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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

一 愛媛県の成立

 行政域の改編

 県や市町村は地方自治体とよばれている。その住民は、個人としての生活のほかに、地方自治体である県や市町村との間に、行政を通してそのサービスへの需要と供給とのかかわりで、日常性にとんだ関係をもちつづけている。それは、県民や市町村民という二重の関係であるが、最も基本的なことは、県や市町村の構成員で、自治に参加していることである。
 県や市町村は、政治的には一つの共同体であって、その行政サービスは、県域や市町村域など行政域を範囲としている。従って、行政域と住民の生活とは、深い利害関係を共通してもっている。行政機関がサービスの需給にじゅうぶん円滑な機能を働かさないと、住民はその不均衡に対して不満をもつであろうし、周辺の行政域と住民生活が密接になると、それへの編入を要求し、分離してゆくことになる。従って、県域や市町村域が変わることは、住民もともに構成員を変えることとなり、政治的共同体の維持にとって大きな問題となる(写真9―1)。
 この地方自治体の行政サービスの範囲は、極めて歴史的なもので、愛媛県域は昔の伊予の国で、藩政期このかた境界はほとんど変更がない。これに対して、市町村域は、藩政期のムラ(村)を基礎とした集落の地域的なまとまりをもちながら、明治以降数回の合併促進で改編をみてきた。これは、政治的共同体の時代に応じた変化ともいうべきであるが、共同体の遺制は決して消えるものではなく、住民の意識や行動のなかに残っている。
 地方自治法(昭和二二年施行)によると、都道府県と市町村は、ともに普通地方公共団体として同格ではあるが、都道府県の行政の内容は、市町村を包括する広域の地方公共団体として上位にあって、市町村は基礎的な地方公共団体として位置づけられている。これは、住民からすると二重の政治的共同体の構成員として、それぞれに属していることとなるし、行政サービスも二つの団体を通して受けている。これを県域についてみると、県の行政システム(組織の体系)と市町村のそれとのネットワーク(網)のなかにあるといえよう。このようにして、住民は、県民、市町村民として結ばれていて、県域には市町村域を構成単位として全体を総括する行政のネットワークが張られている。

 伊予八藩と八県域

 明治政府は、明治四年(一八七一)七月に廃藩置県を断行した。これは、明治政府が全国を完全に統治するために、近世の封建時代の名残りを一掃する目的で、旧藩領を県として改編したものであった。
 藩政期の伊予国は、東から順にみると、川之江・三島・土居・別子山・三芳・桜井・朝倉などに幕府の直轄地(天領)があった。この天領にはさまれて西条藩(松平氏三万石)と小松藩(一柳氏一万石)、そして今治藩(松平氏三・五万石)があり、西方では、松山藩(松平氏一五万石)、大洲藩(加藤氏六万石)、新谷藩(加藤氏一万石)、南では宇和島藩(伊達氏一〇万石)と吉田藩(三万石)の八藩があった。このうち、天領は、川之江のように交通の要地と別子銅山にかかわる山地、国府のあった桜井など重要なところを支配した。松山藩をはじめ東には、その分家である今治藩、紀伊松平氏の分家の西条藩など親藩が多く、豊かな農村地帯を支配していた。小松藩は外様の小藩であったが、南予地域では外様領が主であった。すなわち大洲藩とその分家で飛地の多い新谷藩、同じく宇和島藩とその分家の吉田藩である(図9―1)。
 一般に、徳川家の直轄地と家系のつながる親藩は、要地や豊かな農村地域を領有したが、伊予でも例外ではなく、東予地域はそれらの分割統治をみたところであった。これに対して、外様の領有した南予地域は、面積が広いわりには石高が少なく、平野に恵まれず山地の多い経済的後進地域で、交通不便なところであった。藩政期に農民一揆が多発したことで有名な宇和島藩は、辺地にあって地理的環境に恵まれず、農民を強く支配したことによるし、宇和海沿岸の段畑も、その歴史的背景をもっているとさえいわれている。
 天領を除く伊予八藩が、廃藩置県によって最初に成立した県で、それぞれの藩名をとって県名とした。このとき天領は、瀬戸内海を隔てた倉敷県に属したものの、すぐ後で讃岐国の丸亀県へと移った。しかし、実際は明治維新後には土佐藩の占領下におかれていた。       

 愛媛県の成立

 伊予の八県が現在のように愛媛県として一つの県域のもとでまとまったのは、明治もなかばに入った二一年(一八八八)一二月であった。
 まず同四年一一月に、全国的に旧藩を基礎とした三〇〇余県を七二県に統合し、伊予国内でも天領と西条・小松・今治・松山諸県を合わせて松山県に、大洲・新谷・吉田・宇和島の四県を合わせて宇和島県と二つに整理された。この時、松山と宇和島を除く諸県では県役所がなくなるというので住民が騒いだ例もあったほどで、新しい地方行政制度がなじむには障害があり、松山県の名称を石鎚山に因んで石鉄県と改め(明治五年二月)、さらに宇和島県をも出石山の旧名をとって神山県と改称し、両県の境を松山平野の重信川とした(同五年六月)。県名を特定の旧藩名を用いることに複雑な感情をいだいたことに対して、関係諸県が、その県(藩)界を山脈によっていることから、高くて信仰の対象となっている山の名に改称したことは名案といってよいであろう。
 明治政府は、さらに府県の整理統合を進めた。明治六年二月に全国を三府四二県と、ほぼ現在の四七都道府県に近い数に統合し、伊予国の二県も一県に統合をみて、ここに愛媛県が史上はじめて登場することとなった。愛媛とは、慶応二年(一八六六)に今治の半井梧庵が記した『愛媛面影』にでていたもので、古事記の「愛比売」に由来する。なお県庁は、石鉄県当時、わずか一か月ほどであったが今治に置かれ、愛媛県の成立とともに再び松山に移って現在に至った。一時的にもせよ今治が石鉄県庁の所在地であったことは、古代に国府があった歴史にそったものである。

 香川県の併合と分離 

 四国は現在、愛媛・香川・徳島・高知の四県から成りたっているが、明治政府の府県統合政策が迂余曲折していた間に、香川県は愛媛県と、徳島県は高知県と併合され、四国は二つの県域から成っていた時期がある。とくに前者では、旧讃岐国が香川県となったのは三回もあり、一二年間にわたって愛媛県域にあった(写真9―2)。
 藩政期に高松・丸亀・多度津の三藩に分かれていた讃岐国は、廃藩置県で高松と丸亀の二県に統合された。しかし、明治四年に香川県が成立したものの、同六年には阿波と淡路と合併されて名東県になり、同八年に再び名東県の分離によって第二次の香川県が成立、そのあと九年に愛媛県に再び合併、二一年(一八八八)にようやく第三次の香川県となって現在に及んだ。この間、香川には愛媛県の支庁が高松に置かれていた。
 香川県が、このように併合と分離をくりかえしたのは、明治政府の地方行政策のうえで、四国が面積的に広く、二県に統合することが合理的だと考えられたにすぎない。明治一八年に住民が内務卿に提出した予讃分割の建議書のなかに、「伊予ハ山多ク、讃岐ハ平野多シ、故二人情大二異リ、其生スル所ノ産物モ亦大二其趣ヲ異ニシ、一州二便ナル者必ス一州二便ナラスシテ往々呉越の思アリ、其例遠ク徴スルニ及ハス」とあるのは、両県の統合が地理的条件からみて無理であったことをよく示している。とくに、香川は面積や人口で愛媛県に比べて少なかったとはいえ、経済開発は進み、貢租の負担のうえで不満があり、県庁のある松山に遠く、統合当初から感情問題を生じていたほどであった。

図9-1 近世末の伊予各藩領と明治初めの郡界

図9-1 近世末の伊予各藩領と明治初めの郡界