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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 バス会社の乱立とその統合

 バス会社の乱立

 わが国のバスの創業は明治三六年(一九〇三)であるが、県内におけるバス営業は、同四四年(一九一一)に松山市(木屋町口)―堀江間に馬車に代わって運転されたのを最初とする。県内で最初のバス会社は、大正五年(一九一六)、八幡浜の医師により設立された伊予自動車で、八幡浜―大洲―郡中間の定期輸送が開始された。この当時のバスは、外国製の乗用車を六人乗りに改造したものであったが、伊予自動車が購入した自動車は、資金の関係でいずれも中古車であったため故障も多く、ある時は松山―八幡浜間で二十数回パンクして夜が明けたという、今では信じられないようなエピソードもある(写真6―3)。この後、東予地域では川上・周桑・今治自動車、瀬戸内商船、中予地域では愛媛・中予・面河自動車、そして南予地域では宇和島・和田・予州自動車などがつぎつぎとバス事業を開始し、県内のバス事業は乱立状態となった。大正末期には競合する路線が各地で開かれ、激しい顧客の争奪戦をみたが、なかでも松山―久万間は中予・松山・愛媛・面河自動車の四社が競合するという激しいものであった。

 バス会社の統合

 県内におけるこのようなバス会社の激しい競合は、当然のことながらそれぞれのバス会社の経営を悪くさせ、その結果合併の機運が生まれることとなり、昭和元年、まず伊予・中予・面河自動車の三社が合併し中央自動車となった。昭和二年になると、東京の大倉組が四国のバス事業を統合しようとして、県内で最大の愛媛自動車をまず買収し、続いて中央自動車と内子自動車を買収しようと試みた。しかし両者がこれを拒否したため激しい競合が展開されたが、県の取締励行や地元民の同情と協力によって大倉組が敗北し、昭和四年には中央・内子・愛媛自動車の三社による共同経営が断行されることとなった。八年にはこの三社に、さらに郡中自動車が加わり三共自動車が設立され、ここにようやく中予地域の路線の統一が行われた。
 県内を東・中・南予の三地域に区分し、各地域を単一のバス会社に合併・統合しようという計画は、戦時中に国の統制方針に従って実施された。東予地域では、瀬戸内商船が昭和一七年から一八年にかけて、周桑・今治・昭和自動車などを買収し、一八年には、瀬戸内運輸株式会社を設立した。南予地域では、宇和島自動車が四国・三瓶自動車などを一八年に買収し、さらに三共自動車から南予における営業権を譲り受けて路線を統一した。一方、中予地域では、伊予鉄道電気(一六年に伊予鉄道株式会社に変更)が一二年以降資本的には三共自動車を支配していたが、一九年一月に正式に同社を合併し、伊予鉄道が自動車部を設置してその営業を引きついだ(図6―10)。
 戦時中にこのような経緯で県内の民間バス会社は三社に統合されたが、いっぽう、国鉄(省営)バスも戦前にその営業を開始した。昭和九年に三共自動車の路線のうち、松山―久万間を買収して営業を開始して、これを予土線と称した。これと同時に川之江―阿波池田間の川池線運行を開始した。予土線は翌一〇年に久万から佐川まで延長運転され、愛媛―高知間が全通することになるが、これにより松山―高知間の交通はきわめて便利になった(写真6―4)。国鉄バスは鉄道建設の遅れた南予地域にも運行され、一一年の南予線(近永―魚成橋間、土居古市―土居町間)をはじめとして各地域で運転開始をみ、鉄道のない地域の公共輸送機関として重要な役割を果たしてきた。
 統合・合併はあったものの、ほぽ順調に推移したバス事業も、日華事変とそれに続く太平洋戦争のぼっ発でガソリンの使用制限がしだいに厳しくなったため、各バス会社とも運転系統の整理や路線の一部休止を余儀なくされた。やがて、ガソリン車に代わって木炭車が登場し、バス事業は開始以来最大の危機を迎え終戦となった。

図6-10 愛媛県におけるバス会社の統合

図6-10 愛媛県におけるバス会社の統合