データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)
4 自動車化の進展
著しいモータリゼーション
愛媛県に自動車が初めて登場したのは明治末期であったが、道路か狭かったことや、すでに路面電車が運転されていたこと、自転車もある程度利用されていたことなどによって、自動車は一般の人びとの間には急速に普及しなかった。第一次大戦後には、バスが公共輸送機関として利用された。しかし、第二次大戦後には道路整備と国民所得の増加、さらには自動車のもつ「戸口から戸口」への移動の容易さと相まって、その保有台数は急増した。とくに三〇年代後半から始まる経済の高度成長期には顕著な増加を示した。
県内では、昭和三五年に三万二六二〇台であったものが、四五年に二〇万台を超え、五六年には五一万台を突破して、一世帯当たり一台にまで普及した。三五年以降で特に著しい増加を示しだのは乗用車で、三五年の二六六二台から五六年には二八万台を超え、百倍以上の伸びとなり、全車の五五%を占めるに至った(表6―4)。
このような急激な自動車の普及―モータリゼーションの進行に対して、道路整備も急速に進んだものの、前者が道路整備の早さをはるかに上回ったのである。この関係は平均交通量の推移を見ればよく理解できよう。四〇年に道路全体で一二時間交通量が一五四二台であったもの、五五年には、二三九九台へと約一・六倍となった。特に旧一級国道では二五七八台から九六九一台へと実に四倍近くに増加した。これは、道路整備が急激な自動車化に追いつかず、特に都市間連絡に重要な役割を果たしている旧一級国道において、年を経るごとに道路の混雑が激しくなってきたことを示している。ちなみに、松山市と高松市との間は、一一号線利用により四〇年代に約三時間で走ることができたものが、現在では四時間以上もかかっている。
県内の主要道路における自動車交通量をみると、まず、都市部における交通量の多さが目立ち、ほとんどが一万台以上に達している。松山市では二万台を超えるところさえ目立っている。さらに、主な都市との間を連絡する国道も交通量が多く、ほとんどの区間で五〇〇〇台を超えている(図6―3)。このことから、県内では、国道と都市内部の主要地方道が自動車交通において重要な部分を担っているといえよう。
道路整備の進展とモータリゼーションは、地域間の人や物の移動する時間を大幅に短縮するとともに、それに伴って地域間交通量をも増大さす結果となった。現在では松山市から平常時片道二時間で行ける圏域は、モータリゼーション以前と比べると大幅に拡大し、東予地域と南予地域の一部を除く県内全域に及んでいる。このような移動時間の短縮に伴い、地域間交通も松山市を中心に活発に行われていて、松山圏と今治、新居浜・西条、八幡浜・大洲の各圏域との間では、一日一万人前後の移動がみられ、圏域は互いに自動車交通によって密接に結ばれている(図6―4)。
自動車輸送の役割の増大
モータリゼーションの進展は、ただ単に自動車交通を増加させたばかりではなく、人と物の移動における自動車交通の役割を飛躍的に増大させた。これを旅客輸送の交通機関別の分担率から人キロペースで見ると、全国では乗用車は昭和三〇年にはわずか三%であったものが、五四年には四一%となり、鉄道をぬいて第一位となっている。また貨物輸送でも、三〇年の一二%から五四年には三九%となって、鉄道をぬき内航海運に次いで第二位である。
このような全国的な傾向は県内においても同じように現れていて、輸送人員では、自家用乗用車が四〇年にはわずか五・一%であったものが、以後急激な増加を続けて、四三年には鉄道、四七年にはバスをぬいて第一位となり、五五年には過半数を占めるまでになった。これに対して、他の交通機関は停滞的で、なかには減少さえ示している。(図6―5)。自動車交通は、まさに人と物の移動では中心的役割を果たしていて、この傾向はこれからもいっそう助長されよう。
表6-4 愛媛県の自動車保有台数(昭和35~56年) |
図6-3 愛媛県道路交通量図(昭和55年) |
図6-4 愛媛県における地域間交通量と松山からの1時間圏と2時間圏 |
図6-5 愛媛県における交通機関別輸送人員 |