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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)新年を寿(ことほ)ぐ

 ア 初もうで

 行く年を送り、来る年を迎える除夜の鐘を合図に神社仏閣を参詣する初もうでは、元日ならではの情景であり、庶民生活の1年はここに始まるといっても過言ではない。桜丁に明治6年(1873年)建立された安藤神社は、寛政5年(1793年)に起こった吉田騒動(武左衛門一揆(ぶざえもんいっき))(*2)の際に、藩の責任を一身に負って、宇和島の八幡河原で切腹をした家老安藤儀太夫継明(1747~93年)を祀(まつ)った神社で、町民にとって親しみ深い神様として、初もうでに訪れる人も多い。**さんに話を聞いた。
 「安藤神社にはけっこう初もうでがあり、おみくじやお札を欲しいという人もありますから、大みそかの夜の9時、10時ころからずっと社務所に詰めています。今のことですから、神社にもテレビがありますので、ちびりちびりと酒でもやりながら紅白歌合戦などを見ています。初もうで客が来るのは、歌合戦が終わって、除夜の鐘が鳴り出してからです。午前2時ころいったん帰って、また、夜が明けてから出ていき、あとはだいたい一日中神社に詰めています。」

 イ 年始回り

 新年が明けると、日ごろ世話になっている家々を訪ねて新年のあいさつをする風習は、現在もさまざまな形で広く行われている。**さんに子供のころ(大正時代)の年始回りの様子を聞いた。
 「わたしが小学生のころは、元日には、朝、学校に行って校長先生の話を聞いたら、同じ町内の者が組になって、先生のうちやら町長さんのうちやらを訪ねて行きよりました。みんな羽織袴(はおりはかま)で行くんです。先生のおうちを訪問したときには、奥さんが出てきなはいましたので、お正月のあいさつをして、画用紙を切って作った名刺を置いて戻りよりました。学校に行ってから町を回るんですから、お昼までかかりよりましたなあ。それがお正月の一つの行事でした。印象に残っとりますなあ。」

 ウ 正月のくらし

 正月には、歳徳神(としとくじん)(年神様、正月様)が家に降りてくると考えられ、それをお迎えし、お祀りするためのさまざまなしきたりが年末から正月にかけて各家でみられる。吉田の正月風景を再現してみた。

 (ア)年神様をお迎えする

 「(**さん)お正月の準備は、毎年、年末の28日か29日ころにしています。
 まず、神棚の掃除です。わたしのところの神棚には、氏神のお八幡(はちまん)様、お歳徳様、恵比寿(えびす)・大黒天(だいこくてん)(*3)(土人形20組)、牛様(土焼)などが祀られています。牛様は、金庫箱の上に『開運』という字を書いた座ぶとんを敷いて、その上に載せています。座ぶとんは、何かよいことがあった年に新しく縫って重ねていきます。あまり古くなったのは捨てますので、今一番古いのは大正14年(1925年)のものです。また、金庫箱には、座ぶとんを新しくするたびにおさい銭を入れることになっていまして、江戸時代の古いお金が入っています。神棚には、掃除が終わったら1間幅(約1.8m)のしめ飾りを飾ります。わたしのところでは、既製のものの真ん中に、メザシとヤマクサ(ウラジロ)とカブス(ダイダイ)を紅白のもっとい(元結(もとゆい))で結んで飾ります(写真1-3-3参照)。家の門の上にも同じ1間幅のものを飾ります。お神酒(みき)は大みそかにお供えします。
 台所にあるお荒神(こうじん)様にはえびじめ(エビの形のしめ飾り)を飾ります(写真1-3-4参照)。また、家中の部屋部屋、お手洗い、風呂場などに輪じめ(小型の輪になったしめ飾り)を飾ります。しめ飾りは正月3日まで飾ったあと下げておいて、1月15日に神棚のお餅(もち)1個と一緒に燃やします。しめ飾りは、以前は農家の人が注文を取りに来ていましたが、最近はスーパーなどで買うようになりました。
 お鏡(餅)は、大きな一重ねをお床(とこ)に飾ります。お三方(さんぼう)(神様などに食物を供える四角な台)に半紙を敷き、ヤマクサの上にそのお重ねを置き、その上にカブスを載せます。お床飾り、掛け物もお正月用に換えます。ほかに、お重ね2組をお寺へ持っていって、観音様と御先祖様にお供えしていただきます。そのとき、いっしょに御斉米(せいまい)料も(昔は米だったが、今はお金で)お供えします。
 神棚へは、お鏡を『へぎ(ヒノキやスギなどの薄板で作った正方形の盆)』に載せて、お供えします。大きなへぎ(1辺が20cm)にはヤマクサを敷き、直径が7、8cmのお餅を2段重ねにして二つ横に並べ、その上にカブスを載せます。また、小さいへぎ(1辺が15cm)に、やはりヤマクサを敷き、小さいお餅(直径3、4cm)を2段重ねにしたものを三つ、三角形に並べて、その上にカブスを載せます。こうして、大きいへぎを真ん中に、その両側に小さいへぎを添えるような形で神棚にお供えします。
 そのほか、わたしのところでは、天秤(てんびん)(**家は藩政時代に両替(りょうがえ)商を営んでいたので、今でも天秤を大切にしている。)の上と蔵とお荒神様には、神棚にお供えした小さなお鏡と同じものをそれぞれ一組ずつお供えしています。
 仏様(仏壇)へは、お鏡の小さな重ねを、三つを一対にしてお供えします。また、正月三が日は、朝はお雑煮(ぞうに)を、昼にはお霊供(りょうぐ)(霊前に供えるもの)をお供えします。お雑煮には、お餅のほか、ホウレンソウと薄切りのダイコンを入れています。
 お正月の問、わたしはだいたい家にいます。親戚(しんせき)の方なども来られますので、留守にするわけにはいきません。正月3日、盆3日は『御先祖様が来られるから女は外出してはならない。』とよく親から言われてきました。」
 「(**さん)元日は、まずお屠蘇(とそ)をいただき、お雑煮を食べたあと、神社とお寺に初もうで、初参りに出かけます。氏神様の八幡神社では、毎年、家内安全のお札を受けています。午後からは親戚回りなどをして過ごします。年末から正月にかけて、わたしのところでは、特に男がしなければならないというものはありませんので、家のことはほとんどしません。」

 (イ)神農様をお祀りする

 「(**さん)わたしたちの代になってからは略式になってしまいましたが、以前は、正月のお供えは丁寧にやっていました。
 お三方に奉書(ほうしょ)(厚手の上等な和紙、今は半紙を使用)を敷き、お米を1升(約1.8ℓ、重さ約1.5kg)入れてヤマクサを敷き、お鏡を載せてその上にお葉付きのダイダイを置きます。ここまでは、たぶんどこのうちも同じだと思いますが、うちではお鏡の前にかち栗、干し柿、豆、昆布を置きます。豆は、殻付きの落花生を毎年しまっておいては出していました。それと、大きな炭(長さ15cmくらい)を奉書で包んで金と白の水引を掛けてお鏡の前に置いていました。去年か一昨年(おととし)か、蔵の掃除をしていたら、その炭が出てきました。
 うちは薬屋ですから、床の間には薬の神様の神農(しんのう)さん(*4)の像を置き、神農さんの掛軸を掛けていました。神農さんは、昔は真ちゅう製だったように思うんですが、戦時中に供出してからは陶器製のものを飾りよりました。それもいつやら割ってしまって、今は掛軸だけになっています(口絵参照)。
 そんなことで、お鏡は大きなのが床の間の神農さんのところにいくわけですが、あと小さいのを五つ、輪じめといっしょに、居間の神棚、炊事場、店、便所、それと庭に祀ってある弁天様(弁財天(べんざいてん))のところにお供えします(写真1-3-5参照)。炊事場にはお荒神さんというのがありますし、便所の手洗いの上や店の鬼門(きもん)(方位に関する迷信の一つで、何事にも忌み避けるべき方角)にあたる場所にも神棚があったんです。
 うちでは、1月8日にお鏡開きをします。ぜんざいを作って、それにお鏡を切って入れて神農さんにお供えするんです。なんで8日にするのかというと、8日が神農さんの祭り(*5)だというだけで、根拠とかは知らんのです。母がしよったから、しよるというだけで、昔の人がしよりなさったことをただ意味もわからずにしよるいうだけです。
 弁天様いうのは、さあいつころからうちの庭にあるのか知りませんが、祠(ほこら)は明治3年(1870年)に建てられたということです。どこぞ(どこか)にあったのをうちが引き取ってお祀りしたいうようなことは聞いたことがあるんですけど、詳しいことはわかりません。
 7月の16日か18日がお祭りだったと聞いておりまして、昭和の初めころまでは大勢お客さんを呼んで、夏祭りもしていたらしく、ずっと昔は売り物の市が立ったとも聞いています。そのころ使った提灯(ちょうちん)や太鼓が今でも蔵に残っています。今は、年に1回、お正月の前に掃除するくらいです。お飾りをしたり、元旦にお神酒をあげたりはしています。
 お正月の雑煮は、昔はエソの子(ボラメ)を素焼きにしてちょっと干したもので、だしをとっていました。これも今はやっていません。餅は丸餅を焼いて、具はあまり入れず、かまぼことタカナ(高菜)くらいで、あっさりとしたすまし汁です。タカナを入れるというのが、この辺独特のものじゃないでしょうか。三が日は同じです。御節(おせち)は、どこの家もしなさるような、黒豆、数の子、田作(たつく)り、たたきごぼうなどで、特別うちだけ変わったものをするということはありませんでした。今はこれも簡単にやってます。」
 「(**さん)2日にはわたしとこも一応初売りいうことで店(薬局)を開けますらいなあ。初売りの朝に何か特別なことをするということはありませんが、今はその年の干支(えと)(*6)のお守りをあげています。」

 (ウ)七草がゆとドンド

 「(**さん)わたしは大相撲が好きなんで、門松は相撲部屋でやっている関東飾りのようにします。松と竹が中心で梅は縄にちょこっとついているくらいで、見た目には派手やかさはないんですけど。店には、昔は『餅花(もちばな)』いうことで、色染めしたお餅を柳の枝にひっつけて飾っていました。今は、もなかの皮のようなもので、ゴルフボールのような丸い玉を作って飾っています(写真1-3-6参照)。そういうことが好きで、よく飾りつけするんですよ。『一夜飾り』というのは嫌いますので、遅くても30日(12月)には飾り、松の間(松の内(*7))は飾っておきます。
 わたしのところは、大みそかに仏壇を掃除したら、15日の朝まで2週間仏壇を締め切りにします。理由はよくわからんけど、親がしていたからということでやっています。松の間は死とか不浄を避けるとでもいうことでしょうか。その間、神様事(かみさまごと)はずっとしますけど。
 2日は店(和菓子店)を開けます。この日は、初売りの縁起を込めて、干支とかお多福のようなおめでたい絵柄のおまんじゅうや和菓子を並べるようにしています。お茶をする方が初釜(はつがま)と言われますんで、それに合うようなものも作ります。別に年の初めの仕事やからといって、普段と違うことはありませんが、気持ちの中には、今日みたいな忙しさがずっとあったらええのに、というようなものはあります。
 わたしのうちでは7日には毎年七草がゆ(*8)を作って、年賀の印として近所などに配っています。毎年持っていくところは待っとられまして、『7日がきたね。』とかいうことで、コミュニケーションが深められています。七草は、普段あちこち歩いているときに探しておいて、時期が来たら採りにいくんです。
 11日の鏡開きの日には『お帳掛(ちょうが)け』をします。座敷にちょっとした台を出して、その上に帳面を置き、鏡開きしたお餅と素味(すあじ)の小豆(あずき)、要は、砂糖抜きのぜんざいですが、それをお椀(わん)に入れてお祝い事をするんです。まあそれだけのことですから、自分の気持ちの上で納得するだけのことだとは思うんですけどね。
 門松や正月飾りは、昔は戸口で燃やしていましたが、最近は燃やすところがあまりないんで、14、5年くらい前から15日に横堀河原に集めて、ドンド焼きをするようになりました。本町1丁目公民館の行事にして、町の広報にも載せてもらっていますので、けっこう遠いところからも持って来られます。甘酒を振る舞うたり、お餅を焼いたりで、みなさんに喜んでもらっていて、今では旧町内の正月行事の一つになっています。」

 (エ)初釜の日

 「(**さん)わたしのところは商家ですので、元旦には当主が若水(わかみず)を汲(く)み、その水をお茶用や食事用等に使います。そして、御神前、御仏前にお参りして、家の者がそろって年頭のあいさつをし、お屠蘇とお三方をいただき(お三方を持ち上げて、そこに供えられている干し柿などをいただき)、お年を取ります。以前は、松の内はいろいろとしてはならないことがありました。たとえば、ほうきを使うことは、『掃き出す(吐き出す)』ということでだめでした。また、家の門を最初にくぐるのは男性でないといけないなどと、祖父がいろいろ言っておりました。
 初釜は、以前は正月の2日か3日にしておりましたが、最近はいろいろ行事がありますので、最初の土曜日と日曜日にいたします。お茶だけでなく、懐石(かいせき)(茶の湯で、茶を出す前に食べる簡素な料理)も入りますので、準備もなかなかたいへんです。懐石に使う塗膳(ぬりぜん)などは蔵から出して用意をし、料理もできるものは前日くらいまでに準備しておきます。熱いものは温かいうちに出さねばなりませんので、火を入れたらよいようにしておき、当日、お弟子さんたちにお手伝いしてもらっております。お床には『寿』などのような、新年にふさわしいおめでたい軸を掛け、お花は結び柳(長いシダレヤナギを輪結びにしたもの)にツバキ(椿)を添えて生けます。
 一人でゆったりとお茶をたてるときなどは、釜の前に座っただけで心が落ち着きます。何も考えず、無の境地で、ただ一服のお茶をたてる。そうすると、いいお茶がたつ。雑念が入ると、いいお茶はたちません。花でも心に迷いがあるといい花が入りません。」


*2:上大野村(現在の北宇和郡日吉村)の農民武左衛門らが、吉田藩の紙専売に不満をもつ農民たちを結集して起こした一
  揆。農民側が宗藩である宇和島藩領に入り、宇和島城下の八幡河原に集結し、宗藩の力を利用して要求を通そうとした点な
  ど、高度に政治性をもった一揆として注目されている。紙の専売制の廃止など、農民側の要求はほとんどが認められたが、
  指導者は捕らえられ、武左衛門は寛政7年(1795年)処刑された(②)。
*3:ともに七福神(大黒天、恵比寿、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋)としてよく知られる神である。
*4:中国の伝説上の皇帝で、民に耕作を教え、医薬を創成したとされる(④)。
*5:昔の漢方医の家では冬至の日に神農神を祭る風習があり、今も11月22、23日(旧暦の冬至)を神農神の祭日としている
  ところが多い。したがって、ここで「なぜ8日なのか」については不詳であるが、関西では旧暦の12月8日を「こと八
  日」とよんでコトハジメの日としていたことや、万病を癒してくれる仏として広く信仰されているお薬師さん(薬師如来)
  の縁日が8日であることなどとの関連が考えられるかもしれない(④⑤⑥)。
*6:十干十二支のこと。五行(木・火・土・金・水)を、それぞれ陽をあらわす兄(え)と陰をあらわす弟(と)に分けて十干
  (甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)に配し、これに十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせて60種の組み合わせをつく
  り、年・月・日の表示に用いた。一般には、狭義に十二支を指す場合が多い。
*7:正月に門松を立てている期間のことで、年神を祀る期間と一致するのが普通である。早いところでは、三が日であるが、
  7日、あるいは15日とするところが多い(⑤)。
*8:正月7日に、7種類の野草を入れたかゆを食べる習慣は、平安時代に始まるともいわれており、現在も広く行われてい
  る。七草については、時代により、また地方により差があるが、普通は、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコペラ・ホトケノザ
  (オオバコ)・スズナ(カブラ)・スズシロ(ダイコン)をいうことが多い(⑤)。

写真1-3-3 しめ飾りがかけられた神棚

写真1-3-3 しめ飾りがかけられた神棚

**さん宅にて。平成10年12月撮影

写真1-3-4 えびじめが飾られた荒神様

写真1-3-4 えびじめが飾られた荒神様

**さん宅にて。平成10年12月撮影

写真1-3-5 輪じめが飾られた弁天様

写真1-3-5 輪じめが飾られた弁天様

**さん宅にて。平成10年12月撮影

写真1-3-6 「餅花」を模した正月飾り

写真1-3-6 「餅花」を模した正月飾り

**さんの店頭にて。平成10年12月撮影