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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

2 大型店の進出とその影響

 大型店の進出

 セルフサービス方式による小売店、いわゆるスーパーマーケットは、昭和二八年に東京に初めて立地した後、低価格、商品の豊富さがうけて全国的に普及した。三九年には、セルフサービス店は三六二〇店舗、年間販売額約四〇〇〇億円で、小売業全体のわずか四・七%を占めるに過ぎなかったが、五四年には、店舗数一万九一七二店、販売額約一一兆円へと急増し、小売業全体の約一五%を占めるまでに急成長した。この間に、小売業全体の店舗数、年間販売額の伸びはそれぞれ一・三倍、八・八倍であったのに、スーパーマーケットのそれは五・三倍、二七・八倍であった。
 愛媛県でスーパーマーケットの息吹きが現れたのは、昭和三〇年代の初めころからで、三二年に、松山に開店した「主婦の店大街道店」がその本格的な第一号店だった。県内でのスーパーマーケットの進出が著しくなってきたのは、四〇年代に入ってからで、とくにフジの店舗開設は目立って多くなり、四二年に宇和島店を開店して以来またたく間に県内一円に開店し、五〇年までに一七店舗を数えた。また、四〇年代には全国的なスーパーチェーン店の立地も見られ、まず愛媛いずみが四三年に松山市に、続いてダイエーが四五年に松山市、同じく四七年に今治市、ニチイが四八年に松山市に開店した。
 県内におけるスーパーマーケットの実績は、四三年に販売額一五七億円で小売業全体の九%であったものが、その後増加の一途をたどり、五四年には同じく一六・八%を占めるまでになった(表6―18)。ちなみに、この期間に小売業全体の販売額の伸びは約四・七倍であるが、スーパーマーケットは八・七倍と約二倍の伸びであった。またスーパーマーケットはしだいに大型化していく傾向が見られ、同期間に商店数と従業者数の伸びが二倍以下であるのに対して、売場面積のそれは三倍以上になった。
 百貨店の県内への進出も見られた。三越松山支店が昭和二一年に最初の百貨店として開店した。これ以後しばらくの間その進出を見なかったが、三〇年代後半から四〇年代にかけて、新居浜市に別子大丸、今治市に今治高島屋と今治大丸が立地し、四六年には中四国地方で最初のターミナルデパートとして松山市駅に「いよてつそごう」の開店をみた。
 スーパーマーケットと百貨店は売場面積が広いことから、統計のうえで大規模小売店(一般には大型店)と称されていて、売場面積一五〇〇㎡以上を第一種大規模小売店、五〇〇㎡以上一五〇〇㎡未満を第二種大規模小売店と分けている。これらすべての大型店の県内での立地状況を見ると、昭和四〇年には店舗数一九、売場面積五万一二三八㎡であったものが、その後急激に増加して、五五年には店舗数一五八、売場面積約三二万㎡と、店舗数において八・三倍、売場面積では五・一倍の伸びとなった(図6―24)。大型店の立地の時期で見ると、第一種大型店は四六年から五〇年の間が一五店舗、七万八〇〇〇㎡の立地で最も多く、第二種大型店は時期がずれて五一年から五五年の間が多くて、五一店舗、五万㎡の立地をみた。このようなスーパーマーケットや百貨店の急激な立地は、地元商店街との間で激しい競合と対立関係を生じることとなって、松山市の場合には、全国的にも有名なほどの「流通戦争」とまでいわれている。
       
 大型店の分布

 愛媛県内の大型店は、第一種が四一店、総売場面積二〇万二一六七㎡、第二種が一二〇店、売場面積一一万九四四五㎡に達している。その分布では、第一種が都市部に集中していて、第二種は都市のほか郡部にまで広く分布している(図6―25)。このうち松山市が店舗数はもちろん売場面積とも最大で、今治市・新居浜市・宇和島市などがこれに続く。一般的な傾向としては、都市の規模と大型店の店舗数、売場面積との間には密接な関係があるとみてよい。
 地域の人口を売場面積で除したものは、一般に支持人口といわれるが、これは大型店の集中の程度を表す指標となる。この支持人口から大型店の分布の特色を見ると、今治市が一㎡当たり二・六人と最も過密である。今治市は、中・四国地方でも有数の大型店の過密地域であるが、これはその個人所得の高さや本四連絡橋今尾ルートの架橋地点に当たることなどから、立地上有利とみて、四〇年代後半から今治大丸や今治ジョッパーズプラザなどの大型店があいついで進出したことによる。今治市につぐのが松山市で、この両市以外にも一般に都市部の支持人口は郡部に比べて低く、大型店の立地密度が高い傾向が見られる。

 大型店と地元商店街の対立

 大型店の急激な進出は、限られた商圏人口の中に新たに大型店が立地するわけであるから、地元の商店街にとっては経営の基盤そのものを犯されかねない問題となる。大型店の進出が、地元商店街に大きな影響を与えた顕著な例を今治市に見ることができる。同市は、大型店が集中立地したために商店街の中心が大きく移動したことで有名である。かつて栄えた本町商店街の中心性は、交通条件の変化と大洋デパートの撤退によって銀座商店街に移った。その銀座商店街も、ドンドビ交差点周辺への大型店の集中立地によって、交差点に近い常盤町三丁目が新たな中心街となった。
 大型店の急激な進出に対して、地元の中小小売業を保護する目的で、昭和四九年にそれまでの百貨店法を改めて大規模小売店舗法が制定され、五四年には改正大規模小売店舗法の制定をみた。この法律は五〇〇㎡以上の売場面積をもつ大型店の新設に対しては、商業活動調整協議会(商調協)の審議を経なければ認可されないというものである。
 大規模小売店舗法は、大型店設置の届出があればその都度地元で調整するというもので、明確な法的基準がないため、届出があるたびに大型店と地元商店街は対立を繰り返してきた。松山市では、これまでダイエーが進出した昭和四二年、三越松山支店増床、いよてつそごう、ダイエー千舟店新設のあった四五年、いよてつそごう増床、ダイエー南松山店新設など合わせて一二店、その売場面積五万四〇〇〇㎡の申請が相次いだ五二年と、過去三回大型店をめぐるいわゆる「流通戦争」を経験してきた。とくに五二年には調整が難航し、調整完了後の五三年には、市内の小売商業六団体が五五年末まで大型店の出店は一切認めないという「凍結宣言」まで出す状態であった。
 この凍結宣言は法的拘束力はないものの、その後の三年間は大型店の新設・増床は抑えられてきた。しかし、凍結宣言の切れた五六年からは大型店の新設・増床の申請が相次ぎ、現在二四店、売場面積五万八六四五㎡という既存大型店の四三・六%にも相当する全国でも例を見ない申請状態となっていて、第四次流通戦争が展開されている。さらに最近の特徴としては、商調協での調整を必要としない五〇〇㎡以下のスーパーマーケットが数多く進出していて、地元商店との間で新たな対立を生んでいる。

表6-18 愛媛県におけるスーパーマーケット(昭和43-54年)

表6-18 愛媛県におけるスーパーマーケット(昭和43-54年)


図6-24 愛媛県における大型店の進出状況(昭和35-55年)

図6-24 愛媛県における大型店の進出状況(昭和35-55年)


図6-25 愛媛県における大型店の分布

図6-25 愛媛県における大型店の分布