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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

二 県(藩)界地域の交流

 県の境

 瀬戸内海の島しょ部は別として、陸地部にある愛媛県と他の四国三県との境は、ほとんどが海抜高度一〇〇〇m前後の高い山地の稜線となっている。山地が境に利用されるのは、交通や土地利用などのうえで障壁性をもち、他の地域と分ける作用を強くもっているからである。しかし、山地の鞍部や谷など数少ない低いところは、峠道として利用され交通の要地となってきた。
 県境を東予地域からみると、川之江市と香川県との境となっている海岸の余木崎にはじまる。この崎は旧名を伊予と讃岐の国名を合わせて予岐崎といった。同じく川之江市から国道一九二号線の通っている徳島県との境に境目峠があり、国道改修でトンネルが抜けた。この峠は、藩政時代から阿波や土佐との交通の要地で、伊予から魚や葉タバコ、阿波(徳島)からは手すき和紙原料の楮や薪炭などが運ばれて、宿屋もあったといわれる。新宮村や別子山村と高知県との県境の山地は、四国山地の高い山やまで、高知県側では嶺北地方とよばれる。かつて参勤交代の土佐藩主は、この山地を笹ヶ峰(一〇二七m)越えで新宮村馬立を経て川之江に出た。旧土佐街道や立川街道がこれで、馬立には土佐藩主が宿泊した本陣屋敷跡がある。
 別子銅山が盛んであったころは、別子山村の筏津坑では、高知県の本川村や大川村から坑夫として多くの人びとが住んでいた。嶺北地方は林業を主とした僻地であるところから、かつて別子銅山は働く場所として人びとを集め、募集人がこれらの山村を回っていたという。西条市から国道一九四号線が寒風山トンネルを通って、高知県の仁淀川沿いに伊野町に通じ、四国の中央部を横断する国道となっているが、寒風山トンネルが高地にあるため新しくトンネル工事が着工されている。上浮穴郡美川村から高知県池川町に通じる県道もあって、県境に境野隧道がある。藩政期の土佐街道は、久万から美川村東川を経て池川に通じていた。現在の仁淀川沿いの国道三三号線は新道である。その県境の中心集落である柳谷村落出は、この四国新道によって出現したところで、商業取引きなどで高知県との関係が強い。この柳谷村から四国カルストの地芳峠を経て高知県の梼原町に通じる県道は、国道昇格への運動がある。同じく野村町から梼原町にぬける県境の高原には「伊予ノ地」という地名が残っている。
 大洲市から肱川の上流に沿って城川町・日吉村を経て高知県梼原町に至る国道一九七号線は、高研山トンネルの開通で、県境地域の交通障害を一挙に解決した。このトンネルのほぼ中央が県境で螢光灯の標識がそれを示している。宇和島市から分かれる国鉄予土線は、四万十川の支流吉野川に沿って走り高知県江川崎から窪川との間を結ぶ。愛媛県と高知県を結ぶただひとつの鉄道であるが、鉄道開通前には、松野町吉野や松丸が県境の商業集落として栄えた。宇和島市の市街地の南にそびえる鬼ガ城山(一一五一m)のすぐ南側は高知県西土佐村である。津島町の岩松川の最上流の御槇地区では、高知県宿毛市に流れる松田川の上流と接している。そこには境の集落があって宿毛市との交流が深く、南の一本松町には国道五六号線が県境の川である篠川を渡っている。そのバス停留所は愛媛県側にあって県界という(前掲写真9―1)。しかし、藩政期の街道は、一本松町の小山から山越えで海岸に出て宿毛に通じていた。この峠が松尾峠で、現在はほとんど利用されていない。
 瀬戸内海の県内の島じまは、愛媛県の属島である。これらは、越智諸島にあっては広島県、忽那諸島にあっては山口県の島じまと近い距離で接している。とくに前者は、島と島との間の狭水道が県境となっていて、生名島では、対岸の因島との間の長崎瀬戸が五〇〇mほどの狭い水道で、両島は文字通り指呼の間にある。これらの諸島のなかで、大三島の上浦町に属し、広島県の生口島との間にある瓢箪島は、両県間でただひとつ島の中が県境となって二つに分かれている珍しい例である(図9―2)。この島は、南に高く海抜高度三五mほどの小高い丘があって、ひょうたん形で、南よりの部分が愛媛県に入っている。いつの時代から境になったかは分からないが、無人島で、しかも大三島の大山祇神社の所有で神域となっている。       

 境界の紛争

 四国のなかで高知県についで長い陸つづきの県境をもつ愛媛県には、県の成立からおよそ一〇〇年の間に、明治初期の高知県側との県境変更のほかには、境界をめぐる紛争は起こっていない。しかし、漁場をめぐる宿毛湾入漁協定問題や、一部の県境地区の越境合併問題の発生はあった。
 県境は、歴史的に昔の国の境であり、近世における藩の境界をうけついだもので、県境をめぐる利害関係の発生は藩界紛争にまでさかのぼるものが多い。また、その紛争をみたところは辺地であって、藩政期に互いに城下よりはるかに遠く統治権が及ばなかったところに、しだいに人口が増加したり、資源の活用が重視されてきたことなどから、利害対立を起こしたものが多い。しかも、藩政期には藩が勝手に領有を主張したところがあり、明治期の県制確立による地方行政の新しい発展によって、県域の確認が重視されることとなった。
 明治に入って県境が確定をみたのは、四国カルスト台地の柳谷村と高知県東津野村との間をはじめ野村町大野ケ原地区で、陸軍が地図を作成したことから高知県との境が確認されたのは、明治三四年ごろと推定される。これよりさき、現在の津島町と一本松町ならびに高知県宿毛市との境となっている篠山(一〇五五m)の山頂にある篠山権現をめぐる両県の境界が明治六年(一八七三)に確認された。この篠山一帯は、かつて土佐藩と宇和島藩が長年にわたって藩界紛争をみせたところであり、明治に入って、高知県が篠山神社を県社に指定したい旨の申し出をしたことから再燃した。篠山権現は山岳信仰の神社で、一本松町の篠川に沿う登山道は篠往還とよばれ、沿道の集落正木は御在所となってきた。藩政期の紛争では幕府の裁下によったほど有名な争いであったが、明治六年には、篠山の頂上から北を高知県側、南を愛媛県側として標石をたて、分水界による県境を定め、神社の境内を愛媛県、頂上近くの矢筈池を高知県と確認して結着した。
 ついで同七年には、宿毛湾沖にある沖ノ島・鵜来島・姫島の所管について、明治政府が地理的理由から高知県とすることが通達された。沖ノ島は、北半分が他の二島とともに宇和島藩領であった。もっとも、沖ノ島の境界紛争は篠山と同じく土佐藩との間に起こって、幕府の覚え書によって両藩が島を二分して承認したことがあった。宇和島藩は、鵜来島を流刑の島としたこともあり、また、これら島じまの周辺の海は豊かな漁場である。明治政府め決定は、旧土佐藩のうしろだてもあって愛媛県側が承認せざるを得なかった。篠山をめぐる境界紛争と、沖ノ島その他の島じまの帰属問題は、藩政期からつねに連動したものであったが、それはまた全国的にも有名な宿毛湾入漁をめぐる愛媛・高知両県の漁場紛争にも深くかかわっている。なお、沖ノ島では、自生する桑の採取に南宇和郡全域から多くの女性が働きに出たり、また、旧宇和島藩領の集落として母島、土佐藩の集落に弘瀬が現在もあって、前者の家にはベンガラぬりの柱、後者には白木の柱が使われ、建築様式までも異にしていた。

 二つの越境合併問題

 現在の地方自治法には、都道府県の境界にわたって市町村の境界に変更があったときは、都道府県のそれも変更されると決められている・県境の市町村や、そのなかの地区が生活環境や経済的条件、さらに歴史的背景などがからんで、隣りの県域に編入を希望する例がある。これは、行政域の設定が地域によって不合理となってきたときに起こる。愛媛県でも、第二次大戦後の地方自治法が施行されて以来、この越境合併問題が二つあった。
 さきにふれたように、越智郡の島じまは狭い水道を隔てて広島県と向かいあっている。生名村は、面積わずか三k㎡の生名島を主島にした村で、かつて藩政期には松山藩の流刑地であったこともあるが、現在は、対岸の因島市とは経済的に強く結ばれている。同市にある日立造船はじめ商工業への通勤者が多く、また因島から住宅地を求めて移り住む人も多くて、その都市近郊となっている。昭和三一年に村民の賛成を得て因島市との合併が村議会で決議された。因島市もその合併を認めたものの、漁場問題をはじめ周辺の町村との関係もからみ、愛媛県も強く反対したために、この合併は実現しなかった。生名村には漁民が僅かにいても漁業協同組合がなく、隣島の岩城村のそれに属している。複雑な利害問題が解決しなかった例である。
 もうひとつは、宿毛湾に面した城辺町の東端の脇本地区の宿毛市への合併問題であった。この地区は、人口僅かに一〇〇余にすぎず、背後は一本松町と境をなす山地で、城辺町の中心集落とは交通不便で宿毛市へ出たほうがはるかに近い。養豚のほか宿毛市への通勤もあり、児童・生徒は宿毛市の威陽小学校や片島中学との委託協定で県境を越えて通学している。昭和四八年二月に脇本地区では宿毛市への合併運動が起こった。その理由には、城辺町からの県道が未完成であり、電話や水道など生活環境施設の整備の遅れに不満を生じたことにある。これに対して、城辺町や愛媛県では、電話の一般加入区域化や県道の整備拡張などで対応し、ようやく収まった。住民の視聴するテレビはほとんどが県外局のもので、交通や教育の便が宿毛市に向いていることから、この要望は現実的なものであった。もっとも、脇本地区が宿毛市に合併すると、両県側の漁場係争の歴史をもつ宿毛湾の漁区が、高知県境の西方への移動によって、愛媛県側の漁区がせばめられて不利になるという海上の境界がからんでいたことは注目してよい。      

 県境地域の交流

 生名村や城辺町脇本地区に起こった隣接県への合併問題は、その住民の日常生活が県境を越えて行われているという県境地域の特色を浮きぼりにしたものであった。このような日常生活に密着した県際交流をみせてきた地域は、歴史的にも古く、地理的にも広い範囲に及んでいた。もっとも、それは数量のうえでは、辺地であることから少ないものの、地域の人びとにとっては重要なことである。
 愛媛県は海岸線が長く、漁村が多いことから、魚介類が四国山地の県境地域に運ばれていた。例えば、戦前に松山市の吉田から塩さばなどが大野が原の韮ヶ峠を越えて高知県梼原町の県境地域へ行商で売られていた。塩さばは、日もちがするうえに、米が少なく、とうもろこしを常食としていた山村の人びとのロによく合う魚でもあった。現在でも、宇和島市や城川町、日吉村などから行商が高知県西部の山村に入っている。このような山越えの交流は、土地の人びとが「うね越え」とよぶもので、行商のほか労働による移動、祭礼や婚姻、治療のための通院などに及んでいる。
 うね越えの交流が多いのは、旧宇和島藩一帯と旧土佐藩との間の現在の城川町・日吉村・松野町などと高知県とであって、いわゆる四国西南地域の中央部である。城川町の高野子や土居、日吉村の下鍵山、松野町の吉野や松丸などは、昔からの予土交流の拠点となってきた集落で、それは、高知県側が林業を主とした山村で、経済的に後進性が強く、林産物はじめ婦女子労働力が愛媛県側に入って、高知県へは日常生活用品や魚介類、肉、野菜、米、農機具などが運ばれたのである。もちろん、商品や労働力の交流、境界の山頂にある地蔵信仰の祭礼を共同で行ったりしたことが通婚を広めることともなった。
 学校教育でも、戦前には宇和島市や吉田町の旧制中学校や高等女学校に高知県から寄宿して通学する者が多く、現在でも県立北宇和高校へは西土佐村から入学者の五%以内を限度として通学が認められているし、城辺町や一本松町から宿毛工高へ通学する者もいる。教育水準は、愛媛県側が旧宇和島藩時代からの伝統もあって高かったことが、高知県からの越境通学を広めたといってよい。
 先にふれた篠山をめぐる境界紛争は、歴史的なものであるが、その篠山往還に沿った県境地域の正木に全国でも最も長い校名がつけられた小・中学校がある。それは「高知県宿毛市・愛媛県南宇和郡一本松町組合立篠山小学校・中学校」である。篠川は中流で県境の川となるが、高知県側の宿毛市山北地区と愛媛県側の正木地区のそれぞれに学校があったものが、昭和初期に校舎の改築を機会に個別に投資することは経費の損失を招き、規模の適正化をはかるには合同が望ましいという住民の意見によったものであった。組合立は昭和二六年からで、組合長は一本松町長が就任し、児童生徒が二〇名ほど対岸から通学している。
 この篠川流域は、上流の両岸が愛媛県に入っているが、中流の正木地区では、谷が開け水田もあって、川の流路が県境に変わっている。河川が境界に利用されるときは、上流域はむしろ沿岸を合わせる役を果たすが、中下流域では、川幅も広く低地が開けてくるために、反対に境界としての働きを強める。篠川も小河川ながらこの性質をもった県境の川である。しかし、大きな川ではなく、対岸との日常の交流が深いことが、小中学校の合同に作用し、河川流域が生活圏域としてのまとまりにもなる例で、県境が走っていることが奇異なほどである。
 かつて、土佐藩は国境を厳しく警戒したことがあった。道番所とよばれた関所は、予土国境に沿って数多く設けられた。しかし、その当時でさえ禁制の製紙原料の楮が抜け荷として大洲や広見に運ばれたし、人びとの往来もあった。それは道番所が山麓にあって、国境のうね越えの道まで抑えていなかったことによる。藩や県など行政の管轄では、境界の確立はきびしいが、境界地域の実情には交流の道もあったという例が多い。

図9-2 愛媛県と広島県の県境の島(2.5万分の1「瀬戸田」図幅、昭和53年改測)

図9-2 愛媛県と広島県の県境の島(2.5万分の1「瀬戸田」図幅、昭和53年改測)