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愛媛の祭り(平成11年度)

(1)波を蹴立てて

 **さん(越智郡大三島町宗方 昭和19年生まれ 55歳)
 大三島町宗方の櫂伝馬は神祭りとして行われる舟漕ぎ競争で、勝負によって神意をうかがう年占(としうら)(一年の吉凶を占うこと)の意があり、舟に乗り漂い揺れることで新しい力が備わるものと信じられていたという。またこの行事は宗方の厳島(いつくしま)神社例大祭に行われるもので、勇壮な櫂伝馬競争として知られており、文化11年(1814年)の「当組祭礼の覚」には櫂伝馬の記事があるといわれる(①)。宗方は大三島の南西に位置する一地区である。この宗方の祭りは、かつては旧暦6月17、18日の二日間にわたって行われ、他の地域では宮島祭とか管弦祭とか呼ばれるが、宗方では十七(じゅうしち)夜の祭り、通称を櫂伝馬と呼ぶ海の祭りである(現在は旧暦6月17日に近い土曜日か日曜日に行われることが多い)(②)。
 **さんは19歳の時から30年ほど櫂伝馬に乗り続け、櫂伝馬の保存継続に努めてきた。その**さんに櫂伝馬について語ってもらった。

 ア 櫂伝馬の見所

 「櫂伝馬は、厳島神社のお祭りにするんです。神輿(みこし)は宮島さんと呼びますが、お祭りそのものは、櫂伝馬とか十七夜の祭りと言っています。その櫂伝馬は神輿が宮出しする10時ころには始まります。神輿が海岸に出て来て、そこで、ワッショイ ワッショイとかいてにぎやかしをするころ、沖では激しい漕ぎ競べが展開されているんです。今は神輿を降ろして、かき手は観客と一緒に漕ぎ競べを見たりしていますが、昔は海上渡御(とぎょ)の櫂伝馬に乗せるまで神輿は決して地面に降ろしてはならんかったんです。そうした漕ぎ競べの後、櫂伝馬は神輿の海上渡御の渡し船になり、お召(め)しという、海上にある船のお旅所まで3隻の櫂伝馬が横並びに一つになって神輿を乗せて送るんです。3隻の櫂伝馬は岸壁近くの海上をゆったりと進みながら3回左回りをしてからお召しに着けるんです。この時、ボンデン振りや四斗樽(しとだる)の上で剣櫂(片方の先端が剣のようになった櫂)を振っての踊りが披露されます(写真2-3-1参照)。このお召しは、ところによっては、御座船(ござふね)とかお召し船とかいわれますが、宗方では『お召し』と呼びます。」
 このお召しは昭和30年代までは砂利運搬船を2隻並べて作っていたそうだが、今は横15mと縦20mほどの工事用台船を使い、錨(いかり)でしっかりと固定している。宮出しした神輿は一日中このお召しにあって、櫂伝馬を見守っている。今年(平成11年)の宮入りは夜中の1時ころになった。
 「午前中に櫂伝馬の長距離競争をして、昼休みに入り、夕方から櫂伝馬を再開します。夜食の21時ころまでして、一息入れて、肥島(ひしま)へ漕ぐ(*1)という形だけの儀式を行い、お召し回りをし、最後の漕ぎ競べの後に宮入りとなります。宮入りは今は23時としていますが、0時、1時ころになります。その間延々と漕ぎ続けるわけです。だから、宗方の櫂伝馬は3隻の伝馬船が、ゴールを目指す競争は1回だけで、後はゴールのない競争なんです。岸壁すれすれの船の回転操作や、近づき合った時の抜く抜かさぬの激しい技の応酬、また近づき過ぎて櫂がもつれ合った時の櫂の操り方や、船のさばき方など操船技術の争いなんです。そうした瞬間瞬間の力と技が見所なんです。」

 イ 櫂伝馬船

 (ア)農船から専用船へ

 「今の船は長さ約9.5m、幅1.8mで、宗方出身で大阪方面に出ていた方から櫂伝馬専用船として昭和39年(1964年)に寄贈されたものです。その時に、弥栄(いやさか)(ますます繁栄すること)を願ってでしょうか、『ほうらい、ほうえい、ほうしょう』と名付けられました。この名は宗方沖にある三つの小島の蓬萊(ほうらい)、蓬栄(ほうえい)、蓬祥(ほうしょう)の名に基づくといわれています(③)。
 宗方の櫂伝馬に使われる船は、昔は農船で山伝馬(やまでんま)(*2)といわれ、農家から新造船や、速そうな船を探して借りて使ったものです。今のものは櫂伝馬船専用の船です。漕ぎ手の座る部分は幾分湾曲して昔の農船とは違いますが、その作り方は同じで5枚の板と決まっています。一番下がカワラといって受けになる部分、その上に、左右ともに中棚そして上棚といわれる板が張られます。その上に、櫂(かい)ずりといって櫂を結ぶひもを付ける板(厚さ2.5cm、幅10cmほど)が打ち付けられます(写真2-3-2参照)。今は市販のロープで結びますが、昔はシュロ縄でしたから、力を入れる度に、ギュッギュツと小気味よく鳴ったものです。」

 (イ)主櫂(おもがい)と内櫂(うちがい)

 「櫂は主櫂1本と左右6本ずつ12本の内櫂を使います。主櫂は長さ3.5mほどで船の左後部に据えて、舵(かじ)取りの働きをします。内櫂は1.5から1.8mの小型の櫂で、これで12人の漕ぎ手が漕ぎ進めます。我々は船尾から順番に1番櫂、2番櫂と呼んで、一番前を6番櫂と呼んでいます。海面から櫂の結び目までの長さが船の前後で違うんです。船の後ろほど船べりが低いために、櫂は短いけれど水中に深く入るから、力強く漕ぎ切る体力が要るんです。櫂はサクラの木が基本で強いんですが、競争が激しいし、長時間の漕ぎ競べで、しかも2隻、3隻がもつれぶつかり合ったりして、傷んだり折れたりすることもあるんです。でも値段が高いのでよほど悪いもの以外は、前年の物を補修して使うんです。」

 ウ 地区別から年齢制へ

 「わたしが参加したころは、宗方を浜条(はまじょう)、長間(ながま)、奥(おく)の3地区に分けて、赤、青、ピンクの3色とした地区別対抗の櫂伝馬競争でした。そのころは他地区との対抗意識が強くて、勝つために、その地区地区で秘密を守り、皆一つにまとまり団結していました。夜になってから練習に入り、夜半過ぎに主櫂を扱う人の家に集まっては飲み食いしながら、朝方まで練習の反省やら作戦を練ったりしていました。昭和39年(1964年)からは専用の船になりましたが、それ以前の農船、いわゆる山伝馬では、船を借りてきて競争をしていました。だから、船主に恥をかかさないように絶対負けるなと意気込んだ時代が続きました。船主も櫂伝馬に船を出すことを名誉と考えていたそうです。しかしこうした習慣では、練習後の毎晩の飲み食いや本番終了後の打ち上げの宴会費用など、その主櫂の家には経済的に負担を結構かけるんです。それに若者も少なくなり、青年団だけでは維持することも難しくなってきたので、先輩たちのアドバイスも受け、青年から壮年まで年齢層を広げた青壮年団を作ったんです。わたしが初代の会長をしました。それが昭和57年(1982年)ころでした。そして青壮年団が責任を持って練習から打ち上げまで全部合同ですることにしたんです。同時に地区別対抗から年齢別対抗に変わっていったんです。今は20歳代、30歳代、40歳代と一応年齢別に分けますが、それほど厳密ではありません。要するに3隻の船にいかにうまく人を配分できるかを基準に考えて受け継いできたんです。その分、和気あいあいとなり、昔ほどの対抗意識は少なくなりました。それで昔の人の中には『お前らはへこだすい(気合が抜けて、たるんでいる)、このごろの櫂伝馬は気合が入ってない、つまらん(おもしろくない)。』などと言う人もいます。」

 エ それぞれに役をこなして

 「櫂伝馬に乗る者は、へさき(船首)から順にいうと、ボンデンとその付き添い、漕ぎ手12人、太鼓打ち、主櫂(おもがい)、剣櫂とその付き添いです。剣櫂の付き添いは、立ったままで船尾にいる船全体の責任者が兼ねていて、合わせて18人です。でも夜は3時間以上も漕ぎ続けるわけだから交代用員も乗せています。漕ぎ手12人、主櫂、太鼓打ち、責任者の人数は決まっていても、交代用員などは、臨機応変にしてよいわけです。」

 (ア)ボンデンと剣櫂

 「ボンデンや剣櫂(*3)を振るのは、神輿の『お召し』への海上渡御の時とか漕ぎ競べの合い間で船をゆっくり流す時などにします。幼稚園や保育園の年中組か年長組の子供が船の先端に座ったままで30から40cmほどのボンデンを振るんです。また小学校の4から6年生の子供が、船のとも(船尾)に据えた四斗樽の上に立って、体をひねり踊るようにしながら長さ1mほどの剣の形をした櫂を振るんです。船はあくまでもゆったりと漕がれ、着飾ったボンデンと剣櫂の華やかな姿が流れていきます。勇壮で激しい櫂伝馬の中で、華やかな色どりを添えてくれるんです。」

 (イ)漕ぎ手

 「昔は妻帯者は櫂伝馬に乗れなくて、基本的には独身の若者が乗ったんです。独身者が多かったんです。それでも妻帯者の中には漕ぐのが好きなのもいまして、昼間は乗れないから独身青年に任せているものの、どうしても血が騒ぐからと、夜になるとやみに紛れて、それもほおかむりなんかして乗ったりする者もおりました。やっぱり好きだったんでしょう。とは言っても、わたしたちの若いころは、好きであっても30歳代くらいまでしか乗らなかったと思います。船主の名誉を賭(か)け、漕ぎ手の名誉を賭けての勝負です。したがって体力的にも技術的にも選ばれた者なんです。それだけ青年もいたからでしょうが、若くても使い物にならんものは陸(おか)に上がれと言われたものです。それほどお互いの競争心も強かったんです。
 この宗方の櫂伝馬は前にも言ったように、ゴールのない漕ぎ競べで、延々と3時間でも4時間でも漕ぎ続けるんですから、手の皮がむけ、しりが真っ赤になって、風呂(ふろ)にも入れない者も出てきます。それでもしだすと夢中になるんです。宮入りが迫って終わりに近くなればなるほど、『最後じゃ最後じゃ、やれーっ。』と盛り上がるんですから不思議です。終わった時には疲れ切って、『もうやめた。』という気持ちと一緒に、成し終えたというほっとした安らぎもあるんです。だから翌年の櫂伝馬が近づいてくると船に乗らずにおれんのです。
 漕ぐ時の掛け声は『オーラーエイヤー エヤーガエイ ホラ ヨヤサノサッサイ』と言いますが、耳から覚えたものですから文字化すると人によって幾分か微妙に違うと思います。それに、これはお召しへの海上渡御とか、俗に流すといってゆっくり漕ぐ時の掛け声です。必死で漕いでいる時はこんな悠長な声では太鼓に合いません。その時は、大体は『ヨイサヨイサ ヨイサヨイサ』です。必死になって、うつむいて汗だくになって漕いでいる時は声を出す余裕もないんです。ところがみんなから声が出るようになると調子が合って、船は快調に滑り出すんです。声はその意味で非常に重要なんです。」

 (ウ)太鼓打ち

 「太鼓も技術が要り、ベテランじゃないと駄目なんです。わたしも太鼓打ちは何年もしたことがありますが、太鼓を打つのはすごく体力が要るんです。漕ぐよりしんどい(疲れる)と言うとそんなばかなことがあるかと言われますが、うそじゃないんです。太鼓に力が無くなると漕ぎ手は力が抜けて漕げません。リズムに乗った力強い太鼓の場合には船が自然に前へ進みます。太鼓は士気を鼓舞し、皆の気分を盛り上げるエネルギー源みたいなもので非常に大切です。基本的な打ち方や、瞬間瞬間のさまざまな打ち方をマスターする必要があるし、リズム感も要る。太鼓を打つ者は船の後方の主櫂のすぐ横に、前方を向いて座るんです。だから他の船の位置をいつでも確認できる。それによって早く船を前に出すとか、ゆっくり流すとかその判断が必要ですし、主櫂が櫂さばきの時を間違えたり、下手くそだったりするとばちで主櫂の足をひっぱたいて気合を入れたりすることもあるんです。ですから、太鼓たたきは櫂伝馬のことをよく知っているベテランで観察力、判断力、リズム感それに体力のある人でないとできません。今も昔も船に乗っている人の中で1、2番の重要な立場です。」

 (エ)主櫂の技量

 「主櫂は長さが約3.5mと大きいんです。櫂を握る柄(え)の部分を撞木(しゅもく)と言いますが、この撞木を45度くらいの角度で斜め上に押し上げると船首は右に回ります。これを「オサエ」と言います。逆に撞木を手前にいっぱい引きつけると船は左に回ります。これを「ヒカエ」と言います。小回りに急に方向転換するような時には、主櫂を一気にぐいと押し上げたり、引き付けたりするんですが、波の抵抗が主櫂1本に全部掛かるものですから、腕がびりびりするほどの重みがのしかかってくるんです。だから体力と技術が無ければ跳ね飛ばされるんです。方向転換した後は、すぐに櫂をまっすぐに据えて、できるだけ波の抵抗を受けないように直進にするんです。岸壁へ着ける時は、とも(船尾)着けしますが、主櫂がオサエ、ヒカエのいずれかで完全に1回転して、その時に船のともがちょうど岸壁ヘピタッと、しかも垂直に着くように操作しなければならないんです。そこが主櫂の腕の見せ所であり、櫂さばきの技なんです。
 主櫂の操作が早過ぎると岸から離れ過ぎてバックしなければならないし、遅過ぎると横づけになる。そうすると下手くそということになるんです。主櫂にはこうした基本的な操船技術が必要なんです。だから、昔は主櫂は体力のあるベテランがしました。主櫂をすることはその船の中心であり、親分であり、晴れ姿であったのですが、昭和30年代ころからでしょうか、新人がするような習慣になったんです。それ以降は2年以上した人はありません。わたしも昭和38年(1963年)に19歳で主櫂をしてから後主櫂をしていません。今も主櫂は全部新人です。練習は4日間ほど、夕方から夜にかけて太鼓の代わりに、ドラム缶をたたいてしますが、毎年の練習の8割以上が主櫂の練習です。その間に技術を覚えなければならない。体力も要る。それが伴わないで波の抵抗で海へ放り出されたりすることもありました。
 練習は1隻ずつ別々ですが、本番では、2隻3隻がもつれることもある。練習以上の激しい漕ぎ競べがあり、船のスピードも練習の時とは違うなかでの方向転換の操作もあるんです。漕ぎ手がいくら懸命に漕いでも、主櫂の技量いかんで船のスピードが上がったり落ちたりするんですから、主櫂は大変な仕事です。」

 (オ)責任者

 「今は各船に責任者を乗せています。昔は何年も主櫂をした人がいましたから責任者はいらんかったんです。今は新人に主櫂をさせるので責任者を置きます。基本的には前年の主櫂が責任者として乗っています。この者は主櫂のすぐ後ろの、船のともに立っていて、剣櫂の付き添いもしながら、いつも相手の船を見、こちらの船の状況を見ているわけです。そして、このままでは船がもつれて進まんとか、もつれた船のさばきとか、折り返しの回転がうまく行きそうにない状況の時には、主櫂に指示し、手伝い、時には主櫂に代わったりするんです。」

 オ 波を蹴立てて

 (ア)抜くか抜かれるか

 「櫂伝馬は大体は自由にばらばらで漕いでいるわけです。沖と岸との間40から50mほどを折り返しているうちに、先に行く船に近づくことがあります。その時、『追いつけ。』とか、『ようし、打ち込め。』(太鼓を早く打ってスピードを上げる合図)とか言って、前に行く船を追い越そうとするようなことが起こるんです。あるいは、2隻3隻が自然の形でほぼ横一線に並びかける時があります。その瞬間いずれかの船の太鼓が急テンポで鳴り出す。間髪(かんぱつ)を入れずに別の太鼓の音が強く高く鳴り響く。それぞれの船の12本の櫂が、狂ったように急ピッチで回転し始め、漕ぎ手の『ヨイサ ヨイサ』の声が波間に響き、今までゆったりと流れていた櫂伝馬が白波をわき立たせ、波を蹴立てて進むんです(写真2-3-5参照)。この時こそ、太鼓の打ち込みと漕ぎ手12人のそろった櫂さばきと主櫂の舵取りの三者が一つになることが大事なんです。もちろん体力が無ければ続きません。この競争は相手を完全に抜き切って水をあけてしまうと決着がつくんです。その間必死になって漕ぎ合うわけです。こうした競争は何度でもありますが、いつ起こるか分かりません。いつ相手が仕掛けてくるか、いつ相手に仕掛けるかは自由なんです。責任者と太鼓打ちはいつも相手の動きに留意しているんです。これが岸壁近くで起こると、岸壁手前で一回転して方向を変えて漕ぎ出すわけですから、主櫂の櫂さばき、太鼓の打ち込み方が大変難しく、見ていて応援にも力が入り、本当におもしろいんです。そして、3隻が接近して来ると櫂と櫂とが絡み合って、よくもつれます。そのもつれた時、手を使ってはならんのです。櫂さばきによって相手を押しのけ、前へ出るんです。これが櫂伝馬の技の見せ所でもあるんです。」

 (イ)700mを漕ぎ抜く

 「宗方では午前中1回だけ、長距離競争をしています。これは見る者がより楽しめるようにと始めたものです。現在は往復約700mの距離を、折り返し点にササを立てておいて、それを持ち帰る方法です。このスタートが見物(みもの)です。岸壁に3隻が並び、祭りを差配するサイキョ(*4)の合図でスタートですが、皆さすがに緊張しています。漕ぎ手は体を前に倒してその一瞬を待ちます。櫂の握りは船の外側の手は逆手、中側か順手です。波を多く捕らえるためには、櫂を深く立てなければならない。でも、櫂を立てれば立てるほど上半身は船べりの外にはみ出るようになり、しかも櫂が深く入るから力が要るんです。左右6人ずつの櫂がそろわなければまっすぐに進まない。太鼓の打ち方に皆の力がそろわなければスピードは出ない。主櫂は進路をまっすぐにするために舵取りをしっかりとしなければ蛇行して遅れるんです。太鼓が打ち鳴らされる。櫂が波を切る。白波が一斉に上がる。『ヨイサヨイサ ヨイサヨイサ』の声と観客の歓声の中で波しぶきを上げながら、波を蹴立てるように漕ぎ出していくんです(口絵参照)。見ている者も思わず力が入り、興奮する瞬間で、いいものです。でも漕ぐ方は大変です。700mほどの距離で、時間にして5、6分ほどと思いますが、漕ぐ者にはずいぶん長いんです。全力でそれだけ漕ぐと体中ぐったりしてしまいます。それなのに汗と疲れと笑顔で皆いい顔をしています。」

 (ウ)お召し回り

 「今も昔ほどではありませんがお召し回りをします。時間は30分余りになったでしょう。神輿を乗せたお召しの回りを左回りに延々と漕いで回るわけですが、順番を決めるものではないんです。主櫂や漕ぎ手の櫂さばきの技の応酬と力の対抗なんです。相手が追い抜こうとする、そうはさせまいとする漕ぎ競べなんです。できるだけ無駄なく小回りをしないとコーナーで他の船に内側に入られ、外側にはじき出されて遅れてしまう。そうすると、追い掛けないといけないし、後から追っ掛ける船のへさきが間近に迫ると抜かさんように必死なんです。それがお召しの回り3周も5周も続くんですから、これはしんどい(疲れる)し、息抜きができないんです。しかもこれにはゴールがないんです。昔はこのお召し回りは、神様に見ていただく、神様の心をにぎわすとか言って、非常に大事なメインの行事でした。だから、この競争に負けたら、恥くらいに思っていたし、それこそ明け方までしたり、疲れ切って漕げないようになるまでしたこともありましたが、今は随分と時間的にも簡略化してきました。」

 力 高齢化と今後の課題

 「宗方の櫂伝馬は昭和30年代ころに途切れることがあったそうです。若者がいないというより、新生活運動とかしんどいことをするのは馬鹿(ばか)らしいとか、そんな風潮が流れて、昔からのものに興味を失っていたようです。今は、若い人はほとんど船に乗りますが、それでも、中にはどうしても乗れないという者も出てきます。年配の者でカバーしながらとはいっても、年配の者はいっそう年を取っていくわけです。この櫂伝馬は体力が要るだけに、若者の減少は、今後の継続のためには大きな問題です。しかも現在でそうだから、今の少子化が進めば進むほど難しい課題となります。それでも継続するためにはみんなの中に、とにかく、やろうじゃないかという気持ちがあるかどうかだと思うんです。今までにもいろんな問題がありましたが、現実にできる方法を考えて乗り越えてきたんです。どうでもええじゃないかという気持ちになったら、それでおしまいだと思うんです。そして一度やめてしまったら再び元に戻すのは並大抵のことでは復元できないと思うんです。
 この櫂伝馬は中途半端な気持ちでしたのではしんどいだけです。おもしろくもない、悔いも残る、冷めた感じになるんです。ある意味で馬鹿になって一生懸命、夢中になってのめり込んだ後の気持ちというものは、言うに言えんいいものがあります。櫂伝馬に乗ってきた者はあの夢中になって無心に漕ぎ続けたことや、しんどければしんどいほど、その後にくる、やりおおせたというさわやかな充実感をいつまでだっても忘れないんです。」

 キ ボンデンの飾り作り

 **さん(越智郡大三島町宗方 昭和5年生まれ 69歳)
 **さん(越智郡大三島町宗方 昭和9年生まれ 65歳)
 今年、孫をボンデンとして櫂伝馬に乗せた**さん夫妻に櫂伝馬の思い出やボンデンに出す準備などについて聞いた。
 「(**さん)この宗方の十七夜の祭りには、昔は女の子は一切参加できなかったんです。それが、男の子が少なくなって笛吹きを女の子が務めだしました。うちの娘らが初めてでした。昭和50年(1975年)ころです。そのころからずっと女の子が笛を吹くようになりました。去年(平成10年)くらいから、奴(やっこ)にも女の子が入るようになったようです。今年、男の孫がボンデンをしますが、その姉が5年前に女の子で初めて櫂伝馬のボンデンを務め、今では女の子が船に乗るのも普通になってきました。孫娘を初めて船に乗せた時は、それは不安もありました。海に落ちることだって考えました。でも祭りのことであり、お任せしたんです。ただ女の子が祭りの役を務めるということには、ちょっと、抵抗がありました。
 ボンデンは神様の依代(よりしろ)(*5)ですが、それを振る子供もボンデンと言います。宗方のボンデンは長さ30から40cmで、昔は細いタケの先に白い紙を御幣(ごへい)のように付けていたものでした。わたしの家では、水道管などに使うエスロンパイプにビニールテープを巻いているんです。その先に金、銀、青、赤、黄など7、8色の色紙を使って飾っています。これは昼用のもので、夜は、プラスチックを筒状に作りその中に豆電球を入れて、夜でも振っているのが見えるようにしてあるんです。頭につける冠のような飾りも昼用と夜用の二つ(写真2-3-8参照)を作りました。その他に、着物やたすき、足袋などを用意します。」
 「(**さん)昔の頭の飾りは鉢巻きを結び、それに旭(あさひ)の絵とか、唐草模様(からくさもよう)(*6)の絵を厚紙に描いたものを付けていました。昼と夜と同じものだったようです。ところが観客がいるし、どうせ出すんならということで親の方が、じいさん、ばあさんも一緒になって一生懸命になったんです。それでだんだん派手になってきたんです。わたしの家では昼用の飾りは、結納につかう水引を材料に使いました。夜用の飾りはちょっと難儀しました。プラスチックの板を切って、さらに張り合わせて三角柱状のものを作りました。その中に電線を通し、それに豆電球を全部で12個ハンダ付けをして、これを小さなバッテリーにつなぐと点滅するようになっているんです。皆それぞれの家庭で工夫して自由に作るんです。他のことはそれほど苦にならんのですが、これを作るのが大変なんです。」
 「(**さん)着物も柄は家々で違うんです。派手な方が見栄えがええでしょう。大体は紅地にさまざまな模様を染め抜いた、あでやかな半じゅばんを着て、その上に男物の子供の浴衣を着るんです。浴衣はそでを通さずに帯を締めて、上はそのまま垂らし、半じゅばんが見えるように着せるんです。化粧は厚化粧で、顔全体を真っ白に塗って、赤い口紅も引き、目のくまどりもします。一見女の子ですが、浴衣は男物で、男の子の役目だったんです。今年も女の子が一人いると聞いています。練習は4日間ですが、毎晩7時30分ころから9時ころまでしています。その時は練習用のボンデンを作って、それでします。」

 ク 昭和20年代の櫂伝馬

 「(**さん)わたしらのころは、25歳まで櫂伝馬に乗れた。26歳になるか結婚したら、青年団を引退して、もう乗れなかった。昔は青年団も人が多かったから、それ以上は乗せてもらえんかったんです。わたしが青年裁許をしていたころ、みんなが乗れんと不満を言うので4隻出したこともありました。しかしそれは終戦後の3年ほどだったろうか。わたしが最初に乗ったのは16歳の昭和21年(1946年)でした。そのころは、大きな地区を中心に宗方を三つに分けて、その他の小さな地区は、青年団が寄ってくじ引きで振り分けていました。わたしらの若いころは主櫂の希望者が多かった。ところが主櫂をすると経費も要るんです。練習も今より長くて1週間ほどしたと思います。その毎日の練習の後の、飲み食いから祭りが終わって後の打ち上げも全部主櫂の家が費用を出したんです。主櫂をする言うても独身だから、費用は全部親持ちでした。かなりの負担が掛かっていました。わたしらがやめてからそうした派手さが無くなってきた。経費も掛かる、青年団員も少なくなってきた、その中でそんなに負担を掛けて主櫂をすることもないんではないかという風潮も出てきたんでしょう。わたしらのころは『主櫂』というより『ねじ櫂』と言っていました。持つところは撞木(しゅもく)と言い、漕ぎ手は『かこ』と言っていました。」


*1:宗方の沖にある肥島(干島とも書く)には、かつて厳島神社の末社(沖津宮(おきつみや))があり、そこへのお旅神事が
  あった。3隻の櫂伝馬がお召しを引いていったのだが、今はお召しを引く形だけを残している。
*2:島の生活で農業などのために荷物を運ぶ小さな船。
*3:ボンデンや剣櫂という言葉は道具の名であるとともに、それを使う人をも指す言葉である。
*4:裁許。祭り全般について采配を振るう人。大裁許1人、中老裁許2人、青年裁許2人がいる。
*5:神霊が出現する時の媒体となるもの。
*6:つる草のつるや葉の絡み合って伸びている様子を図案化したもの。

写真2-3-1 お召しの海上渡御

写真2-3-1 お召しの海上渡御

船上で少年が剣櫂を振る。平成11年7月撮影

写真2-3-2 三隻の櫂伝馬船と沖のお召し

写真2-3-2 三隻の櫂伝馬船と沖のお召し

平成11年7月撮影

写真2-3-5 競争する櫂伝馬とお召し

写真2-3-5 競争する櫂伝馬とお召し

平成11年7月撮影

写真2-3-8 ボンデンの冠

写真2-3-8 ボンデンの冠

昼用(左)と夜用(右)。平成11年7月撮影