると、その比率が六〇~七〇%程度に達していたのは、この土地生産性の高さが一因であったといえる。
 周桑平野の稲作技術は松山平野などから導入されたものが多く、明治・大正年間には松山平野より技術的には低位にあった。明治・大正年間に県内に広く普及した優良品種として有名であった栄吾や相徳は松山平野の篤農家の選出したものであり、除草作業に便利な正条植えも明治三〇年代に松山平野の余戸村で考案され、苗代の近代化のはしりといわれる短冊型苗代も、明治三〇年代半ばに松山平野の余戸・岡田の両村などで普及していた。周桑平野に正条植えが始まったのは、明治三八年(一九〇五)県令によって正条植えが規定されて以降であり、短冊型苗代は明治四〇年(一九〇七)ころより県の奨励によって始まったという。しかしながら、まだ明治末年には正条植えはあまり普及せず、大正年間になって鬼コロガシや八反摺が普及して、ようやく正条植えが主流となったという。明治末年から大正年間にかげての周桑平野の稲の品種は、兵庫県で選出された晩生種の神力が主力であったが、松山平野で選出された栄吾や相徳も栽培されていた。
 周桑平野の稲の品種は伝統的に晩生種が主体であった。昭和三五年ころには、晩生種のアケボノ・ミホニシキが主力であったが、昭和四〇年代になっては同じく晩生種の松山三井が伸び、同五〇年には松山三井のみで栽培面積の八八%も占めている。アケボノに代わって松山三井が増加した理由は、バインダーの普及にともなって、脱粒性の大きいアケボノが栽培しにくくなったことによる。松山三井は昭和一七年愛媛県農事試験場で人工交配によって育成された品種であり、昭和二八年県の奨励品種となり、さらに四八年より国の銘柄米に指定された。その特性は大粒で食味がよく、収量も多い。しかし長稈で倒伏性が大きく、イモチ病に弱いことが欠点である。周桑平野に松山三井の栽培が増加したのは、夏季晴天が多く、イモチ病の発生が少ないこと、台風の襲来が少なく、稲の倒伏が南予地方に比べて少ないことなどによる。
 晩生種一色であった周桑平野の稲の品種は、近年変化のきざしが見えてきた。昭和六〇年には中生種のヒメミノリが松山三井大局を並べ、また早生種の日本晴も増加している(表2―1)。ヒメミノリは昭和四三年農林水産省中国農業試験場で人工交配によって育成され、五六年愛媛県の奨励品種となった。松山三井に比べて収量は同程度であるが、イモチ病に強く、かつ短稗で倒伏しにくく、脱粒性が弱いので、コンバインによる収穫に適することが、近年急速に普及してきた理由である。
 周桑平野の稲の作付面積と収穫量は昭和三五年以降漸減している(表2―2)。特に昭和四五年と五三年に作付面積と収穫量が低下しているが、それは昭和四五年に米の生産調整が実施され、五三年に水田利用再編対策が打ち出され、稲の作付面積が減少したことによる。米の生産調整によっては、昭和四五年に三五七ha、四六年に五一四ha、四七年には五〇八haの水田が他作物に転作されたり、休耕されたりした。転作では野菜・大豆・飼料作物への転作が多かったが、残り三五%は休耕であった。昭和五九年の水田利用再編対策による周桑平野の転作面積は七一八haに及ぶ。転作の内容を見ると、特定作物三五一ha(四八・九%)、永年性作物二六ha(三・六%)、一般作物二四六ha(三四・三%)、水田預託二八ha(三・九%)、他用途利用米面積六二ha(八・六%)などとなっている。主な転作物を見ると、野菜類の一七四haが最も多く、次いで飼料作物八八ha、麦類四六ha、花卉・種苗四〇ha、果樹二五haなどであり、特に野菜の多さが目だつ。野菜のなかでは、いちご四三ha、きゅうり二八ha、さといも二一ha、アスパラガス一七haなどが特に多く、周桑平野の野菜栽培は米の生産調整と関連して伸びたといえる。

 稲作経営の特色

 周桑平野は東予随一の穀倉地帯であり、昭和三五年には現在の東予市・小松町・丹原町にわたる周桑平野の専業農家率は三三・二%を占め、県の二九・九%よりも高く、工業化のすすむ東予の他市町村と比べると、専業農家が多い地域であった。しかし昭和三五年以降の高度経済成長期に、周桑平野では隣接の西条市・新居浜市・今治市、また東予市の臨海地域で工業化が進展すると共に、それらの地域への通勤兼業が増加し、農家の兼業化が著しく進展する。昭和四五年には専業農家率は一六・七%にも減少し、県の一八・〇%より低い比率となった。昭和五五年の周桑平野の専兼業別農家数の構成は、専業農家一五・二%(県一九・〇%)、第一種兼業農家一九・九%(県二〇・八%)、第二種兼業農家六四・九%(県六〇・二%)となっており、農家の三分の二までが、農業を片手間にする状態である。
 兼業農家の進展と共に、農業就業人口の老齢化・女性化も著しく進展している。昭和五五年の周桑平野の農業就業人口のうち、男子の比率は三七・八%(県三九・一%)で、農業労働力の大半は女性によって担われている。男子就業者のうち六〇歳以上の就業者の比率は五〇・一%(県四七・二%)に達し、青壮年男子で農業に従事する者は少ない。農家のなかで六〇歳未満の男子専業者のいる農家はわずかに一八・三%(県二一・八%)にしかすぎない。
 このように周桑平野は兼業農家率が高く、農業就業人口の老齢化・女性化が著しく進んでいる。このような傾向は、工業化・都市化の著しい東予地方全域にみられる特色であり、新居浜市・西条市・今治市などの隣接諸都市と比べると、周桑平野はまだ専業農家の比率や男子就業者の比率は高いといえる。
 周桑平野の稲作の最大の特色は、その規模が大きく、機械化が進展していることである。昭和五五年現在の稲の収穫面積広狭別戸数の比率をみると、〇・五ha未満が五二・九%(県七五・二%)、〇・五~一haが二九・六%(県一九・八%)、一~二haが一五・六%(県四・六%)、二ha以上が一・九%(県〇・四%)となっており、県平均と比べて大規模な稲作農家が多いことが歴然としている(表2―3)。特に東予市から小松町にかけての臨海地区に大規模稲作農家が多く、ここから西条市の禎瑞地区にかけては、県下最大の大規模稲作地帯となっている。
 経営規模の大きい周桑平野は、また稲作の機械化が県下でよく進んでいる地域の一つである。この地区の機械化の進展は、耕うん機が昭和三〇年ころから、乗用トラクターは四〇年ころ、バインダー・コンバインは四五年ころ、田植機は四七年ころから、それぞれ急速に普及する。周桑平野の昭和五五年の稲作農家に対する耕うん機・農用トラクターの普及率は九五%(県七二%)、動力田植機は五四%(県二八%)、自脱型コンバインは一七%(県一一%)となっており、県下では西条市と共に最も機械化農業が進展しているといえる。
 周桑平野の稲作の第二の特色は、稲作経営が自己完結型のものであり、稲作の協業経営やライスセンター、育苗施設などの共同利用、また農地の貸借、農作業の受委託などがあまり見られないということである。周桑平野のライスセンターとしては、東予市周布に処理能力三〇トンのものがあり、東予では屈指の規模を誇るが、その利用はおおむね零細農家にゆだねられている。また育苗施設には多賀青年クラブと東予市青年農業者協議会に小規模な育苗施設があるが、その能力は合わせて一万五〇〇〇箱にすぎない。昭和五五年の農林業センサスによって、稲作の作業を請け負わせた農家数の比率をみると、周桑平野では育苗四・九%(県一四・九%)、耕起五・九%(県一二・六%)、田植え四・八%(県一一・一%)、刈り取り・脱穀五・五%(県一四・八%)となっており、県平均と比べると請け負わせ農家数の比率が随分と低い(表2―4)。
 水田の貸借も周桑平野ではあまり盛んではない。昭和五五年の稲作農家のうち、水田を借り入れている農家の比率は一一・〇%(県一三・九%)で、南予の宇和盆地・松山平野・今治平野などと比べて、その比率はかなり低い。昭和五〇年に農地の貸借を促進するために創設された農用地利用増進事業も、この地域ではあまり積極的に活用されていない。昭和五六年度の同事業の周桑平野での実績は七五・五haであり、水田面積の二・二%にしかすぎない。農地の貸借は縁故関係において行われ、農協の仲介する農用地利用増進事業にはあまり関心を示さない。それはこの地区の農家が農地への執着が強く、土地を他人には貸したがらないという農民意識を反映するものといえる。

 多賀米麦生産組合

 周桑平野は今治平野と比べて生産集団の結成が少なく、農地の受委託があまり進んでいない。しかしながら兼業化が進み、農業労働の老齢化が進む周桑平野では、零細農家は次第に農機具の投資に耐えられなくなっている。そこに農地の受託によって経営規模の拡大をはかる生産集団の誕生が待望されるのである。
 東予市多賀農協管内にある多賀米麦生産組合は、昭和五七年多賀農協管内の五名の農業後継者によって結成された生産集団である。結成当初は冬季期間借地した農地を活用して麦作を共同経営する組織であったが、昭和五八年麦・大豆生産総合振興対策事業によって、二〇石乾燥機五基と籾摺機等を設置する建築面積三一七平方mのライスセンターを建設し、さらに四条刈りコンバイン二台とブリッジ二台を導入し、水田の借地、水稲の作業受託の拡大をはかっている。ライスセンターの建設費用は三八六九万円、コンバイン・ブリッジの導入費用は一〇五五万円であったが、うち国と県の補助が二四六二万円、東予市の補助が二一九万円、自己負担金が二二四二万円であった。
 昭和六〇年の作業実績をみると、稲の栽培面積一七・一ha、稲の作業受託一四・三ha、麦の栽培面積一九・五haとなっている。稲作については、一戸当たりの経営規模を受託農地も含めて四ha程度とし、育苗・田植え・施肥・病虫害防除・水管理は個人経営とし、刈り取りから調整・出荷までの作業はライスセンターと大型コンバインを利用して共同作業を行っている。麦作についても一戸当たりの経営規模を期間借地も含めて四ha程度とし、全面全層播栽培を行い、播種から除草剤散布・施肥・刈り取り・調整・出荷までを共同作業で行っている。稲の作業受託は刈り取りから調整・出荷までをライスセンターとコンバインを使って共同作業で行っている。
 農地の通年借地料は一〇アール当たり、米二~二・五俵(一俵六〇㎏)であり、冬季の期間借地料は一〇アール当たり、水稲栽培のための耕起一回と水稲元肥の散布である。稲刈り・乾燥・籾摺りの委託料は、一〇アール当たり四八〇㎏の場合で二万八八〇〇円となっている。農地や農作業の受委託業務は多賀農協を窓口としているので、貸し手側の農家も安心して借地契約するのである。この生産集団に農地を通年借地あるいは期間借地に出したり、また作業委託するものは、おおむね多賀農協管内の第二種兼業農家である。彼等にとっては、この農業集団の存在は、過度の農機具投資をさけて、農地を保有し、農業を継続していくために必要なものであるといえる。

表2-1 周桑平野の稲の栽培品種の変遷

表2-1 周桑平野の稲の栽培品種の変遷


表2-2 周桑平野の稲の作付面積・収穫量の推移

表2-2 周桑平野の稲の作付面積・収穫量の推移


表2-3 周桑平野の稲収穫面積広狭別戸数の変化

表2-3 周桑平野の稲収穫面積広狭別戸数の変化


表2-4 稲作の作業を請け負わせた農家数とその比率

表2-4 稲作の作業を請け負わせた農家数とその比率