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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)古式豊かに練り歩く

 **さん(温泉郡重信町牛渕 大正5年生まれ 83歳)
 **さん(温泉郡重信町牛渕 大正12年生まれ 76歳)
 **さん(温泉郡重信町牛渕 昭和20年生まれ 54歳)
 **さん(温泉郡重信町牛渕 昭和34年生まれ 40歳)
 神輿渡御に伴う行列をお練りというが、行列に供奉(ぐぶ)する出し物と、これを歓迎する氏子や観衆との交歓によって、さまざまな神事芸能を生み出し、一群の人々が行進し移動するなかで、激しい興奮、陶酔、忘我の状態になることがあったといわれている(①)。松山市に隣接する温泉郡重信町牛渕(うしぶち)にある浮嶋(うきしま)神社の秋季例祭(10月第2日曜日)の練り行事は中予地方ではたいへん珍しい伝統行事で、その起源は不詳であるが、安政年間(1854~60年)の文人橘勝治(牛渕の人で慶応2年[1866年]没)の連歌帳に練り行事が歌われていることから、江戸末期にはすでに行われていたようである(⑫)。この練り行事は神社から五月田(さつきだ)(西)御旅所、厳島(いつくしま)(宮島)御旅所、堀池(ほりけ)御旅所までの約1kmの行列である。
 若いころから祭りにかかわり続けて、奉賛会の会長を経験し、賛助会を立ち上げ、若い者を育てながら今も祭りにかかわっている**さんに浮嶋神社の祭りとお練りの様子を聞いた。

 ア 祭りの運営

 「(**さん)昭和40年(1965年)過ぎに青年団がなくなった後、牛渕では祭りを運営するために45歳以下の者で組織した秋祭り奉賛会が作られ、祭りについてはこの奉賛会が仕切るようになったんです。地区総代はいても、祭りの権限はすべてこの奉賛会に与えて、神輿を出すか出さないかの権限さえ与えたんです。奉賛会の会長、会計、輿丁長(よていちょう)(神輿をかく者たちの責任者)を三役といい、会長は全体、会計は費用一切、輿丁長は神輿運行と、それぞれの分野の最高責任者です。また、練り係長、獅子係長がいて、それぞれの責任者になっています。そのほかに、牛渕の3地区にはそれぞれ助丁(じょてい)がいます。輿丁は、練りや練り戻しを中心に神輿をかきますが、助丁は、輿丁より若い者で構成して、それぞれの地区における神輿の町回りの責任を持っているんです。そして賛助会が奉賛会を手助けをしています。これは10年ほど前、わたしが奉賛会の会長をしていた時に、若い者も少なくなっていく、このままでは継続することは危ないなと思って、45歳を越えて60歳まで層を広げて参加するようにした会です。だからあくまでも奉賛会が主役で、賛助会は手助けをする会なんです。今もこの形で地区全体が一つになってうまく機能しているようです。」

 イ お練りの流れ

 「(**さん)牛渕には南の町、北の町、堀池の3地区があり、それぞれにお旅所があります。10月第2日曜日、浮嶋神社を早朝6時30分ころに宮出しして、この3地区のお旅所までお練り行列が続くんです。それぞれのお旅所では神事があり、相撲練りや豊栄(とよさか)の舞(乙女の舞とも呼ぶ)などの行事があってその後休憩を取ります。先輩の話では、最初のお旅所で、祝詞(のりと)が終わったら、めでたい三番叟(さんばそう)の獅子(しし)をつかい、2番目のお旅所では、神楽(かぐら)の獅子、最後のお旅所では古三番叟の獅子をつかったそうです。約1kmをお練りが進む間に、40から50mの間隔になりましょうか、辻(つじ)々では相撲練りと奴の毛槍(やり)投げなどが披露され、地域の人々の楽しみになっています。さらに昼間に各地区を神輿が練り歩いた後、夕方の火灯(とも)しころに、練り戻しといって、厳島御旅所から浮嶋神社までのお練りがあります。したがって牛渕の祭りは町の中では、お練りに始まってお練りに終わるわけですが、実際は今年(平成11年)の場合だったら8日の夜、神社の舞殿(まいでん)で、祭りの無事の運行を願っての神楽奉納から始まり、9日の獅子舞奉納、10日の宮出しのお練りと練り戻しによる宮入りの後、神社の境内で獅子舞を奉納して祭りが終わるわけです。」

 ウ 練りの特徴

 「(**さん)牛渕の練りの特徴は、100年以上にわたって、できるだけ古式を守りながら継承してきたことでしょう。約1kmの道のりを小学生から大人までの170名余りがさまざまな道具を手にして、練り歩くわけです。その順序も進み方も決まっています。練りの途中の『締め』も特徴でしょう。各辻へ来ると、練り係長は『締めます。』と言って笛で合図します。拍子木がカチカチと鳴らされ、行列を止めます。そこで先頭の方では、太鼓に合わせて獅子をつかい、中間では笛と太鼓が奏され、相撲の型、奴の毛槍振りや毛槍投げが披露され、後尾では神輿振り(祭礼の時神輿をかく者がこれを振り動かすこと)をするんです。特に相撲練りと振り奴は見物でしょう。相撲の一つの型が終わると、笛の合図で、またゆっくりと行列は進みます。もう一つの特徴は『練り戻し』でしょうか。神輿だけの宮入りが一般的だと思いますが、浮嶋神社の神輿は、朝のお練りと全く同じ行列を組んでお宮まで帰るんです。牛渕では夕方からの『練り戻し』の方が宮出しの時よりも人の集まりも多くにぎやかで、氏子もそのままお宮まで供奉して行き、宮入りまで見届けます。」

 エ お練りのさまざまな出し物

 練り行事日程と行列の順序は、図表2-3-1のとおりである。
 お旅所の移動とお練りの出し物のいくつかについて宮司の**さんに聞いた。
 「今の牛渕集落は神社の北側にありますが、昔は神社の南側一帯にあったものを重信川の氾濫(はんらん)などで現在の地に移したんです。だから本来のお旅所は神社のちょうど南辺りにあって、その区域の名を取って五月田のお旅所と言っていました。それで現在のお旅所に移って(嘉永2年[1849年]再興の鳥居がある)も、昔の名前を取って五月田のお旅所と言いますが、神社の西側にあるので西のお旅所とも呼ばれています。
 お練りにはさまざまなものが出ます。神様に関与するもの、大名行列から取り入れたものなどが考えられますが、一つ一つの由来は必ずしもはっきりしない部分があります。先頭の手桶(おけ)には水を入れて、榊(さかき)でお祓いしていくんです。獅子は昔からお旅所でつかったものです。猿田彦(*18)(図表2-3-1[以下図表と記す]④参照)は浮嶋神社のお練りでは、もとは猿女君(さるめのきみ)(*19)が出ていたんです。わたしの先祖で相原宗勝(1785~94年)の書いた祝詞に『有司の人等は笛鼓を鳴し 五十鈴の音も由良由良と 猿女君の御跡を踏み 神楽の曲調を供奉り』とあり、明治の初めまで大祭の時には、この祝詞を続けて使ってきているんです。猿女君の面は目が四つあって、昔のお練りにはずっと出してきていたんですが、衣装が使えなくなって途絶えさせていました。それを今年は神楽の衣装で出すようにしたんです。小刀榊とお鏡榊(図表⑨⑩)は40から50cmほどの榊に小さな剣と鏡をつけたものです。本来は剣と鏡と玉の三種の神器(天皇位継承の標識として受け継がれてきた三つの宝)を象徴したもので、ここでは鏡と玉を一緒に付けています。大魔(だいま)(図表㉜)は提婆(だいば)ともいわれていますが、神楽では大魔として出てくるので、大魔と記しています。提婆と同じで、悪霊を払い、神輿の露払いをするんです。紫さしばと菅さしば(*20)(図表㊲㊳)は一対のもので、神様に光が直接当たらないように陰を作るものです。御矛輿と御玉輿(図表㊴㊵)は、矛と玉を神輿のようにして担いでいますが、当社の祭神である伊邪那岐命(いざなぎのみこと)(*21)、伊邪那美命(いざなみのみこと)(*22)の象徴で、非常に大事な出し物なんです(写真2-3-29参照)。練りの特徴としては浮嶋神社独特の相撲練りや振り奴がありますが、いずれにしても皆さんに祭りに参加し、練りに参加して楽しんでもらい、氏子とそれを守る神さんとが触れ合える場となってほしいと思っています。」

 オ 鈴神楽から豊栄の舞へ

 女の子には魅力的だという豊栄の舞について、宮司夫妻の**さんと**さんが語ってくれた。
 「(**さん)浮嶋神社では、もとは一人で舞う鈴神楽をずっと続けていたんです。わたしのおばや姉妹が天冠(てんがん)という非常にきれいで華やかな冠をかぶって舞っていました。娘たち二人も小学校を卒業するまで舞いましたが、これは鈴と扇を持って太鼓に合わせて舞うもので、神職の家の娘だけが舞っていたんです。だから娘たちが大きくなってしまうと、別の舞に切り替える必要もあったんです。そのころに浦安の舞(昭和15年宮内庁楽部多忠朝創作)や豊栄の舞(昭和25年神社本庁制定)を取り入れたんです。」
 「(**さん)わたしどもの神社では、浦安の舞と豊栄の舞が始まったのは一緒でした。浦安の舞を初めて取り入れたのが**さんのお姉さんの時でした。それが45年ほど前でしょう。そのころは鈴神楽と浦安の舞や豊栄の舞を一緒に舞ったこともありました。新しい舞は最初は神社と氏子を結ぶために、氏子の子供たちに、お舞などをさせるのもよかろうということで、氏子総代さんの肝(きも)入りで、子供を連れて、松山市道後(どうご)の伊佐爾波(いさにわ)神社のふもとにあった愛媛県の神社庁へ習いに行ったんです。そしてその方たちの次の代の時には、その習ってきた者とわたしとが一緒になって子供たちに次々と教えてきました。浦安の舞は中学生4人が舞い、豊栄の舞は小学生2人で舞っていました。習う子の人選については、総代さんがいろいろ世話をしてくれました。だけど、浦安の舞は4人一組でないとできないし、なかなか難しいんです。なかなか覚えにくいので、とうとうなくなってしまって、豊栄の舞だけになりました。豊栄の舞は何人でもできるのです。浮嶋神社で豊栄の舞を始める時には二人で始めました。前のレコード盤がなくなりまして、新しい舞に変わったのですが、それは4人が一組の舞になっていました。初めは蓄音機のレコードに合わせて舞っていたのを、やがてカセットテープに取ってそれをかけて教えました。今は東京の神社本庁から、新しい舞のビデオテープを送ってもらいまして、それを息子の嫁に渡して、指導を任せています。今は二組で8人が舞っていますが、舞いたいという子が多いんです。女の子が赤い袴(はかま)で花かんざしを髪に挿すと、かんざしが前に垂れて、宮出しの時など朝日が当たるときらきら輝くんです。四手(しで)(玉串(たまぐし)やしめ縄などにつけて垂らす紙)を付けた榊を持って舞う姿が優雅な中にも厳かさがあってすてきだといいます。魅力的なんでしょうね。」

 カ お練りの見せ場

 今年(平成11年)練り係長を担当した**さんに、お練りの見せ場になるという相撲練り、振り奴について聞いた。

 (ア)相撲練り

 「お練りは古式を受け継いだ伝統的なものですから、ゆったりと、しかし、締めるところはしっかりと締めながら演じて、見る人にも喜んでもらいたいと思いました。お練り行列の170余人がそれぞれ持つ物あり所作ありで、それぞれの役の衣装も見所です。子供たちも14人は裃(かみしも)を着て、舞姫8人も飾りの衣装を着け、他の子供たちも祭りの法被(はっぴ)に身を固めます。宮出しをして参道を通って最初のお旅所に着きます。お旅所では3か所ともですが、神輿を据え、太鼓が響き、厳かな神事の後、大人と子供の相撲力士による相撲の型の披露、8人の舞姫による豊栄の舞(乙女の舞)を行います。
 化粧回しを締めた相撲力士は、大人4人と子供4人で、正規の衣装を着けた子供の行司が付きます。大人も子供も同じ型です。土俵の東西南北に力士が上がり、その中に行司が割って入り、次の口上を述べます。

   東西東西(とうざいとうざい)、この古(ふ)る事(ごと)を代々(よよ)にして、今やこの国この里の五穀成就、民安く、
   斎(いつ)かん(心身を清め神に仕える)ための神祭り。まった、土俵四本柱、水引き巻絹(まきぎぬ)、あるいはこの
   行司が持ちたる軍配に至るまで、古実と存することなれば、時の神慮に是叶(これかな)ふ。うつせば、あらあら言
   上、練りご一覧。

 口上の後、力士は、東西南北の4人一緒に、また東西と南北の2人ずつによって、順次同じ型を披露しますが四股は踏みません。①両手を水平に伸ばし切る型。②額の前で両手をもみ返す型。身体を斜めに倒して、倒した方の片手を水平に伸ばし切る型などがあります。①は両足を開き背筋から頭までをまっすぐに、手の平を上にして肩から手の先まで水平に伸ばし切り、その瞬間に手の平を返すんです。②は額の前へ両手を上げ、手の平同士を片方の親指の先と、他方の小指の付け根を合わせます。その時肘(ひじ)から先きは水平になります。その手のひらを合わせたまま、もむようにして一瞬のうちに一回転させて合わせ直します。そうした時の素早さ、『切れ』の良さが必要なんです。体は垂直に微動だにしないようにどっしりと構え、流れるようなゆったりとした動作の中で、決めるところは一瞬一瞬をしっかり止めて切り返すんです。その動の中の一瞬の静と次の移動への切り替えの『切れ』の良さが大事なんです。東西の2人、あるいは4人の所作がそろうと見ていて気持ちがすっとするほどきれいですよ。相撲練りは、お旅所やお練りの途中だけではなく、社務所の前でお練り出発前と練り戻しの最後に披露します。」

 (イ)振り奴

 「奴の毛槍振りはお練りの途中で行いますが、この芸そのものも振り奴と言います。振り奴は4人一組の二組で8人です。2本ずつの棒の先端に白と黒の毛を付けた毛槍を二人ずつが振っては回しながら、次の瞬間に他の二人に投げ渡すわけです。これを辻々で繰り返しながら進むんです。毛槍は長さ3mほどで、重さ10kgたらずでしょうか。これを垂直に立て、右側の者は右手で、左側の者は左手で持ち、毛槍の最下方1mほどの部分を使って毛槍を回すんです。使う部分の上の方は首と肩で支え、下は脛(すね)から股(また)の辺りで支えながら片手で回すわけです。槍を持たない方の手は水平に出し、伸ばし切ったところでパッと返します。それと同時に差し出した方の足に重心を置き、反対の足を跳ね上げるんです。この足の動きに合わせて体の重心を移動し、バランスを取りながら、首での支えや腰の回転、手首の力が一体となって回さなければ毛槍の先端がきれいに振れんのです(写真2-3-32参照)。また毛槍を投げる時、相手が受けやすいように放(ほう)らなければなりません。投げる者は、片手は、毛槍を支えて投げる方向を定め、他方の手は槍の下に手を当て、押し出すように放り上げて、相手の手元に毛槍が垂直に落ちるようにできればいいんですが、これが難しいんです。斜めにでも投げられると、10kgほどもある、3mの長さの槍ですから、受ける方がバランスを崩すんです。受ける方も、体を左右に揺らす動作をして投げる者に合わせています。それを3mほどの間隔で投げて渡すんですから、投げる方も受ける方も結構難しいんです。練習を十分しないとうまくはいかないものです。」

 キ お練りとむら人

 **さんにお練りとそれを通しての祭りへの思いについて聞いた。
 「牛渕のお練りは、猿田彦や悪霊を払う大魔もいます(写真2-3-33参照)。大名行列に加わった振り奴もあれば、裃を着けた子供たちも参加し、着飾った舞姫それに神獣、神器、威儀物も結構あって、多彩な者の行列です。起源は不詳ですし、時代時代で変化しながらのものでしょうが、100年とか150年以上も前からのものだといわれています。いずれにしても、少女たちの神楽音曲(かぐらおんぎょく)を奏する笛や太鼓の響きや神輿振りの鈴の音の響きに合わせて進みながら、しっかりした相撲練りがあり、振り奴があり、獅子舞もあります。それらが氏子の人々の楽しみとなって続いています。
 しかし、神輿を忘れたら見せ物になる、それではならんぞとよく若い者に言うんです。神輿は御霊(みたま)が入っているからかくのであって、神様に喜んでもらい、氏子にも喜んでもらってこそ練りもあるんです。そのためには、めりはりをきちっとつけて、100年続くための祭りを構築しようと思ってしているんです。
 神楽は今年の祭りがうまくいくようにとの願いを込めて宵祭りに奉納します。子供たちに神様への敬けんな気持ちというか有り難さを知ってもらうために獅子舞を奉納させるんです。だからそれは境内の神様の前で奉納させます。こうした気持ちの中で、神輿をかいて、参道を出る『お練り』が始まるんです。練りは御霊の入った神輿とむら人との触れ合いの場です。だからこそ、しっかりゆったりと練りながら辻々の『締め』もあるんです。
 牛渕にはお練りの通り道に、神様の依代(よりしろ)であるお注連(しめ)をずっと張りますが、これはむら人の手で縄をない、それに四手(しで)を垂らしていくんです。夜の練り戻しの時には、町行灯(あんどん)に灯がともります。これは毎年、障子を張り替えるだけで済む。これなら氏子の人たちにも負担無く続けていけると考えて、辻々に掲げられるように作ったんです。それには子供会、奉賛会、賛助会、各町の人々などが、自由に思い思いの絵や歌や句などを描きます。そうすることによってむら人が祭りに参加し、神様を迎え、皆で祭りを盛り上げることができるものにしたいと思ったんです。その町行灯の下を通って練り戻しの行列が宮入りに向かい、氏子が一緒にお供します。宮出しから練り、練り戻しから宮入りへときちっと納めてこそ、お練りは完結するんです。」


*16:即位式などの大礼のとき、威容を整えるために奉持する弓、矢、太刀、矛、盾など。
*17:四神(天の四方の方角をつかさどる神。東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は玄武)を描いた四つの旗。
*18:神社の祭礼の時、行列の先導をするもの。天狗の面をかぶり矛を持つ。天孫降臨の故事から起こる。
*19:上代、神祇官の一つ。大嘗祭などの神に神楽の舞などの奉仕をした女官。
*20:翳(さしば)。天皇が即位などの大礼に高御座(たかみくら)に出御のとき、女人が左右から差しかざした。鷹の羽、薄絹な
  どで軍配、団扇(うちわ)の形に作り、3mほどの長柄をつけたもの。
*21:伊邪那美命とともに国生みを行った男神。天照大神(あまてらすおおみかみ)(太陽)や月読尊(つくよみのみこと)
  (月)、素戔嗚命(すさのおのみこと)を生み、治めさせる国々を定めた。
*22:伊邪那岐命とともに国生みを行った女神。

図表2-3-1 お祭りの行事日程と行列の順序

図表2-3-1 お祭りの行事日程と行列の順序

浮嶋神社提供資料より作成。

写真2-3-29 四神旗、さしば、御矛輿、御玉輿

写真2-3-29 四神旗、さしば、御矛輿、御玉輿

平成11年10月撮影

写真2-3-32 振り奴の練習風景

写真2-3-32 振り奴の練習風景

浮嶋神社境内にて。平成11年10月撮影

写真2-3-33 大魔

写真2-3-33 大魔

平成11年10月撮影