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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

五 肱川流域

 大洲盆地

 伊予における古代文化の発祥の地で、古くから文化が開け、少彦名命の古墳をはじめ、メンヒル・ドルメンなどの遺跡が多い。藩政時代は大洲藩主加藤六万石の城下町として大洲が栄えた。近江聖人といわれる中江藤樹は、この地で九歳から二七歳までを過ごし、その屋敷跡(至徳堂)や中江の井戸など、遺跡が今も残っている。
 大洲市は県内で最大の肱川に臨んで風光明媚なため、昔から伊予の小京都と呼ばれ、清流では毎夏「う飼い」が行われる。これは昭和三二年に導入したもので、屋形船が行きかい、う匠の手綱さばきに水中をぞんぶんにもぐってアユを追う。う飼いの季節には肱川橋の上流下流は不夜城の観を呈する。秋は、この肱川河原で藩政時代から伝わる民衆の素朴な風習である「いもたき」が行われ、多くの観光客でにぎわう。このように大洲市は優雅な山水の自然美とともに古い歴史と伝統の町である。NHKのテレビ小説「おはなはん」(昭和41年)で全国的に有名になった。
 大洲城跡は旧市内の南北隅にあり、現在高欄櫓・台所櫓・苧綿櫓・南隅櫓が残っていて、国指定の重要文化財で、現在は城山公園になっている。臥龍渕は旧藩主の遊覧所だったところで市街地中心に近く、肱川の清流に臨み冨士山に相対する景勝地である。深い渕に伏臥する霊龍を見て、藩主が臥龍ヶ渕と命名したといわれる。同所を真下に見る丘上に古式庭園の臥龍山荘があり、一般に公開されている。

 町並み保存

 最近とみに全国的に関心が高まっている歴史的町並み保存は、地元住民の郷土に対する自覚と保存への協力がしだいに浸透していて、観光でも貴重な人文観光資源として認識を深めつつある。朝日新聞社の調査による保存の必要な歴史的町並みの愛媛県分をあげると、南宇和郡西海町外泊の石垣集落、伊予市の町並み、大洲市の城下町の名残りをとどめる格子戸のある軒の低い家並み、宇和島市の城下町などをあげている。
 深い山と豊かな水にとり囲まれた内子町は、江戸時代から明治にかけて、紙と木蝋の生産で全国に名をなし、往時の繁栄ぶりは、今日ある歴史的町並みとして面影を残している。内子町の町並みが認識され始めたのは、昭和四七年の文化庁による「第一次集落町並調査」にあげられたことに始まる。昭和五〇年三月「アサヒグラフ」に大きく取材掲載され、町並保存会が結成されるに至った。五二年度に文化庁並びに愛媛県教育委員会の助成をえて、広島大学による本格的な調査が行われた。
 内子町の伝統的建造物群として該当する地区は六日市村・八日市村と称せられた、およそ六〇ha、約四〇〇戸に及んでいる。現在保存が進められているのは八日市周辺約一㎞である。ここは旧松山街道で、金比羅道としても栄えたこの地域は、四国遍路の行き交うところであったことから宿場や交易など、近隣の要所としてにぎわいを見せていた。今残されている民家七〇余軒のほとんどは、部厚い大壁と深い下水路で仕切られている。どの家も往時の繁栄を物語るかのごとく、純白の漆喰で塗り固められた大壁には、それぞれ屋号の紋が入り、軒下に見える垂木まで、ていねいに塗り込められている。さらし蝋の生産で一世を風びした製蝋業を中心に町並みを形成している。本芳我邸・上芳我邸は、この業界の最たるものであったが、それは当家の紋様を彫り込んだ屋根瓦が随所にあることでも察せられる。内子のさらし蝋は明治二七年(一八九四)のパリ博覧会に出品し入賞するなど、製品の優秀性で知られていた。本芳我邸は、一〇〇〇坪(三三〇〇㎡)の敷地のなかに庭園と蔵を配置し、土蔵は漆喰となまこ壁で飾られ、本宅は正面を繊細な彫物をあしらった格子で飾り、南面は城郭風の窓格子と庇、裏側は数寄屋風に、さらに築山に面した北側は当時の洋館を思わせる。なお、宇和町にも古い屋並が残っており保存が検討されている。