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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)厄をはらい、長寿を願う

 ア 神楽での厄はらい

 **さん(伊予郡広田村高市 大正4年生まれ 83歳)
 **さん(伊予郡広田村高市 昭和4年生まれ 69歳)

 (ア)幻の里神楽

 伊予郡広田(ひろた)村高市(たかいち)地区の南側に位置し、かつて大下(おおした)と呼ばれた一帯(石野(いしの)、野地(のじ)、山谷(さんごく)、切迫(きりざこ)の4地区。)には、今から約70年前まで、個人の家に神楽太夫を招いて神棚のある座敷で神楽を奉納し、その際に厄年の者が厄はらいの祈禱(きとう)を受けることが行われていた。今はもう途絶えてしまったこの里神楽を、現在ただ一人だけ見た経験を持つ**さんに話を聞いた。

   a 神楽の準備

 「高市大下の約40戸のうち、石野地区を除き、野地・山谷・切迫の3地区、約30戸で『お神楽講』が構成されていました。この講がいつごろ始まったかは定かではありません。現在(平成10年)では、この里神楽を見たことがある者は、わたし以外にはいなくなりました。この神楽の趣旨は、大豊作の年に神様に感謝の意を込めて奉納する。また、不作が連続したとか、大きな災害に見舞われたとか、疫病が流行した時などに、世直しの名目でお神楽を奉納するものでした。昭和7年(1932年)の秋、当時わたしは17歳でしたが、わたしの家でお神楽をあげたのが最後で、それ以前では、大正末期に山谷地区で奉納されました。いわゆる昭和恐慌(*17)に見舞われ、世の中全体が暗い雰囲気となっていた時、天下泰平・五穀豊穣・家内安全を祈り、信仰の高揚に合わせて地域の活性化と集落の人々の親ぼくを深めることを願って、長い間休んでいたお神楽を奉納することになったのが昭和7年のことでした。奉納場所は3地区が持ち回りで担当しており、この時は野地地区が当番に当たっていましたので、それでわたしの家で催されたのです。
 当番地区の任務は、まず第1に、神楽を上演する場所である『お神楽宿(やど)』を相談によって決めます。お神楽宿には、その地区の名家や経済力の豊かな家が選ばれました。次に、高森三島神社(所在地は広田村高市高森。写真2-3-20参照)の神官を訪ね、こまごまと指示をいただき、神楽を奉納する日時を決定します。お神楽宿に選ばれた家は、舞台の四方に張るオシメナワ(お注連縄)をない、サカキ(ツバキ科の常緑小高木)を採って用意しなければなりません。
 次に、当番地区が神楽太夫を雇いました。このときは、喜多(きた)郡五城(ごじょう)村(現在の喜多郡内子(うちこ)町)五百木長田(いよきおさだ)地区の神楽太夫(長田神楽)でした。神楽太夫の構成は、通常は大太鼓1名・小太鼓1名・笛方(ふえかた)1名・手拍子兼歌読(うたよみ)1名・堤婆(だいば)(鬼面の役)1名、舞太夫(まいだゆう)(神楽を舞う役)4名の総勢9名でした。神官および神楽太夫の食事、ならびに直会(なおらい)(祭儀のあと、お神酒・供物をおろして参列者がする宴会)の酒と肴(さかな)の準備も当番地区がしました。肴は、豆腐・こんにゃく・イモ・油揚げ・コンブ・ゴボウ・ダイコンを材料としたお煮しめと、豆、そしてサバの酢漬けの3品とし、酒は3升と決められていました。また、神前のお供え物は、お神酒1升、お米1升、お魚1尾、お鏡餅一重(かさね)、そして野菜・乾物類・果物・お菓子などで、それらを7体か9体の三方(さんぼう)に分けて供えました。ただし、三方の数は奇数でした。
 これらの経費をどのように負担するのかといいますと、その内訳は、神官への謝礼と神楽太夫の報酬、および直会用の酒代は講組が負担しました。直会の肴と追加の酒とはお神楽宿のおごりで、それ以外の雑費は当番地区の負担となりました。」

   b 奉納の日

 「次に、奉納当日のようすをお話しします。まず、当日の朝に出発した神楽太夫は、昼ころに村のお神楽宿に到着します。そして、昼食をとるのですが、その時に酒の1升くらいは簡単に飲み干してしまいます。その後一息ついたころから、お神楽宿の座敷で上演が始まります。神官は、きちんと居ずまいを正して座敷に控えています。座敷の広さに規定はなく、神楽はその広さに応じて舞われます。わたしの家の場合では、8畳の座敷、その表隣の4畳の間、さらに反対側の6畳の間二間を、ふすまや障子、欄間(らんま)などを外し、大広間として使いました。さらに観客も座敷に上がって見物します。曲目は、まず神迎えから始まり、百姓のしぐさ・お酒造り・神々の夫婦の契り・天の岩戸・天孫降臨・オロチ退治など数々の名場面があって、全部上演すると24仕場(しば)、所要時間も12、3時間はかかるそうですが、お神楽宿ではこれを5時間程度に短縮して上演していました。お神楽の一番の醍醐味(だいごみ)は、『四天王の舞』ですね。舞太夫が刀を持ち、堤婆が棒を持って戦う姿は勇壮です。この時、観客が浮かれた声で『ヨー、ヨー』とはやすと、太夫は喜んで一生懸命に舞っていました。堤婆は、なんでもかんでも言い放題の仕放題で、天下御免です。『八方にましますカミは、いかなるカミぞ。』と太夫が問えば、それに対して堤婆が、『ぐずらぐずら(ぐずぐず)言よるが、カミはカミでもこのカミは、夕べ使うたようなカミとは、カミが違うのぞよ。』と口答えします。こうした堤婆の振る舞いに対し観客がやじを飛ばすと、堤婆も負けじと応戦し、観客からは一層大きな歓声が上がります。この、演技者と観客の一体感がなければ、神楽は弾みません。こうした、観客との当意即妙のやり取りは、やはり訓練を積んだ神楽太夫でないとできません。戦前には、総津(そうず)地区(広田村)にも神楽太夫がいましたが、こちらの方は、わたしたちが酔った勢いで舞う程度のもので、なかなかテンポよくとはいきませんでした。
 厄はらいや御祈禱を希望する者は、まず米1升くらいを前もって神官に献上して申し込んでおきます。そして、曲目が四天王の舞になると、舞台の中央に座り四方から太夫たちの優雅な剣の舞に合わせて、堤婆が依頼主の肩や患部を、力強い掛け声とともに押さえてオカジ(加持(かじ)祈禱のこと)をします。
 四天王の舞も終わりに近づき、堤婆が舞台から飛び出して外へ逃げると、舞太夫のうちの一人がこれを追っ掛けます。観客も外に出て見物します。堤婆と太夫が屋根の棟に上がり、双方が東と西に対じして、負けず劣らず逆立ちの競演を繰り返します。これが、この神楽の最高潮の場面です。やがて、堤婆と太夫が室内に戻り、曲目の続きのお宝つりや弓の舞・盆の舞などを上演し、観客の大拍手とともに閉幕となります。
 お神楽が終わったあとは、無礼講となります。神官・太夫、そして観客たちが輪になって直会が始まるのです。これがまた楽しく、3升くらいのお酒はあっという間でなくなり、追加のお酒が出されます。この追加が出せないような家は、神楽宿の指名を遠慮されたそうです。こうして、楽しいお神楽の1日が終わります。
 神楽宿を引き受けると、その家は繁盛すると言われていたので、宿の指名を拒む者はいませんでした。わたしの家も宿をさせてもらったあとは、やっぱり幸せであったように思います。その後終戦を迎え、戦後の耐乏生活のうちに、数百年に渡って受け継がれ親しまれてきた里神楽が忘れ去られてしまったことは、誠に寂しい限りです。」

 (イ)今も続けられる里神楽

 高森三島神社拝殿(写真2-3-21参照)での神楽の奉納とそれに伴う厄はらいは現在でも続けられている。このことについて詳しい**さんに話をうかがった。
 「広田村高市地区の高森に鎮座する高森三島神社に神楽が奉納され始めたのは、天正時代(1573~92年)、高森に三島様を御勧請(かんじょう)(勧請とは、神仏の来臨をこうこと。また、神仏の分霊を請じ迎えて祀(まつ)ること)したころか、あるいは、神楽がこの地方に流行したころかとも思われますが、どちらも確たる証拠はありません。
 わたしが子供のころの神楽は、神社の拝殿の周りに観客席を臨時に作って上演されていました。神楽には、村内の他の地区や村外からも見物に来ていましたので、そこが若い男女の出会いの場ともなっていました。そのころ高森三島神社のお神楽は、旧暦の2月22日と秋祭りの宵祭の日(旧暦の9月12日)に奉納されていました。その方法は、厄年(数え年で、男25歳、女33歳、男42歳、男女ともに61歳)を迎えた者が寄付金を出し、費用の不足分は高市地区で負担することに申し合わせていました。しかし、その趣旨があまり徹底しないうちに日中戦争や太平洋戦争が厳しくなり、やむを得ず神楽の奉納を休まざるを得なくなりました。
 終戦後の昭和23年(1948年)、高市地区に42歳の厄年を迎えた人が二人出たのをきっかけに、有志の呼び掛けにより、旧暦2月22日の神楽の奉納が再開されました。かつては、総津地区や、その南隣の田渡(たど)地区(現在の上浮穴郡小田町上田渡および中田渡)に神楽太夫はおりました。しかし、総津地区は早くにその人たちがやめてしまったし、田渡地区の神楽もこのころにはなくなっていました。そこで、長田神楽の神楽太夫を招いたのです。
 その後、厄年を迎えた方の御理解をいただきながら、神楽太夫の報酬は厄年の方からの寄付によって賄い、また参拝者一同へ振る舞う酒は高市地区が用意することで、神楽の奉納は盛大なものとなっていきました。そこで、高市地区外へ出ている方が参拝しやすいためには、奉納日は休日の方がいいということで、旧暦2月22日から春分の日に改めました。小学校の同級生で村に残っている者が、村外へ出ている者に『お前も厄年になったのだから、村で厄はらいをせんか(厄はらいをしませんか)。』と呼び掛けたり、あるいは、呼び掛けが来る前にその気のある人は、『自分もぼつぼつ厄年だから、おはらいをあげたい。』と、村に残っている親せきや同級生などに問い合わせをしてきます。
 もう今から2、30年も前の話ですが、不思議なことがありました。ある人が厄年を迎えたのですが、そのとき周囲の者が『厄はらいをせにゃいかんのう。』と勧めたところ、その人は『わしの厄年は来年よ。』と答えました。そして来年になると、今度は『わしは去年厄はらいを済ませた。』と言って結局厄はらいをしなかったんです。すると、途端に健康を害しました。こういうことをこの辺りでは、『懲(こ)らしめを受けた。』と言います。本当に神様が怒って懲らしめたわけではなく、『病は気から』のことわざのとおり、厄はらいをしていないという、その人の気持ちの持ち方が原因だったと思います。しかし、人はだれでも、一家が幸せでありたい、自分も含めた家族全員が健康でありたいと願っているのではないでしょうか。こうした素朴な信仰心とともに、子供のころから迫力ある演技をじかに見続け、その熱気を忘れられない思いとに支えられて、神楽が毎年奉納されている(*18)とともに、厄はらいも続けられているのだと思います。」

 イ 金毘羅宮への参詣(さんけい)

 **さん(西宇和郡瀬戸町塩成 大正10年生まれ 77歳)
 西宇和郡瀬戸(せと)町は、愛媛県の西南端佐田岬(さだみさき)半島のほぼ中央に位置し、東は伊方(いかた)町、西は三崎(みさき)町に境を接している。また、南は宇和海に向かって開け、北は伊予灘(なだ)に面している。
 この瀬戸町では、厄除(よ)けのために香川県の金毘羅宮へ参詣することが古くから続けられている。このことについて詳しい**さんに話を聞いた。

 (ア)道中のようす

 「この辺りの船持ち(船主)とか網師(網元)が、讃岐(さぬき)(現在の香川県)の金毘羅さん(金毘羅宮のこと)へしょっちゅうお参りに行き、家内安全や豊漁祈願などのお札をもらってきていたのは、わたしが参詣し始めた時よりもずっと昔からということです。金毘羅さんは航海の安全を守る神を祀っているので、こうした習慣が生まれたのでしょう。また、三崎町(西宇和郡)にもこの習慣があったということです。
 したがってこの参詣には、厄はらいを目的とする人だけではなくて、今でいうところの観光を目的として毎年参加している人などいろいろな人がおりました。参加者の中には60歳代の方もいましたよ。そうした人たちがグループをつくり、年に1回出掛けていました。ただし、参加できるのは男性だけでした。それは、途中で石鎚山に参詣するのですが、石鎚山の成就社(じょうじゅしゃ)から上は女人禁制の場所だった(*19)からです。また、これに参加する人は、出発の1週間くらい前から毎日海に入り、参詣に備えて身を清めるとともに道中の無事を祈願していました。男性だけが出掛けることができるというので、女性がそれをうらやましがることは、特にはありませんでしたね。昔のことですから、そういう男女の区別は割り切っていたのでしょう。現在では、こうはいきませんよ。逆に女性の参加の方が多いくらいです。
 わたしは、昭和13年(1938年)以来、特別の事情がない限りはこの参詣に参加しました。したがって、数え年42歳の厄年の時だけではなくて、前厄・後厄の両方にも参加していますが、ここでは初めて参加した時のことを中心に参詣のようすをお話しします。
 まず交通手段ですが、これはポンポン船(渡海船)を1隻借り切りました。出港は三机(みつくえ)港(瀬戸町)からです(図表2-3-7参照)。旅行の時期は、多くの場合が7月でした。なぜこの時期が多いのかというと、まず一つの理由は、参詣の目的地の一つである石鎚山の『お山開き(毎年7月1日から10日まで行われる)』に合わせるためです。そしてもう一つは、ちょうどこの時期が農閑期に当たるからです。5月にムギの収穫が終わり、6月のながせ(梅雨のこと)の時にサツマイモを植え付けて、ちょっとだけ暇になるころなんですよ。
 乗って行く船は、15馬力くらいの焼玉(やきだま)エンジンをつけた20人乗り程度の大きさでした。ですから、通常は一行20人くらいの参詣でした。しかし、いつだったか定かでないのですが、参詣の希望者が多くて、朝日丸と神力という2隻の船を仕立てて出掛けたこともありました。船内では炊事もできましたよ。ここでの食事では、普段はめったに口にできない米の飯を食べることができました。船で寝泊まりをしながら出発してから帰って来るまでの期間は、五日聞か長くて1週間でした。また、船の借り賃やお札の代金などを含めた費用は、一人当たり30円くらいでしたかね。成人男子一人当りの1日の労働賃金が80銭から1円で、それが日本酒1升とほぼ同額だったころのことです。こうした長期間の旅行がまだまだ珍しい時代でした。さすがに、せん別として金一封をもらったことはありません。しかし、一生の内で一度もこの地域から外の世界に出掛ける機会がなかった人も大勢おりました。ですから、出発の1週間くらい前から何かわくわくしていましたね。今でいえば、初めて外国へ旅行するような気持ちですね。
 早朝に三机港を出港した船は、翌日の未明ころに氷見(ひみ)(西条市)に到着しました。船内で食事をしたあと下船し、周りがまだ真っ暗な中を石鎚山を目指します。途中の黒川(周桑(しゅうそう)郡小松(こまつ)町石鎚地区〔旧石鎚村〕)に、三机から出掛けてきた者が常に利用していた宿があったのですが、グループの中の足の早い人が先にその宿に到着し、後から来る者の昼食の用意をお願いしておきます。天候は晴天のときばかりとは限りません。雨が降る中を頂上を目指した時は、それは大変でした。登るにしたがって風雨が下から吹き上げてきて、かっぱを着ていても何の役にも立たず、ずぶぬれになりました。当然、肌身に付けている財布もぬれてしまいましたので、宿に帰った時に、ぬれた紙幣を財布から取り出して干して乾かしたこともありましたよ。この石鎚参詣と合わせて、その近辺にある香園寺(*20)さんなどの札所へもお参りしました。
 その後再び乗船して、今度は多度津(香川県)で下船し、金毘羅さんを目指しました。この移動には電車を利用し、途中下車をして善通寺(*21)にも参詣しました。金比羅さんへのお参りが済むと、今度は船で水島灘を渡り、岡山県の沙美(しゃみ)で下船して1時間ほど歩き、金光さま(金光教のこと)にお参りに行きました。この後、大山祇神社(越智郡大三島町)や厳島神社(広島県宮島町)なども参詣しました。船での移動は昼間が中心でしたが、潮の流れに乗って航行しますので、かなりのスピードが出ていたように思います。
 金毘羅さんへの参詣の手段は、戦後になると次第に船から鉄道(*22)利用に変わっていきました。現在では、参詣の時期は正月ころとなり、またその方法も自動車に乗り合わせたりなどと変わってきてはいますが、今でも続けられています。」

 (イ)旅の思い出

 「わたしは、昭和15年(1940年)6月に徴兵検査を受け、甲種合格となりました。そして、その年の参詣にも参加をしたのですが、例年のとおり石鎚山に登った時のことです。成就社に参詣した後、その近くをぶらついていると大きなスギの木が目に留まりました。『来年は、もうここへは来られないだろう。このスギの木を見るのもこれが最後だろうな。』と感慨深く見詰めていました。戦時色が次第に濃くなってきていたころでしたから、そんなふうに考えたのでしょう。そうしていると、突然、グループの先達(せんだつ)さんから、『おまえ、兵隊に行っても生きて帰ってこられるように神様によくお願いをしておけ。そして、必ず生きて帰って神様のお世話をせよ。』と言われたことを、今でもよく覚えています。おそらく、そこで神様にお願いしたお陰だと思うのですが、この年齢になってもこうして元気でくらせています。
 旅行の途中で神社や寺に参詣をするたびに、お札やお守りをいただきます。自分の家に置くものだけではなくて、お世話になった人や御近所にお土産の意味を込めて配ったりする分も一緒にいただいてきていましたので、旅行が終わった時には、お札やお守りの数は一人でかなりなものになりましたよ。また、これにかかる費用もかなりの額になりました。こうしていただいてきたお札は、家の中に飾っておきます。すると、たびたび参詣に行く人の家にはお札が何枚もたまり、次第に置き場所に困るようになってきます。そうなってくると、古くなったお札は海に流したり、あるいは2月の節分に浜辺で焼いていました。このお札やお守りを焼くことをハヤスと言いました。今でもまれに焼いているのを見ることがあります。しかし、もともとお札にはモミの木などの材質の良いもので、さらに節のない柾目(まさめ)の部分が使われていますので、流したり焼いたりしてしまうのはもったいないと、それを使ってせいろう(蒸し器のこと)を作ったりする場合もありました。古くなったお札は十分に乾燥していますので、それを再利用して作ったものには、ねじれなどのくるいがほとんど生じなくて、いつまでも使い勝手がよかったですよ。」

 ウ 土居町・中島町・河辺村の厄はらいと長寿の願い

 (ア)土居町のようす

 **さん(宇摩郡土居町天満 昭和3年生まれ 70歳)
 土居町天満地区での厄はらいについて、**さんに聞いた。
 「天満地区では、厄年は男性の42歳、女性の33歳のことで、これ以外の例えば61歳は年賀(長寿の祝い)と言います。厄はらいの方法は地区によってさまざまなようですが、天満地区では八雲(やくも)神社(所在地は土居町天満)と、天満(てんまん)神社(所在地は土居町天満)の境内神社である大地(おおじ)神社の二つで厄はらいの祭礼が行われています。
 まず八雲神社の祭礼についてですが、正月7日に行われることから、一般には『七日日(なぬかび)』と言われていました。そして、八雲神社は、かつては牛頭天王(ごずてんのう)宮と称されていたように、牛馬の疫病除けの神様なんです。そこで、祭礼の日の餅まきに景品の一つとして子牛を投げて、それを人々が拾って持って帰っていました。『八雲神社では牛を投げる』というので評判となり、それはにぎやかな祭礼でしたよ。
 また、大地神社の祭礼日は4月10日でしたので、『天満のお十日』と言われました。ここでも餅まきが行われます。厄年を迎えた人と年賀を迎えた人(61歳、70歳、77歳、80歳、88歳、90歳、99歳、100歳)とがまきます。大地神社も牛を祀る神社で、もともとは、牛を飼っている農家からもち米を出していただいて、それで餅を作ってまき始めたのが最初です(写真2-3-24参照)。しかし、次第に、厄年を迎えた人と年賀を迎えた人がもち米を寄付してくれるようになり、また、耕うん機の普及とともに牛を飼っている農家が少なくなってきましたので、一般の農家からももち米を集めるようになってきました。こうしてかなりの量のもち米が集められ、多い時には10俵(1俵は約60kg)くらいにはなりました。餅作りは、奉讃会の世話人と厄年や年賀の当人、もしくはその家族の者が集まって行います。男女合わせて、30から40人が集まるでしょうか。餅をつくのは、今では機械を使いますので3、4時間で終わるのですが、丸めるのはどうしても人手が必要です。出来上がった餅は2個一組で袋に入れます。袋の数は、七千から八千個になりますかね。この大量の餅を投げることから、『お十日の餅投げはにぎやかだ。』と言われています。30分間もあれば、全部まき切ってしまいます(写真2-3-25参照)。祭礼は、日曜日にした方が人も集まりやすいし都合がいいのではないかという声が次第に高くなり、現在では、4月10日に近い日曜日に行われています。」

 (イ)中島町のようす

 8名の皆さんに、今度は中島町内の厄はらいなどについて、戦前のようすを中心に話してもらった。
 「町内には、厄はらいとして特に目立った儀式はありません。厄年を迎えた者が、寺社に参詣するくらいです。ただし、厄はらいは祈禱によって行いますので、主に真言宗系統の寺で厄はらいが行われました。どの地区にも共通していることは、まず厄年の年齢です。男性が42歳、女性が33歳です。これに男性の25歳と女性の19歳が加わる地区がありますが、それは戦後になってからの場合が多いのではないでしょうか。
 さらに各地区に共通していることは、厄年を迎えた当人の家が、親せきの者に手伝ってもらって餅をつき、それを親せきや近所に配ることです。配る個数は1軒につき5個か7個でした。これは奇数でないといけません。配る日は各地区により異なっていましたが、正月から2月初旬にかけての1日でした。餅は早朝の2、3時からつき始め、配り終えるころにはもう夕方になっていましたよ。ただし、大浦地区では、重ね餅が配られていました。今では、厄はらいのために餅をつくことはありません。」
 次に地区ごとに少しずつ異なっている点を聞いた。
 「(**さん、**さん)大浦地区ですが、この地区では、旧暦の1月8日に、地区内にある長善(ちょうぜん)寺(写真2-3-26、27参照)で厄はらいがありました。なぜ長善寺で行われたのかといいますと、そこは真言宗の寺であるとともに薬師如来を本尊としているからです。ですから、同じ地区内の長隆(ちょうりゅう)寺(真言宗。本尊は千手観音)や浄玄(じょうげん)寺(浄土真宗。本尊は阿弥陀如来)の檀徒(だんと)や門徒も、長善寺で厄はらいの祈禱を受け、お酒をいただいていました。また長善寺ではこの日、厄をはらうための餅投げが寺の境内で行われました。これは『福投げ』と言われました。特別にやぐらを組んで、そこから厄年の者が餅を投げるんです。この餅は厄を表していて、つまりこの行為は厄を投げ捨てることを意味しているんです。けれども、それが厄投げではなく福投げと呼ばれているところがおもしろいですね。この福投げには、それは大勢の人が餅を拾いに来ていました。餅だけではなくて、くま手やたわしなどの日用雑貨も一緒に投げていましたので、それを目当てに来ている人も多かったようです。今から30年くらい前に、それぞれの寺が檀徒をきちんと分けて持つようになりました。それ以来、長善寺ではそこの檀徒だけが厄はらいの祈禱を受け、餅を投げるようになりました。
 この行事は今でも毎年行われています。しかし、厄はらいは、寺よりも神社で行うことが多くなってきているようです。」
 「(**さん)長師地区では、寺でも厄はらいをしていましたが、多くの人は神社で厄はらいをしていました。当人がいくらかのお金を神社に寄付し、その印として境内に寄付石が建てられています。」
 「(**さん)吉木地区では、33歳の厄年を迎えた女性に、その家の者が当人に帯を買ってあげていました。」
 「(**さん)睦月地区では、厄年を迎えた者が、旧正月の3日に地区内にある当田八幡神社に参詣します。その際、自宅の門にはブリを数匹ぶら下げていました。後日、厄を食するという意味で、親しい人を招待して酒宴を催しますが、これは男性だけが行いました。女性の場合には酒宴は催さずに、当人に対して身内の者が高価な大島紬(つむぎ)の着物とか、紋付きの黒羽織などの身に着けるものを贈って祝いました。この点は、吉木地区と似ています。」
 「(**さん)元怒和地区では、厄年という考え方はありましたが、厄はらいのために何かをするということはほとんどなかったようです。たまに、厄年を迎えた者数人が集まった時に、『よい、何かするか。』と話が合って、その結果寺社などに参詣をしたり酒宴を設けるということはあったようです。」
 「(**さん)野忽那地区では、正月の吉日を占い、その日に親せき中が集まって早朝から餅をつき、その時にかまどの炭を手伝いの人をはじめ参加者の顔に付けていたそうです。しかし、かまどがなくなるとともに炭もなくなり、今ではこの風習は廃れてしまったとのことです。」
 また、**さんは年賀の思い出を次のように語った。
 「母と年賀が一緒になったことがありました。母が77歳でわたしが61歳の時でした。この時に、『祝い負けるけん、せられん(祝い負けるから、祝いをしてはいけない)。』と言われました。わたしの場合は、母の年賀祝いを先にして、わたしのを後からするというように別々に祝ったのですが、複数の祝い事を同時にするものではないと考えられていましたね。
 今では、61歳になっても『ろくいち(61)などと言うな。わしは、まだ年をとっとらん(まだ年寄りではない)。まだ若いんじゃけん(まだ若いのだから)。』と逆に怒られますよ。」

 (ウ)河辺村のようす

 **さん(喜多郡河辺村北平 明治42年生まれ 89歳)
 **さん(喜多郡河辺村川崎 大正11年生まれ 76歳)
 河辺村での厄はらいなどについて、**さんと**さんに聞いた。
 「厄年は、まず女性の33歳がこれに当たります。そして、男性の場合は42歳が厄年で、これはヨダメシ(世だめし)と呼ばれていました。この時には、地元の氏神様や讃岐(香川県)の金毘羅さんにお参りに行くくらいです。
 昔は、61歳の還暦の祝いと言えば、ごちそうをこしらえて親せきや地区の人を招いてどんちゃん騒ぎをしていましたよ。ただし、どちらかといえば男性の方が盛大に祝っていました。喜寿(77歳)・米寿(88歳)の祝いも、お客さんを大勢呼んで行っていました。どの祝いにも村独特のしきたりというものはありませんでした。」


*17:昭和5年(1930年)から7年に日本を襲った大不況。前年の昭和4年、ニューヨークのウォール街での株価暴落に始ま
  る世界大恐慌と重なったため、深刻さやその長さでは、資本主義成立以来最大。特に農産物価格の下落は著しく農村は窮
  乏し、商工業の不振で失業者が増加、社会不安が増大した。
*18:現在は、喜多郡内子町大字立川から立川神楽の神楽太夫を招いている。
*19:昭和21年(1946年)に、7月1日から10日までのお山開きの期間のうち、7月6日からは、女性の登山を解禁するこ
  とが決められた。その後、昭和36年(1961年)からは禁制期間を7月1日と2日に縮め、さらに昭和57年(1982年)
  以降は、お山開きの初日の7月1日だけとなった。
*20:周桑郡小松町にある四国霊場61番札所。
*21:香川県善通寺市にある四国霊場75番札所。
*22:昭和14年(1939年)2月6日、国鉄(現在のJR)の予讃本線が八幡浜市まで開通した。

写真2-3-20 高森三島神社参道

写真2-3-20 高森三島神社参道

平成11年2月撮影

写真2-3-21 高森三島神社拝殿

写真2-3-21 高森三島神社拝殿

平成11年2月撮影

図表2-3-7 金毘羅宮への参詣関係図

図表2-3-7 金毘羅宮への参詣関係図


写真2-3-24 年賀記念で奉献された牛の像

写真2-3-24 年賀記念で奉献された牛の像

牛にゆかりのある神社ならではのもの。大地神社にて。平成10年12月撮影

写真2-3-25 天満神社周辺

写真2-3-25 天満神社周辺

石段を登ると大地神社がある。祭礼当日は、投げられた餅が右手の川にまで飛び込む。平成10年12月撮影

写真2-3-26 長善寺境内

写真2-3-26 長善寺境内

平成10年9月撮影

写真2-3-27 長善寺参道

写真2-3-27 長善寺参道

左手に、厄はらいや年賀にかかわる献金を示す石柱が並ぶ。平成10年9月撮影