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愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)(昭和58年3月31日発行)

1 製紙・紙加工業

 沿革と立地条件

 県の東部に位置する川之江・伊予三島両市の基幹産業は製紙業で、全国有数の紙どころである。県内の昭和五五年の生産量は一四二万トンに達し、全国の総生産量の一四%を占める。とくに生理用紙の五六%を首位に、新聞巻き取り紙は二五%、ティッシュペーパーでは一九%と高い割合を占めている。
 ところで、この地方の製紙の歴史は、二二〇年から三〇年前の宝暦年間(一七五一~一七六四)にさかのぼるという。銅山川流域に自生する楮と豊かな水によって始められたものであろう。天保一二年(一八四一)には三島に紙役所が置かれるまでに成長した。地場産業発展の要因の一つに先駆者の努力があげられるが、当地方の代表は、慶応年間から明治にかけて活躍した薦田篤平である。彼は、美濃や越前などの先進地から熟練工を招いて技術の向上に努めるいっぽうでは、京阪神地方の市場を開拓することにも努力した。また、篠原朔太郎(一八六五~一九四七)は、紙すきの技術革新に熱心で、和紙叩解に機械と動力を導入したり、蒸気利用の乾燥機の発明も行って生産性の向上に大きな貢献をした。
 機械すき製紙工場が登場したきっかけは、大正三年(一九一四)にスウェーデン製の長網式抄紙機が導入されたことに始まる。さらに、昭和初期には洋紙生産も始まった。その後、手すき製紙は機械すき製紙に、また和紙は洋紙にそれぞれ生産が押されて現在に至った。この地方に製紙業が発展したのは、古くは金生川の水が製紙に適した良質な軟水であったことに端を発し、戦後における発展の著しさは、銅山川からの分水と電力の供給といった水資源開発とのかかわりが最大の要因と考えられる。さらに、県内では地理的位置から阪神地方はじめ大消費地に近く、港湾や海上輸送の便も加わって生産に有利であったこと、そして先駆者の生産や販売に対する積極的な努力と進取的な業界の気風などもあずかっている。そのほかには、労働力でも質が良く賃金が安く、伝統的技術があったこと、用地の取得も容易であり、下請企業の存在などの諸理由も指摘できる。

 機械すき製紙

 川之江・伊予三島両市の機械すき製紙に代表される洋紙の生産は、昭和二二年に四国で最初に当地方で開始された。これに拍車をかけたのは、伝統的な和紙の産地であったことから、製紙にたずさわる人が多く、技術の改良や導入に積極的で、原材料の仕入れや製品の販売体制が確立していたこと、そして工業用水の確保が順調に進んだことである。たとえば、二八年に銅山川に多目的の柳瀬ダムが完成し、多量の工業用水と電力供給が可能になった。これを機会に、製紙工場の新増設がみられ、洋紙・新聞紙・板紙の生産が急増した。また、三三年には工業用水への分水量の増加をみて、川之江・伊予三島工業用水利組合が貯水量七・七万トンの工業用貯水池を完成したこともあって生産量は飛躍的に増加した。さらに、五一年三月の新宮ダムの完成によって、伊予三島市の一六工場と川之江市の三九工場に合計二六・三万トンの給水を可能にした。
 製紙工場は、伊予三島市に三二社、川之江市に三六社を数える。工場は、前者では寒川町の一四をはじめ、村松町八、宮川町五、紙屋町・豊岡町各二、下柏町一となっていて、後者では、金生町一三、上分町一〇、川之江町九、妻鳥町四を数え、金生川流域に多くが立地している(昭和五七年)。この地方で最大の製紙工場は、大王製紙で、同社は、昭和一七年に愛媛・香川・高知三県の機械すき和紙一四社が企業合同で設立し、パルプ・新聞用紙・クラフト紙などを生産している。本社工場のほか、三島工場・川之江工場をもち、全国に広がる支社・出張所などを合わせると従業員は二五〇〇人に達する。これにつぐのが大正一〇年(一九二一)創業の丸住製紙で、新聞用紙・クラフト紙・印刷用紙・白仙貨紙などを生産し、川之江工場のほか、金生工場と新設の大江工場をもち、従業員は九〇〇人を数える。このほか、合成繊維紙「ミキロン」を開発した三木特殊製紙は、二二年の創業で、新しい需要に応じた五〇種以上の特殊紙を生産している。従業員一〇〇人以上の企業は、前述の三社のほか伊予三島市の四国製紙・愛媛製紙、川之江市のトーヨ・国光製紙・伊藤萬製紙・オリエンタル製紙の九社にすぎず、大部分は中小零細企業である。中小零細企業の生産の中心は、技術的にも比較的容易な家庭用薄葉紙や雑種紙で、紙の生産全体の一八%を占めている。
 家庭用薄葉紙(トイレットペーパー)を例に流通機構をみてみよう。この紙は、生活必需品として安定した需要をもっている。原料は木材パルプと故紙パルプに大別できるが、製品自体にはあまり差はみられない。最近は、資源の再利用から故紙パルプメーカーが多くなっている。一般に家庭用薄葉紙は、単価の割にかさ高な商品であるため、輸送費をはじめ保管料、倉庫料などを考えると流通コストの多少が競争条件に反映されて、遠隔地への販売は不利である。その流通機構をみると、生産者で独自に販売網を形成している企業は極めて少ない。そして、大部分は卸売業者からの受注生産によっている。卸売業者(問屋)を代理店とか特約店とよんでいるが、卸売業者のうち産地問屋は、かつてのように消費地問屋のために収集機能を果たすことは少なくなって一次問屋の性格をもつものが多い。また、自らある種類の製品の生産をしながら問屋を兼業するといったところも少なくない。消費地問屋には和紙と日用雑貨、衛生材料、食料品など異業種卸商に分かれるが、中小企業ほど昔からの和紙卸商との取引が多く、大手企業には和紙卸商のほかに異業種卸商への比重が増加してきている。和紙二次店、異業種二次店はいわゆる地方問屋であり、比較的小規模の経営が多い。

 手すき和紙

 県内の手すき和紙製造業は、全国的にみて製品出荷額では福井県についで二位、事業所数では三位で上位にある。その主な産地は、川之江市・東予市および五十崎町である。
 宇摩地方の手すき和紙は、享保・文化年間(一八〇一~一八一七)の発祥といわれている。明治期に入って先覚者の献身的な努力が払われて、産地の形成をみた。とくに、明治一七年ごろに原料としてみつまた(三椏)の利用が開発されてから製紙業界に新分野が開かれた。これによって紙が強くて光沢があり、しかも、きわめて薄葉の良質紙を抄くことができるようになったのである。このみつまたを原料とする半紙を改良半紙と称した。
 この和紙製造業が発達した理由には、『伊予和紙の研究』によると、次の諸点があげられている。すなわち、伊予三島市や川之江市などの生産の中心地は、瀬戸内海に面して、港湾設備が早くから整い、阪神・中国・九州方面との海上交通が至便であった。近くに高知県や徳島県などの原料産地をひかえ、しかも、これらとの陸上交通も早くから開かれていて原料輸送に便利だった。水質が良くて原料の洗滌・漂白に適した金生川があることで、手すき和紙工場がこの川の沿岸に集中しているのはこれによる。現在は、銅山川の柳瀬ダムと新宮ダムから大量の工業用水を得ている。土地の風俗が淳朴で生活程度が低く、しかも、住民は勤勉で、職工賃金が他地方に比べて安かったにもかかわらず能率が高く、かつ雇い主と職工の間は、主従・師弟の情義によって結ばれていた。また、いろいろな紙加工業が地元で発達し、紙の需要が増大したのである。
 このほか、先覚の指導者にすぐれた人材を得たことで、製造業者が進歩的で、旺盛な研究心があって技術の練磨、工程の機械化に努め、先覚者の指導に協力した。生産と販売が独立し、生産者は生産に専念し、伊予三島市や川之江市の紙商人は製品の販売につき独得の手腕を発揮して市場開拓に努力したことなどが指摘されている。
 川之江市には二二業者が手すき和紙を生産している(五六年)。そのうち一五業者は金生川流域に分布しているが、これは原料の洗滌・漂白・紙すきなどに大量の水を必要とすることにもとづくものである。かつて、昭和三四年には一一九業者も数えたことからすれば、この減少は機械すきの優位によったものである。しかし、最近では民芸ブームや手作りによる高級紙への需要の高まりで、生産量は増加をみせている。手すき和紙業界の最大の課題は、伝統的技術に依存していることから、従業者の高年齢化か進み、男子五七歳、女子五八歳にも達し後継者をどのようにして確保するかにある。(写真5-9)。
 東予市の手すき和紙は「周桑の和紙」として知られ、奉書紙・画仙紙の生産が主で、その分布は、国安地区と石田地区にわかれる。前者は大明神川の伏流水を利用することによって立地したが、その起源は天保四年(一八三三)といわれている。後者は、文久二年(一八六二)に森田重吉が藁を利用する製紙を考案したことに始まるといわれ、中山川の伏流水の利用が立地条件となっている。五六年現在、両地区合わせて二〇業者を数え、二・四億円ほどの生産をあげている。
 大洲半紙で知られる五十崎町の手すき和紙は、元禄年間(一六八八~一七〇四)に越前から伝えられ、大洲藩の保護奨励で発達した。肱川流域の楮の生産と水のあることが発展の要因としてあげられる。五五年現在、天神製紙など六業者で約二億円の生産をあげている。

 紙加工業

 伊予三島市・川之江市を中心とする紙加工業は、地域の基幹産業であるパルプ・製紙工業の関連産業として発達した。その発生をみると、江戸末期から明治初年にかけて元結などごく限られたものの加工が行われはじめ、明治末期から大正初期には水引きが登場した。大正末期から昭和初期にかけて紙器などが加わって製品が多様化した。とくに戦後の紙文化の開花によって製品のより一層の多様化が進んだ。川之江市の紙加工品の製品別生産額の割合をみると、衛生紙綿が一位で二一%、ついで不織布一三%、文庫紙七%、以下、荷札・金封・紙函・手工紙・ろう引紙・封筒・水引細工などきわめて多品種にわたっている。同じく川之江市の紙加工業者一二七について、その創業年代をみると、明治時代が四、大正時代が一〇、昭和に入って二〇年までが八、二〇年代二七、三〇年代二八、四〇年代五〇となっていて、創業が新しいものが多い。それは生産品目が多種類にわたり、しかも複雑に細分化された生産工程であることが、理由として考えられる。しかし、その経営規模はきわめて零細で、資本金五〇〇万円以下が五三%、従業員でも二〇人以下が七三%も占めている(五六年)。
 川之江市による実態調査では、当時一二〇の紙加工業者の分布は、川之江町が最も多くて三八%、ついで妻鳥町二三%、金生町一九%、上分町一四%、川滝町、金田町となっている(五四年度)。これまで川之江町や金生町の市街地に、家内工業的に分布していた加工場が、規模の拡大のためや交通の変化に対応するために、それらの周辺地域に分散立地していく傾向がみられる。国道一一号線や一九二号線沿いの工場や妻鳥町南部の工場がその例である(図5-13)。なお、妻鳥町の二八工場のうち九工場は水引・水引加工・金封などの加工業者で、伊予三島市の村松地区とともに「伊予の水引」として長野県飯田市や京都市とならんで有名である。なお、川之江市にも三五、伊予三島市には二五の水引製造業者がある(写真5-10)。