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愛媛のくらし(平成10年度)

(2)野辺の送り①

 ア 土居町の弔い

 **さん(宇摩郡土居町天満 昭和3年生まれ 70歳)
 土居町に多く広まっている仏教の宗派は真言宗であるが、浄土真宗など他の宗派も存在している。そして、葬制は各宗派ごとに、さらには町内の各地区ごとに少しずつ異なっている。また弔いは、各地区内のさらに小さな集団である組を単位として(写真2-3-6参照)、それを構成する人々が協力して行っていた。そこで、ここでは、同町天満(てんま)地区を中心として、戦前から昭和30年代ころまでの、町内の各地区・各宗派にほぼ共通した葬制を探ることとした。
 **さんに語ってもらった。

 (ア)臨終の日

 「人が亡くなると、その家の中で一番上等の部屋である座敷(床の間が備わる)に布団を敷いて寝かせます。このとき、北の方角を頭にします。さらに、掛け布団の上に本人が生前に愛用していた上着を掛けます。あるいは、せっかく作ったのに一度も袖(そで)を通さなかった上着があるならば、せめて亡くなった時にでも着せてあげようという思いで、そちらを掛ける場合もあります。
 故人の枕元にはいろいろな物をお供えします。まず、火の付いたろうそくと線香を供えますが、これらをマクラノヒ(枕火)といいます。また、オクリダンゴ(送り団子)も供えます。このダンゴは玄米をうすでひいた粉で作りますから、その色は黒くてきめは粗く、もち肌と言われるようにはなりません。作る個数は4個か6個でした。この数は、4は『死』を6は『六地蔵(*9)』を意味しているのではないかと思います。今でも、葬儀社はオクリダンゴは用意しませんから、自分のところで作らなければなりません。オクリダンゴは、遺体を納棺する時に棺の中へ一緒に入れてあげます。
 さらに枕元には、茶わんに御飯を盛り、それにはしを1本だけ縦にまっすぐ突き刺したものを供えます。子供がはしを1本しか使わずに御飯を食べたり、食事中にはしを手から離す時に御飯に突き刺したりすると親から怒られたのは、こうした理由があるからです。お線香も、仏壇やお墓に供える場合には2本立てますが、枕元の場合には必ず1本だけです。足元には、刃物(『守り刀』とも言う)と座敷ぼうきを置きます。これは『魔を払う』という意味で、故人が安らかに眠ることができるようにするためです。
 さらに、神棚の前面には白い紙を必ずはり付けます。これを『神棚封じ』と言います。これは、神様に遺体をお見せすることは御無礼になると考え、神様に目隠しをしているのです。
 亡くなったことを故人の親せきへ知らせることをシンセキジラシ(親せき知らし)と言いました。これは、組の人が二人連れで行きました。決して一人ではしませんし、また故人の家族がするものでもありません。あまりに遠方の親せきへは無理ですが、今の土居町内くらいの範囲にはこうして知らせていましたよ。現在では、電話を使って済ませるようになりましたが、丁寧な家では、今でも直接出向いて知らせています。役場への届け出も該当する組の人が担当しました。
 死亡の報を聞き付けて、弔問客が訪れるようになりますね。本来ならば喪主(もしゅ)が応対すべきなんですが、なかなかそうもいきません。そこで、これを受け付ける役割を故人の親せきが担当します。これをクヤミウケ(悔やみ受け)といいました。晩にはお通夜が営まれ、弔問客によって故人がしのばれます。またこのときに、明日行われる葬式の役割分担や葬列の役付けなどが、世話役である地区の長老を中心に決められていきました。」

 (イ)入棺前後

 「葬式は、亡くなった翌日の午後に行いました。なぜ午後なのかというと、当時は土葬でしたから棺を埋めるための穴が必要で、それを午前中に掘るからです。棺は、時には寝棺(遺体を寝かせた姿勢で納める棺)もありましたが、たいていは座棺(遺体を座らせた姿勢で納める棺)でした。したがって、穴は縦穴で、その大きさは棺の寸法より若干大きめにしました。土質が堅い所では、スコップで垂直に穴を掘っただけで壁が崩れることはありません。この工法は掘り抜きと言われました。また、土質が柔らかい場合には、海岸や河原から手ごろな石を集めてきて、それを墓穴の四方の壁に積み上げて補強しました。穴はフタイシ(蓋石)で閉じましたが、それはできるだけ一つの石でするようにしていました。そうなると、フタイシの寸法は4尺(1尺は約30cm)四方くらいは必要になります。以前は、このような大きい石は、探せばすぐに見つかっていたのですが、だんだんと無くなりました。そこで、しだいに2枚石になったり、コンクリート製のもので代用するようになりました。
 もし、亡くなった翌日が友引(*10)に当たれば、その日を避けるために葬式をもう1日遅らせます。つまり遺体を座敷に寝かせておくのが二晩になるわけです。ここで問題になるのは、人間の遺体は傷みやすいことです。現在なら、ドライアイスを遺体の回りにおいて冷やしますので、ほとんど傷みませんが、そうした方法がないころ、特に夏などには傷み具合がひどくて、入棺(遺体を棺に納めること。納棺と同じ意)の際などはそれは大変でした。
 葬式の進み具合は、組で役割を分担された者2名が鉦(かね)(梵鐘(ぼんしょう)。鉦鼓(しょうこ)〔当り鉦〕)をたたきながら地区内を巡回して知らせました。鉦には銅鑼(どら)の形をしたもの(写真2-3-7参照)もありました。鉦は三番(度)鳴らされ、一番鉦は僧侶がお見えになったことを、二番鉦は僧侶が読経を始めたことを、そして三番鉦は焼香の終了と出棺が間近であることを伝えました。
 入棺の前には湯灌(ゆかん)(遺体を棺に入れる前に湯でふき清めること)をしました。湯灌は、入棺に立ち会っている者それぞれが1本ずつお線香を持ってお経を唱える中で、数人の手によって行われました。この作業をする人が掛けるたすきや棺結びのための荒縄は、組の人がなっていました。しかし、この荒縄を作るのに用いられるわらは、通常のようにあらかじめ打って柔らかくはしていませんでしたから、堅くて縄をないにくかったです。その上、左縄(ひだりなわ)といって、普通の縄とない方が逆で、左へ回してなった縄です。これはなかなか難しいんですよ。ある程度作り慣れた者でないと縄はでき上がりません。わたしも、機会がある度に左縄のない方を教えていたのですが、いつも最後にはわたしが仕上げることになったりで、結局、左縄をなえる人がだんだんと少なくなっていきました。縄をなうのと同時に、6足のわら草履も作りました。この草履は、葬列で用います。
 湯灌が終わると、遺体を死装束に着替えさせます。死装束とは、極楽浄土までの道中用の旅装束のことです。四国八十八箇所を巡るお遍路さんの衣装とだいたい同じと思ってください。かつては、きちんと布で作ったものを着せていましたが、今は葬儀社が用意してきた紙製の衣装を遺体の上に置く、例えば足袋ならば実際に履かせたりしないで、足の上に乗せて外れないように縛るという仕方が多くなっています。
 いよいよ棺が家から出るという時に、出口で茶わんを割ります。ここで割る茶わんは、本人が使っていた物でも、そうでなくてもかまいません。また、だれが割るのかも地区によりいろいろで、特には決まっていないようです。では、なぜこういうことをするのかと言いますと、人が亡くなることはとても悲しいことですが、いつまでも悲しんでばかりいるわけにはいきません。どこかできちっと一線を引かなければならない。またそうしないと、故人もこの世に未練が残り成仏しにくいでしょう。生き残っている者が気持ちの上でけじめをつける意味を込めて、茶わんを地面にたたきつけるのです。故人にまつわるいいことも悪いことも、千々に砕けて飛び散る。つまり忘れるということですね。この後、葬列が組まれ墓地へと向かいます。」

 (ウ)葬列について

 「天満地区に多いのは真言宗ですので、その葬列についてお話しします。その前に葬列とは何かと言いますと、それは、生き残っている者が故人を極楽浄土へ送ってあげるために行うものです。また、そうして差し上げることが、生きている者の務めだと思いますよ。
 葬列には、役付け(役割や使用する葬具)と並ぶ順序が決まっていました。まず、列の先頭を歩くのがゼンク(前駆)です。これは先導役で、地区内のだれからも敬服されている長老格の者2名が務めます。葬列の進む速さを調整したり、粛々と進むべき葬列に対して何かの妨害があった場合には、それを取り除いたりする大事な役目です。
 次がシャスイ(洒水)です。これは、木製で塗りを施した四本足付きの平らな台の上に、水が入った錫(すず)製のおわんが乗っているものです。これには、台が真鍮(しんちゅう)(*11)製で同じく真鍮製の筒をおわんにかぶせるものもありました(写真2-3-8参照)。全体の高さは20cmくらいです。この水は、僧侶が、拝む前の祓(はら)いとしてウメの枝に付けて四方にまきます。シャスイを運ぶのは1名です。
 シャスイの後に続くのがシホンバタ(四本幡。写真2-3-9参照)です。これは、竹ざおの先に布製の幡をくくり付けたもので、一人が1本ずつ持って計4名で運びます。幡には『諸行無常(しょぎょうむじょう)(*12)』『是生滅法(ぜしょうめっぽう)(*13)』『生滅々己(しょうめつめつい)(*14)』『寂滅為楽(じゃくめついらく)(*15)』の白抜き文字がそれぞれ書かれていました。また、文字ではなくて図柄が描かれている幡もありました。その図柄には極楽浄土の様子を想像した、例えばハスの花などが多かったですね。閻魔(えんま)大王が大きな口を開けてにらんでいるようなものはありませんよ。
 次にトウロウ(灯籠)一対とシカ(四花・四華・紙花。写真2-3-10参照)が続きます。シカとは、真鍮で4本のハスの花を作り、それを一人が1本ずつ計4名で持ったものです。現在では紙製が一般的で、葬儀社が準備してくれます。
 シカの後に、セイカ(生花。白菊など)・ハナワ(花輪)・ゾウカ(造花。ハナシバ〔花芝。シキミ・シキビのこと〕が多い)・モリモノ(盛物。菓子などのお供え物。写真2-3-11参照)と続きます。これらを持つのは一対2名ずつが一般的です。
 続いてコウロ(香炉)・ウワギ(上着。本人が一番大事にしていた衣服)が並びます。この二つを運ぶのは大事な役目で、だれでもは担当できません。コウロは故人のいとこが、またウワギは故人の姪(めい)がお盆に乗せて持ちます。この後を導師(法会(ほうえ)・葬儀などを主となって執り行う僧のこと)が歩きます。
 ここから後も、コウロ・ウワギと同様に葬列の中での大事なものが続きます。まずツエカサ(杖笠)ですが、杖をつき笠をかぶって歩くのは、故人の孫か曾孫(ひまご)です。この杖と笠には、故人が極楽浄土までの道中で暑くないように、また歩きやすいようにと持たせてあげる意味があるのでしょう。
 続いてマクラノヒです。故人の枕元に置いてあったろうそくや線香を台に乗せて(口絵参照)運ぶのですが、この役は故人の姪が担当します。ただし、姪の内でも血筋が故人に最も近い者が選ばれ、当然、先ほど登場したウワギを運ぶ姪よりも格は上になります。マクラノヒには、極楽浄土までの道中の足元を照らす意味があると言われています。
 この後を、喪主に次ぐ立場の者が遺影を、そして喪主が位牌の入ったイハイドウ(位牌堂。写真2-3-12参照)を持って続き、さらにその後ろを、リヤカーの形をしたレイキュウシャ(霊柩車。写真2-3-13、14参照)に乗せられた棺が運ばれて行きます。レイキュウシヤの引き手は1名で、この役には多くの場合故人の孫がなりますが、子の場合もありました。年少の孫一人だけの力で本当に引っ張ることができるのかと思われるかもしれませんが、格別に力がなくてもかまいません。役付けとして形の上で引っ張るだけですからね。実際にレイキュウシャを引くのは親せきの者数人で、これはカンゾエ(棺添え)と言われます。
 以上のウワギからツエカサ・マクラノヒ・遺影・イハイドウ、そしてレイキュウシャの引き手までの6名のみに、新しく作られた草履があてがわれます。このことからも、これらの6名が葬列の中でも大事な役割であることが分かります。草履は、葬列が墓地に到着し埋葬が終わった後、鼻緒を切って履けないようにして墓地にそのまま置いておき、翌日のハカジマイ(墓じまい)の時に燃やします。
 葬列の話に戻りますと、棺の上にはテンガイ(天蓋)を掲げます(口絵参照)。これは、棺に雨風や直射日光が当たらないようにするためのかさで、掲げるのは故人のムスメモコ (娘殿。娘の夫のこと)の役目です。
 列の最後尾はシンガリ(殿)と言われ、先頭でゼンクの役をする地区の長老格に次ぐ地位の者2名が務めます。これは、葬列全体を後ろから見渡してその乱れを調整したり、あるいは列の背後からの妨害を取り除いたりする役目です。シンガリを務めた者が、いずれはゼンクを務めることになります。
 以上のように、葬列には細かな役付けがあるんです。そして、だれがどの役に付くかということはとても大事なことなんです。どうしてかといいますと、もし、その役に付くべき者が付いていないとなると、葬列を見た人が『あれは、どしたん(あれは、どうしたのか)。ちょっと、ちごうとんでないんで(少し、違っているのではないか)。』と違和感を感じ、さらに『どしてじゃろうか(どうしてだろうか)。』と不要なせん索が入り始めるからです。ただ、家にはそれぞれに異なった事情があるものですから、役付けが通常通りにいかない場合も当然出てきます。そのような時に、周囲の者の意見との折り合いをつけるのは、やはり地区の長老でした。
 また、人によっては姪や子供がいない場合がありますね。そうした場合でも、例えば姪がいないからといって、葬列からマクラノヒを省くということは絶対にしません。省くことは、故人に対して失礼になります。なぜなら、葬列のさまざまな役付けは、故人が安心して喜んで極楽浄土へ旅立つことができるようにと、そうした願いを込めてしているのであって、生きている者の都合に合わせるべきではないからです。『どっち道、遺体は墓地に埋めるのだから、どんな形で家から墓地へ向かっても同じじゃないか。』という程度の気持ちで葬列を出したのでは、故人に申し訳が立ちませんよ。
 葬列に使う葬具は、地区内の小集団である組単位で、一式ずつ保有していました。本来、葬具は真鍮製が一般的でしたが、それらは手入れが面倒で、また破損した場合の修理も大変です。さらに、この修理ができる人もだんだんと少なくなりました。つまり、組単位で葬具を保有することはかえって不便だということになり、昭和30年代後半に、天満地区全体で葬具一式を持っていればいいのではないかということになりました。そこで、各組が保有していた葬具を持ち寄ったのですが、どれも一部分が足らない状態で、どう組み合わせても正式な一揃(そろ)えになりません。また、いまさら不足している道具を真鍮で作るのも大変です。そこで、布に葬具の絵を描き、それを幡にしたものを使うことになりました(写真2-3-15参照)。
 葬列によって墓地まで運ばれた棺は、すでに準備されている穴に納められます。墓穴をふさいだ上には、墓標か家の形をしたコヤド(小宿)と言われるものを建てました。また、墓の周りは竹矢来(たけやらい)(竹を粗く斜めに組んで作った垣根)で囲みますが、正面はマクラノヒなどを置くことができるように開けておきます。したがって、墓の囲み形は、コの字型に少し袖(そで)が付いたような形になりました。さらに、その周りに白い石を敷き詰めました。四隅にシカを飾り、前面左右に花立を立て、ハナシバや生花を生けます。」

 (エ)故人への思い

 「初七日(臨終から数えて6日目の晩のこと)の前夜のことをタイヤ(逮夜)と言います。タイヤには、親族や知人・友人などが集まり、故人の冥福(めいふく)を祈って、お先達さんに合わせて念仏を唱えます。次に二七日(ふたひちや)、三七日、四七日、五七日(35日と言う)、六七日、七七日(49日と言う)と続きます。この七七日(49日)のトイアゲで一区切りとなります。この日で故人の霊が喪家から離れると考えられ、これをもって忌明けとし、満中陰(まんちゅういん)と言います。
 亡くなった日によっては、このトイアゲが3か月目にかかる場合がでてきます。このことをミツキゴシ(三月越)と呼び、昔から『ミツキゴシにするものではない。』と言われています。ミツキゴシを避けるには、本来7日目ごとに行う法事の間隔を少し短くする方法などいろいろあります。
 トイアゲが終わりますと、位牌を仏壇に飾り、毎朝最初の御飯とお茶をあげ、灯りをともし香をあげて拝みます。同時に、神棚封じもこの日に解きます。
 また、トイアゲまでの間、故人が生前着用していた着物を裏返しにして家の北側の軒下につるしたものに毎朝水を掛けるという習慣がありました。これは、この期間は、故人の魂が極楽浄土へ向かって旅をしている途中だと考えられ、その道中には、地獄絵図に見るような『火の車(罪人を乗せて地獄に運ぶ火の燃えている車)』や『賽(さい)の河原(冥土(めいど)の三途(さんず)の河原)』などがあり、艱難辛苦(かんなんしんく)に耐えなかったら極楽にたどり着けない。『炎のそばを通るのは、さぞや熱かろう。』ということで水を掛けてあげるのです。
 仏が初めて迎える正月のことをオタツミ(お辰巳)と言い、節季(せっき)(季節の終わりの意。特に年末を指す)に行われました。これは、生きている者が正月を迎えることと同じで、『じいちゃん、お正月が来たけんな(来たからね)。』などと言いながら、墓前に門松を立てしめ縄を張って準備をしておきます。そして、12月の最初の辰に当たる日の夜に人々が集まり、辰と巳の刻(真夜中)に墓地へお参りをしました。『今年の冬は暖かいなあ。』と思っていても、どういうわけかこのオタツミの日には寒くなります。ましてお参りをするのは夜中ですから、寒さはなおさらです。わたしがまだ小さい時、『早うお墓へ行こうや。』と言ってみんなを誘っても、お年寄りの方から『何を言よんぞ(何を言っているのか)。いつ墓地へ出掛けても分かるまいと思っても、あっち(あの世のこと)から見よんぞ。行きたけりゃ一人で行け。』と怒られました。これが昔の人の律義なところですね。今では、まだ日が暮れないうちに出掛けることが多くなりました。また、お墓への道中では人に出会っても声を掛けないで黙って歩いていくものだと教えられました。
 そして、墓地で何をするのかといいますと、その日についた餅(もち)を持って行き、それを包丁の先に突き刺し、わらを燃やした火で焼いて食べるのです。しかし、つきたての餅がこの程度の火力で焼けたりはしません。くすぶって餅が真っ黒になるだけです。この餅を世話役さんが包丁で切り分けて、お参りに来ている人たちに一切れずつ食べさせます。とても、うまいというものではありません。わらのすすで臭いくらいですよ。でも、これがしきたりですから仕方ありません。『わしゃ(わたしは)後の方で、みんなに分けて済んで小さくなった残りをもらおう。』などと横着を構えていたら大変です。お参りに来ている人数が少ない場合には、切り分けられた後でも餅は大きいままが残るでしょう。それを一人で食べないといけなくなるからです。食べたくないと思って隠れていても、『おい、もうだれが残っとんぞ(だれが残っているのか)。』と呼び出され、『こんだけ残っとるけんの(これだけ残っているからな)。』と大きい餅を渡されます。『しもた(しまった)。はよもろといたらよかった(早くもらっていたらよかった)。』と後悔しても始まりません。『食べないと、亡くなった人が喜ばんぞ。』と言われたら、それ以上は抵抗できませんからね。
 故人が初めて迎える盆をアラボン(新盆)と言います。盆の入りの日(8月13日)には墓参りをし、仏前に盆提灯をつり明かりをつけます。これが迎え火です。翌14日にはヒトモシをします。これは、1日のうちで最も暑い午後の日盛(ひざか)(午後2時から3時)に、新墓の前で火をたくのです。このヒトモシには、事前に木と竹を準備しておきます。木は割りばしより大き目に割ったものを108本用意し、それを2本ずつわらで束ねておきます。また竹は、節が何か所かある長さ50cmくらいの青竹を用意します。これらを同時に燃やしますと、10分から15分で竹の節が音をたてて鳴ります。パーンと大きないい音がすると、『あの世で、よう(よく)聞こえたろうな。』と言って、故人の冥福を祈るのです。かつては、3年火までしたのですが、しだいに1年火や2年火でトモシアゲをするようになっているようです。お盆の最後の日(8月16日)には送り火をたき、霊を送り出してアラボンの法要を終わります。
 寒い時のオタツミ、暑い時のヒトモシともに、故人への追善供養の表れでしょう。
 ここまでお話しした弔い全体に一貫していることは、『このようにしてあげたら、故人が安らかに眠ることができるのではないか。また、喜ぶのではないか。』という故人への思いです。またそうしてあげることが、生きている者の当然の務めであると考えられていました。そして、これについて、面倒臭いとか、ばからしいからやめてしまったらいいのになどと言う人はいませんでしたね。」


*9:衆生(すべての生き物)がこの世で行ったそれぞれの行為のむくいとして、死後住まなければならない六つの世界(地
  獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を六道と言い、そのそれぞれにいて、衆生を教化・救済するという6種の地蔵菩薩が
  六地蔵である。
*10:暦に関する書物である『暦本』に記入される事項(暦注)の六輝の一つ。朝晩は吉、昼は凶とする。俗信で、友を引く
  として、この日に葬式を営むことを忌む。六輝とは、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の6種のこと。
*11:銅と亜鉛との合金。黄色で、展性・延性に富むので細線・板・箔とする。また、腐食されにくいから、機械・器具の部
  品に用い、流動性に富むので精密な鋳物用となる。
*12:この世に存在するすべてのものは、常住することなく流転していく。人の一生は無常であるという仏教の根本的な考え
  方。
*13:諸々のつくられたものは無常である。生じては滅びる性質であり、それらの静まることが安楽であるという意。
*14:生滅は生と死、滅己は滅ぼし尽くすこと。現世の生死を超脱し、悟りの境地に入る意。
*15:煩悩の境界を離れて寂滅涅槃の境地に達し、そこに真の楽しみを見出すこと。

写真2-3-6 組を示す幟

写真2-3-6 組を示す幟

左が原久保市場組、右が出店寺ノ下組の幡。両組とも天満地区内にある。平成10年12月撮影

写真2-3-7 鉦と木づち

写真2-3-7 鉦と木づち

平成10年12月撮影

写真2-3-8 シャスイ

写真2-3-8 シャスイ

真鍮製のもの。平成10年12月撮影

写真2-3-9 シホンバタ

写真2-3-9 シホンバタ

右より、「諸行無常」「是生滅法」「生滅々已」「寂滅為楽」と文字が染め抜かれている。平成10年12月撮影

写真2-3-10 シカ

写真2-3-10 シカ

真鍮製の4本のハスの花が並ぶ。平成10年12月撮影

写真2-3-11 モリモノ

写真2-3-11 モリモノ

真鍮製のもの。中にお供え物が入る。平成10年12月撮影

写真2-3-12 イハイドウ

写真2-3-12 イハイドウ

真鍮製のもの。平成10年12月撮影

写真2-3-13 レイキュウシャ

写真2-3-13 レイキュウシャ

平成10年12月撮影

写真2-3-14 レイキュウシャ(後部)

写真2-3-14 レイキュウシャ(後部)

後部より棺を入れる。平成10年12月撮影

写真2-3-15 葬具を描いた幡

写真2-3-15 葬具を描いた幡

平成10年12月撮影