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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)さまざまな講

 むら社会には、講と称する多様な社会集団が形づくられている。講とは、信仰的もしくは経済的その他の目的を達成するために、志を同じくする人々の間で組織される社会集団の一つである(⑨)。

 ア 信仰的な講

 (ア)大三島町明日

 かつては、明日では多くの講が結ばれていたようである。現在広く活動しているのは、子安(こやす)講(*22)、お大師講(*23)、産土(うぶすな)講の三つで、ごく内輪に信者が集まっているものとして神道講と報恩講(*24)があるとのことである。
 まずお大師講について、林条では現在やっていないそうであるが、**さんが語る。
 「講の中で一番大きいのがお大師講じゃった。各土居には皆あって、ほとんどの家が講に入っとった。月に1回、20日の晩にやっとった。宿は各家が順番にやった。各土居にはお大師さんの掛け軸と鉦(かね)があって、それを順に宿へ回す。宿ではお供えをし、五目飯を作るくらいじゃ。1軒の家から一人参加する。一膳飯(いちぜんめし)いうて茶碗(ちゃわん)に五目飯を高うに高うに盛り上げて、茶碗の中より外にある方が多いくらいなのを食べる。」
 **さんが思い出を語る。「親は一生懸命働いとるからそれくらいぺろりと食べれるけど、家で子供が待っとるから、半分食べてもう腹一杯です言うて、半分は家へ持って帰るわけ。親がそれをいつ持って帰ってきてくれるんだろうかと、われわれは寝間の中でじっと待つようなときもありました。」
 産土講について**さんが語る。「お大師講は各土居ごとにやっとったが、明日全体で言えば一番大きい講は産土講で、明日中の家が全部入っとりますから、百何十人おる。2月15日、まず明日八幡神社(写真3-2-16参照)に参って、神主に祝詞をあげてもらい、帰りに皆が集会所に集まって昼飯を食べて帰る。」**さんが補足して語る。「明日中で順番に標準で20軒ずつが区切られて当番となる。当番は賄い方で、朝早うにゴボウやダイコンを持っていくんじゃろ。以前は割り木の3本くらいは持っていきよったな。当番以外は皆お八幡さん(氏神)へ参る。」
 子安講(周桑郡小松町の香園寺(こうおんじ)の講)には**さんの奥さんが参加している。毎月19日に開かれ、宿は回りである。「子安講にはうちの女房が入っとる。本来は小松に参るんよ。月に2,000円ずつ持っていって、お菓子であるとかおだんごであるとか作るわけよ。夕食を食べて7時半ごろ出て行って、帰ってくるんはまず午前2時を過ぎますわ、午前様よ。これが胸の中のごちゃごちゃを全部発散さすわけよね。女の年寄りばかしで、若い人が入らんから年々減っていくばかりよね。」
 「婿さんの悪口言うての。年寄りはなんぼ入っても子供はできんよの。子供できるような人は一人もおらんわいの。」と**さん。香園寺には適宜相談して全員がお参りに行くとのことである。
 以下、このほかに話題になった講の数々を紹介しておく。まず、県外の寺社等にかかる講については次のような話があった。
 金毘羅(こんぴら)講についての**さんの話。「昔はほとんどの家が入りよった。各組に講はあった。たんびに(そのつど)積立金を出して、2年に一遍くらいは金毘羅参りをしよった。各組中のものが船を借り切って多度津(たどつ)(香川県多度津町)に上がる。お参りのお札が家によったら何十枚もありよったんよ。柾目(まさめ)のええ板使うとるんで、終戦後は、この板でセイロをこしらえたのが多いです。つきあいで入る組(村組)とは違う組だった。」**さんの家には、当時をしのぼせるものとして明治36年(1903年)の立派な祈禱札が残されている。
 お薬師講(島根県平田市の一畑(いちばた)薬師の講)についての話。「3年に一遍くらい、積立てして金がたまったら、講に入っとる人は全員行きよった。一泊でね。観光が80%、信仰が20%くらい。」
 牛の講(広島県御調(みつぎ)郡久井(くい)町での牛市の講)についての**さんの話。「戦後、牛を飼いよったから入っとったんですけどね。子牛を預かって太らして、その賃をもらう育牛のはやったころ。最盛期は昭和25、6年(1951、2年)ころで、明日全体で一番多いときには四十数軒が入っとった。牛が良うなるようお宮参りをする。わたしは講金集めて3人で行った。行ったらサーカスなんかが来とって、相当な人が毎日押し掛けよったわけよ。」
 近在の寺社にかかる講としては次の話があった。
 明日の昌福寺の裏山に秋葉神社がある。その秋葉講(*25)について、「秋葉神社は寺の管理下にあって、お寺さんが拝む。」「はやり病のとき、秋葉さんにある大般若経60巻を経櫃(きょうびつ)に入れて、二人の人がかついでむら中を持ち歩いて、みんなにその櫃(ひつ)の下をくぐらせたりしとったんよ。」との話がある一方で、「台(うてな)(大三島町)では昔、むらがほとんど焼ける大火事があったときに火を鎮めてくれたというんで、秋葉さんのお講ができて台の人がようお参りに来よった。」と近隣からの講の動きも目にしている。
 一時のことだが、ゴロクボウ(五六坊)講が大変盛んであったそうである。**さんの話。「私たちが小さいときにね。明日の奥にね、大滝山(写真3-2-18参照)という高い山があるんですが、そこの頂上あたりにゴロクさんいうタヌキを祀っとったわいな。8畳の間くらいの瓦葺(かわらぶ)きのお社を建てとった。ゴロクいうんは五六坊大権現のことで、自称正一位(*26)でね。ゴロクボウ講を作って、そこへ年寄りがようお参りに行きよった。大正時代くらいには二人ほどその御祈禱する人がいた。その人が講を作ったんじゃろか。**さんや**さんらは小学校時代によく走ったりする大会に出よったですわい。その時の応援歌はやっぱりゴロクさんになっとった(ここで次のような童謡『はなさかじじい』の替え歌を歌う。)。♪大滝山のゴロクさん、枕にかけて申すなら、今度も鏡(小学校)のカーチ、カーチ、カーチ、カチ。この人らが選手で出たときわれわれはこの歌を歌ってね、応援しよった。」ここで皆さんの思い出話がはずむ。「わしらは小学4年生のときから選手で出よった。その時分にはゴロクさんの歌はなかった。できたんは6年生の時分のことじゃろか。」
 「お八幡さんとお寺さん除(の)けたら、ゴロクさんは案外明日では信仰の的やったね。」
 「病気になったら拝んでくれるお講の大将が二人おった。その二人がお講を作ったんじゃないか。」
 「今になってみたら、あれはいんちきじゃなかったかと思う。」
 「恐らく大正からのもので、講は古いものじゃないと思う。」
 「ゴロクボウ講は明日の講の中でもものすごく盛んじゃった。一番トップくらいの時代があったでしょう。」
 「このお講は毎月やりよったわい。」
 「あの時分に大滝山の山頂のお社には寄付した太鼓があった。30年くらい前にか、おんたい(大将)が死んでお講が解散した後、その太鼓をむらへ持ってもんた(戻った)。あすこでさらしたんではもったいないけに。お八幡さんの太鼓が破れたんで、その代わりに今は氏神さんの太鼓にしとる。」
 また、お日待ち、月待ちについては昔はあったが、今はないとのことである。

 (イ)北条市猿川原

 かつては、この猿川原でも多くの講が結ばれていた。話の中に出てきたものをあげてみる。最初に代参講(*27)について、**さんがいくつかの体験談を次のように語った。
 大三島大社講(越智郡大三島町の大山祗(おおやまずみ)神社の講)について、「この講は虫除けの火縄(火縄に神社の火種)をもらいに行くための講なんです。講金を募って、だいたい講員30人くらいに二人が代参した。夏の土用に船で行かんならん。弁当が付いていた。代表が行って拝んでもろて、火縄買うて火をつけて持って帰って、皆に配って、火を振って田を回らないかなんだ。」**さんも続けて、「だいたいお講は、お寺やお宮から連絡があって、3年から5年くらいで講員を集める。わたしも終戦後に一度大三島に行ったことがある。昭和24年(1949年)ごろ、農地改革まででこの講はやんだんですよ。その後、『火振って虫除けやか言うたてお陰やかないぞ。』と言うてやめた。」と補足する。
 亀岡のカザガミ(風神)講(越智郡菊間町種(たね)の貴布禰(きふね)神社の講、写真3-2-19参照)について、「戦時中、二百十日前に歩いて1日で行って帰ったことがある。むらを朝出発して、小山田のユズリハ峠を越え、松尾を越えて種に出る。川沿いに下っていくと、ちょうどそのお宮のとこへ出る。今は農免道路がついている。お宮は、今は国道196号で亀岡の石油精製工場の前を通り越して峠を少し下ったところ、国道からすぐに石段で上がれるようになっとる。20軒くらいから講金を集めて、代参は二人が行きよった。拝んでもろうて、お神酒1本とお弁当をくれよった。風除けのお札を20枚もろうて帰り、講中に配った。その日は縁日になっとって、各地から大勢寄っとった。余興としては相撲があって、それを見て帰ってきた。」
 大通寺(だいつうじ)講(北条市下難波(しもなんば)の大通寺の講)について、「終戦後に始まった講で、大通寺の住職がやり手で、講金を集めて始めたのじゃと思うが、どういう意味で始めたのかは分からん。だれが世話人かも分からんが、講に入ってくれんかと言うて誘われた。10人くらいおっとろうか。お寿司(すし)もろうてきて、講金出したとこには配らなならんのです。入っている者が順番で行くから10人入っとったら10年間は続くわけよ。しかし、5年くらいやっとろうか、いつのまにかやめてしもうた。」
 奈良原(ならばら)講(越智郡玉川町の奈良原神社の講)について、「牛を飼うとる人は今でもやりよりますよ。私も講金集めて行ったことがある。」と**さんが語り、**さんが、「これは猿川原だけじゃなく、もうちょっと広い範囲でやっている。肥育組合の人が講参りをした後、牛馬の供養碑の前で供養している。その供養に私が行きよるんですよ。その時には牛肉は食べないで、鯛飯(たいめし)、刺身でやってます。」と補足する。**さんが行ったのは玉川町畑寺の光林寺(奈良原神社の旧別当寺)の繁栄講とのことである(⑦)。
 次に**さんの話を紹介すると、金毘羅講については、「以前には何年に1回か機帆船を仕立てて行きよった。私も戦後の昭和27、8年(1952、3年)ころに連れていってもらったことがある。」と語る。また、大師(だいし)講(松山市石手の石手寺の講)については、「現在、10人で1組となり、猿川原の上と下で1組ずつ講がある。1年に1,000円の講金を払う。毎月20日に車の人は車で、車のない人は列車で、それぞれ一人ずつ代表が順番で行って、お弁当とパンフレット、月によってはお札をもらう。」と話す。
 **さんの説明では、「現在、このほかやっとるのが、8月9日の高縄山(たかなわさん)(北条市米之野の高縄寺、写真3-2-20参照)の四万六千日の縁日です。何年か前に奉賛会をつくり、10軒くらいが一組になって当番は一人、一人当たり500円の講金で募り、簡単なお札をもらう。猿川原では村組とほぼ同じ範囲で講組となっている。」ということである。

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 代参講について、窪では現在、和霊(われい)講(宇和島市和霊町の和霊神社の講)が一組あるそうである。有志5人で講中を作り、順番で世話役となって代参をしている。かつてはお伊勢講とか石鎚講とかがあったとの話は聞いたことがあるそうである。常定寺では現在老人クラブの有志が出石(いずし)講(喜多郡長浜町の金山出石寺(しゅっせきじ)の講)をやっているそうである。新城では現在代参講の話は聞かないという。
 民間信仰的な講については、次のような話があった。窪では、念仏講(回り講ともいう)が行われている。**さんの話。「昔は12月と1月の2回、やりよった。今は1回、12月15、6日を中心にやる。念仏講組は上、下の2組。行事は始めから話と会食だけで、念仏はやりよらだった(やっていなかった)。それが回り講になっとって家順に回っていく。お膳(ぜん)は、今は料理屋に頼んでパック入りの弁当になった。」
 常定寺では、昔は念仏講を始め五つほどの講があったという。その証拠に、今も伊勢神宮の内宮、伊勢神宮の外宮、大山祇神社の各祭神名を記した掛け軸が3本あって、「ぼろぼろになっとる。ちぎれてはいけんと大事に申し送りしている。」という。終戦後、講中が協議して講を合わせて一つにしようじゃないかと申し合せ、合社(ごうしゃ)講という名で一本化した。その講を3組とも同じ旧暦の1月16日に、講長は順番にして懇親会の形で行う。
 新城では、念仏講とジジン(地神(*28))講の二つが行われている。**さんの話。「念仏講は12月15日にやる。住居地が変わっても念仏講だけは昔の組に入っとる。十人組の1組から7組とは違い、五つの講組がやっとる。回りで講宿を務める。講宿では、南無阿弥陀仏と文字を書いた掛け軸を掛け、ろうそくと線香を立てる。お供えはしとりません。講長が鉦をたたき、副講長が数珠を繰り、皆が念仏を唱える。数珠繰りが一回りすると終わりになる。終わると会食、昔は宿で準備したが今は仕出し弁当になった。ジジン講は4月のお社日(しゃにち)(*29)の前後にやります。念仏講の講組と同じです。そこではなんにも行事はしません。会食だけで、やはり仕出し弁当です。」

 イ 経済的な講

 (ア)大三島町明日

 頼母子講(たのもしこう)(*30)は昔はたくさんあったそうである。今でもあるが、何か事業をやっている業者とか資金のある人がやっているようである。普通の農家では、掛け金が大きいので入っている人はないということである。話者たちが小学生のころのまんじゅう講の話。「金を集めるときに、まんじゅうを出しよったわけよ。金を納めたら、七つとか十とかまんじゅうをもろうて帰りよった。講の発起人が世話をしてまんじゅうを注文して出しよった。ところが、まんじゅうを食べて掛け金が戻らんことが再々あった。村の有力な人で賢い人が世話人をやるんで、皆集まるわけよ。そして皆まんじゅう食わせてもろうただけで泣き寝入りよ。」

 (イ)北条市猿川原

 頼母子講について、**さんが「私が10歳くらいのときには盛んじゃったと聞いた。昔は節季、盆にやりよったけど。頼母子で何もかも売ってしもうて、夜逃げする者もできたわい。」、**さんが「終戦後、自分らがやったことがある。ちょいと金の要る人が頼母子始めてくれんか言うんで始めたことはある。今は現金取り引きになって頼母子じゃのいうのはせんわい。」とそれぞれ語る。

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 3地区ともに、頼母子講が昔はあったと聞く程度のことであるという。


*22:安産を守護するという地蔵、観音、鬼子母神などを祀る婦人の講。
*23:真言宗地帯である四国地方で行われる講中の催し。弘法大師の軸を掛け会食することがある。
*24:祖師の忌日に報恩のために行う法会。
*25:静岡県周智郡秋葉山の神、火伏せの神として全国的に分社が多く、それを中心に秋葉講が盛んだった。
*26:朝廷が諸神に奉る位階の一つで、最高位のこと。ちなみに、京都伏見稲荷大社の祭神である稲荷大神が正一位である。
*27:遠隔地の社寺参詣を目的とする講。講中を代表する代参人が、講中が出し合った旅費を持って出かけ、社寺で神札をも
  らってきて講中に分配するのが一般的な方式である。
*28:地主神、土地の神、家・屋敷の神のこと。
*29:春分・秋分に最も近い前後の戊(つちのえ)の日。春秋の彼岸にも接近しており、農事の開始・終了の日と考えた習俗が
  各地にある。
*30:互助的な金融組合。組合員が一定の掛け金を出し、一定の期日に抽選あるいは入札によって所定の金額を順次に組合員
  に融通する組織。

写真3-2-16 明日の氏神、明日八幡神社拝殿

写真3-2-16 明日の氏神、明日八幡神社拝殿

平成10年10月撮影

写真3-2-18 大滝山

写真3-2-18 大滝山

左奥の山が大滝山。幟は明日八幡神社例祭りのためのもの。平成10年10月撮影

写真3-2-19 菊間町種の貴布禰神社

写真3-2-19 菊間町種の貴布禰神社

石段の上に見えるのが拝殿である。平成10年11月撮影

写真3-2-20 高縄山遠望

写真3-2-20 高縄山遠望

中央奥が高縄山(986m)。山頂近くの平坦地に高縄寺がある。左の河岸は立岩川。平成10年11月撮影