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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)過疎の村で

 ア **さんの人生

 **さん(宇摩郡別子山村肉淵 大正8年生まれ 79歳)

 (ア)ふるさとに帰る

 「出身は別子山村です。今住んでいるこの家はわたしの生まれた家です。後を継いでいた兄がよそへ移ることになった時、実家が人手に渡るのがしのびなかったので、無理をして購入しました。それからもう20年になります。
 わたしは一時ふるさとを離れてくらしていました。ふるさとを出たのは昭和10年(1935年)ころ、結婚したのは昭和12年でした。夫は鉱山に勤めていて、岡山県、兵庫県辺りの鉱山を回っていました。戦時中(日中戦争、太平洋戦争)は人手不足で鉱夫は引っ張りだこで、会社の方も他の鉱山に引き抜かれないよう従業員を縛りつけていましたが、そんな中でやっと住友鉱山の筏津坑(口絵参照)で働けるようになって、夫と共に別子山村に帰ってきました。昭和20年(1945年)3月のことです。
 村に帰ってきた最大の理由は食糧難です。食べ物が不足するまでは山(別子山村)に帰ろうなどと思ってもみませんでした。ようあんなところにおったわい(よくあのようなところにいたものだ)、トウキビ飯など、あんな粗末なものをよう食べていたわいと思っていました。たまにもんて(戻って)来ても、おかずはせいぜい魚の干物(目刺し)くらい、こんなところにはようおらんと思って急いで山を離れたものです。ところが戦争が激しくなり、食べる物がなくなるとふるさとが恋しくなってきました。ふるさとで畑でもつくれば食糧の不足を補うことができるのにと思うと、帰りたくて帰りたくて夢にまで見ました。
 しかし、ふるさとに帰ってはみたものの、食べ物はなかなか手に入りませんし、山を耕してもすぐに収穫できるわけでもなく、毎日山に行っては山菜や木の芽など食べられる物を探し回りました。やっと6月ごろ、山で栽培していたジャガイモが少しとれたので、ミルクも母乳も与えてやれない生後半年ほどの長女に口移しでそれを食べさせました。そのような中で夫は栄養不良で仕事ができなくなり、長期入院することになりました。わたしは、幼い子供を抱えてどうすることもできません。仕方なく二人の子供を近所の人にみてもらって、行商のような仕事をやることになり、新居浜通いを始めました。入院中の夫はただ一言『お前は偉いのお。』と言って目を真っ赤にしていたことを今でも覚えています。
 夫は昭和23年(1948年)に亡くなりました。その後再婚しましたが、その夫にも昭和30年に先立たれましたので、子供たちが大きくなるまでは苦労の連続でした。しかし、とにかく元気で働き通して子供たちを育て上げることができました。天は二物を与えずといいますが、わたしには健康を与えてくださって感謝しています。
 このようにふるさとに帰ってからのくらしは楽ではありませんでした。しかし、やはりふるさとはよかったのでしょう。それから現在までずっとこの村に住んでいます。周りの人はみんないい人です。どこへ行っても顔なじみの人ばかりで心安く話しかけてくれます。これがふるさとのよさでしょう。帰省していなかったら今ごろどうなっているだろうと時々思うことがあります。」

 (イ)徒歩とかご電車

   a 山越えの道

 「わたしの住んでいる肉淵(にくぶち)から標高1,266mの峨蔵越(がぞうごえ)を越えて宇摩郡土居町の入野(旧土居村入野)に通じる道があります。この道は瀬戸内側へ出る近道として以前はよく利用されていました。アズキなどを背負ってこの峠を越え、土居町の浦山鉱山(伊予鉱山。現在閉山)の集落で米と交換していたことを覚えています。別子山村では米があまりとれません。わたしの子供のころは白米の御飯などめったに食べられない。ほとんど麦といってよいような麦飯かトウキビ飯です。ですから鉱山(筏津坑)に勤めている人の家がうらやましくてしかたがありませんでした。学校でも筏津の方の子供は服装もよく、弁当は白米の御飯。わたしらは麦飯です。よく『麦飯食い』などと言われてからかわれました。
 また、この辺りでは養蚕もやっており、繭(まゆ)を土居の方へ出荷していましたので、その折もこの道を利用していました。繭は検査が厳しかったので、各自が運んでいました。わたしも繭を背負ってみんなといっしょに峨蔵越を通ったものです。わたしらの足ではとてもその日のうちに往復することはできず二日がかりでした。わたしの娘時代の経験です。
 一方、新居浜市へ出るには標高1,294mの銅山越を通らなければなりませんでしたが、その銅山越の下に銅山のトンネル(*23)(第一通洞)があり、人道として使用されていて、大変便利だったので、大勢の人が通っていました。しかし、トンネルは夕方の4時か5時ころになると閉まるので、閉められたら峰(銅山越)を越えなければなりませんでした。わたしも娘のころまちにあこがれて、このトンネルを通ってよく新居浜へ行きました。もちろんトンネルを利用しても新居浜のまちまではかなり距離がありました。」

   b かご電車

 「昭和13年(1938年)からは、別子山村の日浦(ひうら)から新居浜市の東平(とうなる)まで坑内電車(通称かご電車(*24)。写真3-1-27参照)が運行されるようになり、新居浜市方面への交通は便利になりました。ただし東平から端出場(はでば)(現在、マイントピア別子〔観光レクリエーション施設〕のあるところ)までは歩かなければなりませんが、端出場から新居浜市内の惣開(そうびらき)まではすでに汽車が走っていましたので、それに乗ることができました(*25)。後にはバスが端出場まで来るようになりました。
 このかご電車には特に戦後お世話になりました。わたしは子供を養うため、行商のような仕事をしていたことがあると前にお話しましたが、それは、戦後の、物資が不足し、食料が手に入りにくいころで、新居浜で安い日用品など生活必需品を見つけて買い込み、富郷の方へ持って行って食料と交換し、それをまた、まち(新居浜市)へ持って行って売る仕事でした。富郷へ行くと『今度はこれとこれを買うてきてな。ほんならアズキと換えてあげるけんのう(換えてあげるからね)。』と言われることもあり、それをまた新居浜まで買いに行く。まあそんな商いをしていました。そのころかご電車をよく利用していたのです。この電車の料金はただ。住友様様(さまさま)でした。その代わり自分の身分を証明するようなものを乗り場の係員に見せることになっていましたが、しばしば利用するので、しまいには見せなくても『よしよし』で通してくれました。電車は1両8人乗り。4両編成で走っていたように思います。片道約30分。3往復していました。新居浜からの帰りがけ、発車時刻に遅れないようにと端出場で汽車を降りてから東平のかご電車の乗り場まで山道を必死で歩きました。その姿を見て新居浜のまちの人が『山の人は勢いが違うのう。』と言っていましたが、こっちは最終電車に乗り遅れたら大変だから急ぎ足で歩いていただけです。乗り遅れたら野宿しかありません。夜の山越えは嫌ですから。今では懐かしい思い出の一つになっています。」
 銅山の閉山(昭和48年〔1973年〕)によって新居浜に通じる重要な交通手段であったかご電車も姿を消した。『別子山村史(⑭)』によると、昭和47年に行った意向調査では、「交通路の整備について最も希望するルートは」という質問に対する村民の答えは、(A)端出場へのトンネル建設(26名)、(B)土居町へのトンネル建設(23名)、(C)旧別子、東平から端出場への道路整備(12名)、(D)伊予三島市への県道整備(3名)であったという。(A)の人数に(C)の人数を加えると、質問に答えた村民の半数以上が新居浜市への交通路確保を望んでいたことが分かる。長い間銅山の村として新居浜市と共に歩んできた別子山村の人々にとっては当然のことであった。現在、伊予三島市、川之江市方面行きの瀬戸内運輸のバス(村内唯一の公共交通手段)や自家用車を利用して伊予三島市方面へ買い物などに出かける村民が多いと聞いているが、大永山(だいえいやま)トンネルが開通したことによって、新居浜市へという村民の夢も実現に向かっている。

 (ウ)**さんは今

 「わたしは今一人でくらしていますが、一人ぐらしは気楽です。朝は6時ころ起き、7時半には仕事をする態勢になっています。現在月に10日ほど小美野(こびの)発電所(写真3-1-28参照)の雑用(掃除や草引き等)をさせてもらっています。1kmほどの道のりですから歩いて通っています。先日ある人が『発電所には80歳にも90歳にもなる人が行きよるちゅうのう(ということだが)。』と言う者がいるというので、『いや100歳まで行く言うとってつか(言っておいてください)。』と言ってやりました。また、発電所に行かない日は農家の手伝いなど頼まれると喜んで行きます。働くことはわたしにとって一つの楽しみです。
 退屈することなどありません。暇なときにはテレビを見ています。わたしはテレビを見るのが好きで、家の中に3台置いてあり(台所と居間と座敷に各1台)、家に帰ったらまずテレビをつけます。テレビがついていると寂しくありません。わたしは巨人ファンで、プロ野球をよく見ますが、見だすとすぐ時間がたちます。また、趣味として多少俳句をつくっているのでNHKの俳句の番組も必ず見ます。村の俳句グループの会員になっていて、句会に出席することもあるが、このグループには師匠がいません。そこでテレビでも見て勉強しようかと思うのですが、画面に出てくる人のつくった俳句にばかり感心して、自分はほとんどつくらないから進歩しません。村の文化祭のときなどには俳句をつくって出さなくてはならないので、慌(あわ)てて考えるのですが、なかなか頭に浮かんできません。生活のことばかり考えていて心に余裕がないからでしょうか(*26)。
 わたしの家は建ててから120年くらいはたっていると思います。昔の家はしっかりしているとはいえ、屋根も傷むし、床も傷んできます。そこであるとき、自分で畳を上げ、床板をはがし、床下の修繕をしたことがあります。できることは何でも自分でやるというのが信条ですが、さすがに大変な仕事でした。しかし、もうこの家もわたしの代で終わりとなるでしょう。ずっとお墓のお守りもしてあげたのだから御先祖さんも許してくれると思っています。最初にこの家は兄から購入したと言いましたが、その折、畑もいっしょに買い取り、今はその畑で自分が食べる程度の野菜をつくっています。時々よそに住んでいる子供たちにも宅配便で送ってやるので、野菜をつくって宅配業者にもうけさせているようなものです。子供たちのところへ行くのは楽しいが、ちょっとおっくうです。年をとるとよそへ行くのは疲れます。子供や孫たちがちょいちょい訪ねて来てくれるのを楽しみにしています。一人ぐらしで気になるのはやはり病気のことですが(別子山村は無医村)、新居浜市に住んでいる娘が看護婦ですから、いざとなったら何とかなると思っています。この村では独居老人の家に非常通報装置が備え付けてあり、緊急時には、電話がかけられなくてもボタン一つで役場に通報できるようになっています。
 別子山村の年寄りたちが楽しみにしているものに、月1回、村の福祉センターで行われる高齢者対象の給食サービス(昼食会)というのがあります。雰囲気がよくて、みんなその日を心待ちにしています。また毎月第3水曜日に村が運営している高齢者のための福祉バス(通院バス)が伊予三島市まで運行されていて、ほんとうに助かっていますが、これに乗るのも年寄りの楽しみの一つです。もちろん通院以外の目的で乗ることはできませんが、老人というものは血圧の測定など多少なりとも病院に縁があるものでして、わたしもよくこのバスを利用しています。老人同士の小旅行のような気分です。車内はコミュニケーションの場となります。運転士も親切、おまけにただときているからありがたい。別子山村を朝8時に出発、帰りは伊予三島市の病院を午後2時に出ますから、時間の余裕があり、検診が済んだら買い物もできます。病院に行くのが楽しみの一つになっているなんてちょっとおかしいですね。
 別子山村は年寄りに優しい村です。老人福祉の面では至れり尽くせりで何も言うことはありません。満足しています。ただわたしが一つ希望しているのは、年寄りに働く場をあっせんしてほしいということです。そのためにはシルバー人材センターのようなものがあればいいのになあと常々思っています。村内には働きたいと思っている老人がいます。わたしもその一人です。一方老人に仕事を頼みたいと思っている人もいます。老人の働く場はけっこうあります。お年寄りに1日中でなくていいから1時間でも2時間でも畑仕事や草引きなどをやってもらいたいと思っている人もいるでしょうし、ちょっと墓掃除を頼みたいと思っている人もいるはずです。そういう人は、シルバーセンターのような組織ができておれば、電話で気軽に依頼できますから、雇う側にとっても便利だと思うのです。働くということは年寄りにとっても生きがいとなります。」
 **さんは、今をたくましく生きる元気で明るいおばあちゃんである。

 イ 山村のくらし

 **さん(宇摩郡別子山村登美野 昭和9年生まれ 64歳)
 別子山村には炭窯の跡が多く残っている。それは、かつて銅鉱石の精錬に多量の木炭が使用されていたことの証(あかし)とも言えよう。長い間村役場に勤め、要職を歴任した、**さんの夫の**さんは、現在、敷地内に炭窯を設け、竹炭による村おこしに取り組みながら、ドラム缶を利用した体験窯(5基)も設けて人々に炭焼きの魅力を知ってもらいたいと願っている。**さんは家事の傍ら、**さんの竹炭を入れるミニチュア炭俵(「健康俵」という土産品)づくりにも協力している。**さん宅の敷地は北に開け、赤石山系を望むことができる。
 「わたしどもの家の住所は登美野(とみの)ですが、地元では葛篭尾(つづらお)という地名で呼んだ方が分かりやすいのです。この地は戦後の一時期開拓地となり、入植者も住んでいましたし、また住友林業の事務所や社宅もあり、たくさんの人がくらしていました。しかし現在はわたしどもの家を含めて2軒だけとなってしまいました。ここに住んでいると、たまに『昔、葛篭尾に住んでいた者です。懐かしくてやって来ました。住友林業の社宅に住んでいたので、その跡だけでも見たいが、車で行けますか。』と尋ねられることがあります。昔は車で登れるような道もなく、今の道は大分変わっているので、『ここが**さんとこだったんかいねえ。』と言う人もあります。」

 (ア)夫の両親は新居浜市へ

 「わたしの親は宇摩郡新宮(しんぐう)村の出身ですが、別子山村に働きに来ていたので、わたしはこの村で生まれました。結婚したのは昭和30年(1955年)、以後ずっとこの地に住んでいます。結婚後10年くらいは夫の両親と一緒にくらしていたのですが、母(義母)はもともと体が弱く、また父(義父)も長い間の鉱山勤めで職業病(塵肺(じんぱい))にかかっていたので、通院の都合で父と母は新居浜市へ転居しました。もちろん時々村に帰ってくることもあり、わたしどもが新居浜の両親の家へ出かけて行くこともありました。父は90歳まで生きていました(平成11年には13回忌を迎える)ので、塵肺でこんなに長生きする人はめずらしいと言われたものです。母は昭和50年(1975年)に亡くなりましたが、わたしどもが新居浜へ転居するわけにもいかず、母の死後、父は一人ぐらしを続けていました。父は『来なくていい。』と言っていましたが、週に一度くらいは世話をしに通っていました。
 新居浜市へ行くのに昭和48年(1973年)までは日浦坑口(写真3-1-31参照)からかご電車を利用しました。東平(とうなる)から端出場(はでば)までは近道を歩くのですが、後に新しい道がついて、昭和40年代の半ばころにはタクシーが東平まで上がってくるようになりました。ですからこちらから出かける折には事前に予約しておけば、かご電車を降りてちょっと歩けばタクシーに乗ることができたのです。そうなってもうちの父はタクシーなど利用せず、相変わらず昔の近道を歩いていました。こちらの家を出るとき、父は鎌(かま)を持っていくのです。『じいちゃん、どうしたん。』と聞くと、『近ごろ大勢通らんようになって、道(近道)は草ぼうぼうじゃけん(だから)、よけ(たくさん)生えている所を刈りながら歩くんよ。』と言うのです。『そんなことせんとタクシーに乗ったら。』と言っても聞きません。昔の人ですからタクシーに乗るなんてとんでもないと思っていたのでしょうか。父をしのぶ思い出の一つです。わたしが運転免許を取得したのは昭和40年(1965年)ころだったと思います。それからは自家用車で伊予三島市を回って新居浜市に行くことになったのですが、取得後4、5年はちょっと怖くてよう行きません(行くことができません)でした。
 昭和43年から、伊予三島市、川之江市方面へ行くには瀬戸内運輸のバスを利用することができるようになりましたが、やはりここでは運転免許がないと不便を感じます。しかし、自家用車の利用が増えれば、バスの利用者がますます減り、バス会社が手を引くということになりかねません。もし手を引かれたら村としては大変なことになりますので痛しかゆしというところです。」

 (イ)主婦のくらし

 「わたしが嫁いで来た昭和30年(1955年)ころはまだ昔のくらしが残っていました。御飯もかまどで炊いていました。麦の入った御飯でした。長男(昭和32年生まれ)が御飯を食べ始めたころ、おばあちゃん(義母)に『孫には麦をのけてお米のところだけを食べさせてやれ。』と言われたことを覚えています。また次男は昭和36年生まれですが、その子が食事のとき『黒いところ(押し麦についている線)をのけてくれ。何かついている。』と言うのです。それを聞いていたおばあちゃんが『かわいそうだからもう麦はやめんか。お米だけの御飯にしてもやっていけるだろう。』と言われたのも覚えています。そうすると昭和30年代後半まで麦御飯を食べていたことになります。年寄りは麦御飯が好きだから、年寄りのいる家庭では比較的麦御飯を食べることが多かったのでしょうが、若い人だけの家では、もうそのころお米だけの御飯だったと思います。また筏津にあった鉱山の社宅の人はぜいたくなくらしをしていましたからもちろん白米だったでしょう。その社宅に住んでいる人たちの生活の影響を受けて、この村の人々のくらしがぜいたくになり、派手になってきたということも考えられます。社宅の奥さんは、朝主人を送り出したら、後あまりすることもなく、みなさんきれいに着飾っていました。うちの主人も役場勤め、一応サラリーマン家庭なのですが、農地があるのでわたしは遊ぶわけにはいきませんでした。主人は毎朝出勤前にひと仕事(農作業)していました。わたしは子供もいるので早朝の農作業はせず、主人が畑から戻ったらすぐに朝食ができ、弁当も持って行けるように準備をしていました。そして午前中は洗濯です。当時はまだ手で洗っていましたので大方昼までかかりました。子供の小さいころは昼間もあまり畑仕事ができず、両親の手伝いをする程度でした。本格的に農作業をするようになったのは次男に手がかからなくなってからです。
 子供が小さいときは特に病気のことが気になります。現在別子山村は無医村ですから、子供が病気をしたら伊予三島市の病院まで連れていかなくてはなりませんから大変でしょう。以前は村内に二つの病院(別子山村国民健康保険直営診療所と住友病院筏津診療所)があり、わたしの子供の小さいころにはそれらの病院のお世話になっていました。それでも一度次男を連れて1年近く伊予三島市まで通院した経験があります。わたしがすでに運転免許を取っていたので助かりましたが、それでも大変でした。今子育てをしている方も子供さんが病気になれば同じようなことになるわけです。ただし、今の若い御夫婦は、子供さんが病気になったら、奥さんも車の運転ができてもだんなさんの方が仕事を休んで子供を病院に連れていきます。男の人が優しくなったのでしょうか。時代は変わりましたね。
 家庭で使う電気製品は筏津にあった鉱山の社宅に案外早く入り、その影響でこの村全体の家庭の電化(*27)は他の山村に比べると比較的早かったのではないかと思います。筏津の社宅に電気屋ができ、『これ中古じゃけど(だけど)使うてみてくれ。よかったら次に新しいのを買うてくれ。』と言って電気洗濯機を持って来たこともあります。テレビも『これで見たら』と持って来ました。わたしの家でテレビ (*28)を購入したのは、この集落では早い方で昭和36年(1961年)だったと思います。子供にテレビを見せておいて、その間畑仕事をしていました。子供はテレビに遊んでもらっていたようなものです。電気洗濯機を買ったのは電気釜を買うよりも早かったと思います。1日1回御飯を炊くくらいは何でもないが、毎日の洗濯はえらかった(大変だった)からです。電気冷蔵庫が入ったのは昭和30年代の後半、そのころには電気製品が大体そろっていたように思います。
 わたしどもの家でプロパンガス(*29)を使うようになったのは、はっきり覚えていないが、昭和40年代の初めころだったのではないでしょうか。鉱山の社宅では早くから使っていましたが、社員以外には売ってくれませんでした。もちろん社員の名を借りて買うという方法もあったのですが、そんなことまでしなくてもと思いしばらく石油こんろを使っていました。それでも随分炊事が楽になったと思っていました。そのうちに村内の人がプロパンガスの販売を始め、手に入るようになったのです。
 家庭の電化によって、確かに家事は楽になり、時間的余裕ができたのですが、農家ではやはり何かと仕事があり、普通のサラリーマン家庭の主婦のようにはいきませんでした。その上わたしの場合、子供が小学校に入学してからはPTA活動で忙しく、おまけに婦人会のお世話もしていましたので家を空けることが多くなりました。農作業よりもむしろそのようなことで忙しくなったので、肝心な畑仕事の方がおろそかになってしまいました。新居浜市へ転居していた両親(義父母)が『年寄りの手も農家にとっては大事な手じゃ。わしらがおらんようになり、おまけに子供を育てながら、あっちゃこっちゃ(あちらこちら)出ることがようけ(たくさん)あるんじゃけん、畑仕事もいいかげんでええわい。自分らの食べるだけのものをつくったらええけに(よいから)、もうほない(もうそんなに)隅から隅までつくらんでええ。』とわたしを気遣ってくれたのはそのころのことです。」


*23:別子山村の第1通洞南口(代々坑)から新居浜市角石原の第1通洞北口までの870mの隧道。
*24:昭和13年(1938年)から昭和48年(1973年)まで日浦坑口(別子山村側)から東平坑口(新居浜市側)までの約
  4kmを運行した坑内電車。安全のため周りを金網で囲んでいたのでかご電車と呼ばれた。
*25:別子鉱山鉄道(下部鉄道)。昭和4年(1929年)から軽便鉄道として一般営業の地方鉄道となる。昭和29年(1954
  年)瀬戸内運輸バスが路線を端出場まで延長したので、鉄道の乗客は激減、昭和30年には再び鉱石専用鉄道に戻った
  が、昭和52年(1977年)に廃止され、その歴史の幕を閉じた。
*26:かまきりのかまふりあげし猫の前(**さん作)。
*27:日本の家庭電化時代は昭和28年(1953年)あたりから始まり(昭和28年は「電化元年」とよばれた)、その後、電気
  冷蔵庫、電気洗濯機、テレビを「三種の神器」とよび、それらをそろえることがあこがれだった時期もあった。
*28:昭和32年(1957年)5月29日にNHK松山放送局が四国最初のテレビ放送を開始、昭和33年12月1日に南海放送がテ
  レビ放送を開始した。
*29:昭和29年(1954年)、プロパンガス(液化石油ガス=LPG)が全国で発売され、台所を預かる主婦にとって画期的な
  出来事となった(『昭和・平成家庭史年表(⑥)』P251より)。

写真3-1-27 かご電車

写真3-1-27 かご電車

筏津坑内に保存されている。平成10年9月撮影

写真3-1-28 小美野発電所

写真3-1-28 小美野発電所

別子山村森林組合が設立した発電所。余剰電力は住友共同電力株式会社に売っている。平成10年9月撮影

写真3-1-31 日浦坑口跡

写真3-1-31 日浦坑口跡

かご電車のさびた線路が残っている。平成10年9月撮影